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掬水へんろ館

25日目 1999年7月19日  霧雨、のち曇り

 昨日まではハードな3日間だった。瀬戸内に出る、つまり終盤に入るという安心感を伴った緊張感が、このハードな行程をこなす支えになっていたような気がする。今日は、ハードな登りは明日にして横峰寺の手前に泊まることにしているし、逆打ちにならないように小松の町には行かないことにしているので、距離も少なくリラックスできる日だ。つなぎの区間というところか。

 朝食をゆっくり食べて、7時30分に宿を出た。まずは、すぐ近くの55番南光坊だ。細かい雨が降っているが、雨具を付けるほどでもない。水滴のついた木々の葉のシットリとした風情が、僕の心までシットリとさせてくれているように感じる。散歩中のオジサンの朝の挨拶も、どこか落ち着いているように思えるし、僕の「おはようございます」も、どことなく落ち着きがある。

 55番を打ち、途中のコンビニでおにぎりを買った。すると、コンビニの中に白人女性が二人入ってきた。どうも親子のようである。上衣もズボンも白、それに杖も持っている。外人お遍路だ。目と目を合わせ、お互いに「ニーッ」と微笑んだ。言葉は交わさなかったが、 『おーっ、やってますなー』というような、連帯感を感じる微笑みだった。

 霧雨が強くなってきたので、雨具をつけてのんびり進む。56番泰山寺には、誰もおらず、シットリとした気持ちは倍加した。急いではいないので、読経のスピードも今日はユックリだ。霧雨の中に消えていく自分の声に聞き惚れるというわけではないが、急に読経が上手になったように感じる。読経の後の合掌も、今日はずいぶん長いように感じる。雨具も服も脱いで、霧雨の中に全身を晒したい、霧雨と一体化したいというような気持ちも湧いてきた。

 外人の親子遍路と話せるかもしれないと、しばらく境内で休んだが、来そうにもなかった。おそらく順打ちの徒歩遍路ではないのだろう。田んぼのあぜ道のような遍路道を次に向かう。今日は、(いい意味で)視線がよく動くような気がする。ハードな日は、前と下だけを見つめて歩いていて、外界への感性が鈍くなっているようだ。今日は、横だけでなく上を見上げる余裕もある。だが、霧雨のせいか遠くは全然見えない。

 57番栄福寺を打ち、池沿いの遍路道を登り始めた。このところの雨のせいか、土の道はズルズルで足が滑ってこわい。歩きに集中して登り続けると汗がだんだん出てきた。舗装路に出るが登りは続く。あまりの暑さに雨具を脱いでしまった。霧雨というより雲の中のような天気で、脱いだほうがヒンヤリして気持ちいい。

 58番仙遊寺の山門が現れて喜んだが、その後の参道がきつかった。斜度的には一番の急参道ではないだろうか。手すりをつかんで身体を持ち上げた。やはり3日間の疲れが溜まっている。10時05分、汗まみれで霧にかすんだ境内にポッと出た。座り込んでしばらく動けなかった。湿度のせいで汗が引かないと思ったら、そのうちに冷えて寒くなってきたので、Tシャツを着替えた。

 仙遊寺からの下り遍路道は荒れているという遍路日記をいくつか読んだが、最近道普請が入ったのか、きれいな道だった。坂道を下り切り舗装路に出ると、軽四輪のオジイサンから車のお接待の声がかかった。もちろん断ったのだが、いつもと違うことはオジイサンとしばらく話しをしたことだ。先を急いでいる日には考えられないことだが、余裕のある日は話しが長くなる。が、これで歩く意欲が少し落ちてしまった。

 ここから59番までは、楽しみにしていた道だ。20数年前に自転車で走ったときの記憶が少し残っている。その時は頓田川の土手を走り、59番国分寺の門前を通過した。遍路コースは頓田川を上流の方で渡り、田園の中を進むようになっているが、今日は、頓田川とJRの交点を目指して進んだ。

 おかしい。まるで記憶がない。新しくて大きなバイパスが出来ているし、ずっと田園だと記憶していたのに、家が多い。30年近くも経ったのだからしようがないか。意欲が目に見えて落ちてきた。頓田川手前のJRをくぐる道で、急に記憶が鮮明になったが、よろこぶ間もなく59番国分寺に到着してしまった。

 境内に入ろうとしたら、若い男性が「お接待です」と言って、ハンドタオルを差し出した。目の前のお店の人らしい。観光地でよくあるような、売り上げ向上のための餌かなと思って躊躇していたら、「大丈夫ですよ。歩きの人には皆お接待してますから」 こちらの心を読まれてしまったようだ。元気な気持ちのよい青年だった。

 僕は、東京で10年ほど暮らした経験があり、駅前などで色々なものを手渡そうという人によく出会った。ティッシュペーパーなどだったら、すぐ受け取ってしまうのだけど、いつもと違う物には警戒心が働いて手を出さなかった。遍路を続けていても、昔の習い性は抜けないようだ。しかし、他人の親切をいぶかるようでは、遍路としては失格なのかもしれない。

 境内に入ったところで、同年代の車遍路と思われる人が声をかけてきた。そして、ポケットに手を入れて、「お線香代にしてください」と300円をお接待してくれた。「線香代」という言葉が新鮮に感じられた。今まで何度もお接待を頂いたが、この表現はなかった。自分のために使って下さいでもなく、お賽銭を託するのでもなく、とてもお接待を頂きやすい言葉に思えた。ここまで、読経前に線香に火を付けることは一度もしなかったが、さっそく、お線香代として使わせて貰った。お堂には近づかず、線香の煙を浴びながら読経した。少し煙たかったが、お経に重みがついたような気がした。

 雨が上がったので、雨具を整理し靴下を替えて、12時40分に59番を出る。58番でおにぎりを食べたが、もう腹が減ってきた。国道に出ると喫茶店があった。誰かの遍路日記に書かれていたお店だと思う。ランチを食べる。今日は追い込んでいないせいか、ペロリと食べた。「アストロ」という名のお店のためか、午後は宇宙飛行士のように軽々と歩けそうな気がする。

 ゆっくり休んで、14時前に国道に出た。この先は国道を離れ遍路コースに入ろうと考えていたが、しまなみ海道から続く高速道路の工事のため、遍路コースに入る気にもならない。仕方なく壬生川(東予)までは国道を行くことにした。濃霧が晴れて来ると暑い。自動車の騒音がうるさい。道路に変化がない。明日登る予定の山並みが正面に見えるが全然近づかない。どこが宇宙飛行士だ? これでは泥亀歩行ではないか。 午後はヘロヘロではなく、デレデレになってしまった。

 25日目 →30km、↑340m、44000歩、7:30〜16:20、東予市「東予BH」

<読経と心の平静>

 徳島を歩いている頃は、特定の人を思い浮かべて読経していました。それは、僕の父であり嫁さんの両親であり、若くして亡くなった友人達でした。いわば、供養のための読経だったように思います。

 だんだんと思い浮かべる対象者が減っていき(同じ人を何度も供養するというアイデアはなかった)、高知に入ると、思い浮かべる人がいなくなってしまいました。高知ではハードな日が多かったため、余裕がなかったからかもしれません。いずれにしても、高知ではお寺で何を祈ったのか記憶がほとんどありません。

 愛媛に入り、瀬戸内に出てからは祈りの内容が変わりました。もともと宗教に現世御利益を求める習慣はありませんでしたが、それまでの基本は、「私のために、もしくは、特定の誰かのために」祈っていたと思います。ところが、それがいつの間にか、うまくは表現できませんが、「日本の皆のために」とか「世界人類のために」というような、自分に直接関係のない大きなものへの御利益を祈るようになりました。また、祈る内容も現実的な問題ではなく、幸せとか安らかとか苦しまずとかの抽象的なこと祈っていたようです。

  理由はもちろんわかりません。でも、この頃から、お参りする時の自分の気持ちが、とても安らかで静かになるのを感じました。それまで、お参りは、お寺通過の儀式的な意味合いが強かったのですが、お寺を通過するのではなく、そこで読経して手を合わせるのだという意識が強くなりました。そして、合掌している時間も長くなったような気がします。なぜなら、合掌している時の気持ちがとても満たされていたからです。

  遍路から帰ってからも、神社仏閣にお参りした際、時々、四国でお参りした時と同じような心境にスッと入ることがあります。そういうときは、また四国を歩いてみたいと思います。が、あの辛い思いをしなければこの心境を持ち続けることができないのかと思うと、少しのためらいもあります。


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