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掬水へんろ館

26日目 1999年7月20日  霞、時々晴れ、のち曇り

 宿を出て、すぐ目の前のコンビニで弁当を食べる。今日は、60番の遍路ころがしを登る日だ。自信はある。が、霞で視界は1kmくらいだろうか。なんとなく今日の行程に不安が湧いてくる。それを打ち消すように、「行くぞー」と声を出して、6時20分に歩き始めた。

 60番へは湯浪経由のコースを選んだが、壬生川の町は遍路コースを外れており、登り口の大頭の町までは、得意の地図読みを生かして進んだ。集落を通らず田園の中の道を選ぶ。予測通りの橋や学校や寺社がドンドン現れる。楽しい。が、霞が消え始め、太陽が雲間から時々顔を出すと、暑い。風もない。歩き始めて1時間しかたっていないのに、中山川の土手で座り込んだ。まだ7時30分なのにシャツは汗まみれだ。

 「ユックリ行こう、今日は快調ではないようだから」 大頭からの登り舗装路はのんびり歩いた。横峰山の方向はまだ霞が残っているが、頭の上の雲が切れて晴れてくる。見るからに、夏空という雰囲気だ。やはり、結願まで真夏は待っていてくれないようだ。これで梅雨明けなら、明日からは地獄になる。とにかく今日は、早く涼しい山道に入ろう。さっきまでユックリのつもりだったが、早足になってしまった。

 9時30分、湯浪の舗装路終点の休憩所から、いよいよ遍路ころがしの山道に入る。陽の差し込まない林の中は、やはり涼しい。急に快調になった。ひぐらしの声が大きいが、どこか物悲しげで、うるさくは聞こえない。余裕さえ感じる登り道であった。所々にある遍路札や白い杭に、遍路に対するメッセージが書かれているが、今日は余裕のある精神状態でこれらを読んだ。

 「うん、そうだ、その通りだ」と感じた名句は、次のものである。 『時と金、かけて歩くは遍路道、この疲れこの痛み、有り難きかな』  遍路前半では、疲れや痛みを有り難いとは感じなかった。でも、今はわかる。本当に、有り難いと感じる。痛みと疲れを感じるために歩いているような気までする。快調な登りがもったいなくなって、呼吸が乱れるのもかまわず、苦しみが感じられるようにと、山道をブッ飛ばした。

 遍路道に入ってから1時間、ポコッと60番横峰寺の山門に出た。あっけない遍路ころがしだと思ったが、着いてしまったものは仕方がない。汗を拭いて、誰もいない境内に進む。10代後半に見える身体つきが華奢な女性遍路が、一人だけいた。持ち物から見て歩きのようだ。61番からの道を登ってきたに違いない。  「歩きですか?」「はい」 長い山道の下りを考えると、弱そうな彼女を一人で放っておけないような気がした。もちろん下心なんかではなく、純粋な保護者の感覚だ。

 先に読経を終え、大師堂の前で彼女を待った。「一緒に・・・」と言おうとすると、向こうが先に「あのー、下りのバスはどこから出るんですか?」 『 ???、 さっきは歩きだと言ってたのに・・・』 なにか肩すかしをくらったような気がした。彼女にとっての歩き遍路とは、全行程を歩くことではないらしい。

 11時に60番を出て、下りの急な遍路道に入ると風が出てきた。汗が飛ぶようで気持ちが良い。途中から、ほぼ平地の尾根道を心地よく歩き、ベンチのある休憩所で休む。おにぎりがうまい。「あと1週間くらいだろう。まだ難所はあるだろうが、ひとつひとつ丁寧にクリアしていけば結願が目の前だ」 気分良く後半の急坂を駆け下りる。61番香園寺に着いたのは13時15分だった。予定より1時間以上も早い。

 境内では、若夫婦のような歩き遍路が納経所の前にいた。夫婦の歩き遍路に出会うのは初めてだったので、話しかけようと思っていたが、僕がお参りしているうちにいなくなってしまった。今日は人に振られる日らしい。

 62番宝寿寺を打って、近くにある63番吉祥寺に向かう。向こうから、野宿遍路らしい汚れた服装の同年代の男が歩いてきた。 「逆打ちですか?」「61番はこっちでいいんだよね」「いいですけど、62番は?」「62番はもう打ったんだ。それで60番まで登って、64番と63番は今すませてきた」「62-60-64-63-61ですか? 無駄歩きじゃありません?」「そうかなあ、行きたいお寺へ行って、それで全部回ればいいんだろう。お寺がどこにあるかサッパリわからん」 そりゃそうだけど、こんなやり方は僕には出来ない。予想もつかない面白い人は、どこにでもいるもんだと感心した。

 今日も重くなり始めた身体にむち打って、64番前神寺に着いた。今日最後のお寺だ。このところ読経の調子がいいというのか、読経をしている時の心持ちがとてもいい。境内の奥にある本堂も、「読経を待っていますよ」という雰囲気が遠くから感じられた。

 3人の女性が、声を合わせて大きな声で読経していたので、終わるまで横でしばらく待ってから読経を始めた。5行目に入った頃だろうか、斜め後ろでドデカイ声の読経が始まった。境内いっぱいに聞こえるような大きなダミ声だ。それに、お経に独特のイントネーションがあって、何か引っかかる。読経を進めることが出来なくなった。写経を閉じて、後で最初から読み直すことにした。

 静かになった本堂で読経を再開したが、切れたリズムは戻らなかった。不本意な読経だった。大師堂に移り、あたりを見回して彼がいないことを確認してから読経を始めたが、半分を過ぎた頃、またすぐ後ろから彼の読経が聞こえた。トイレにでも行っていたのだろうか。 「まいった」 彼が境内を出るのを確認してから、読み直した。他人に影響される僕のレベルが低いのはわかる。でも、あそこまで大きな声を出さなくてもいいのにと思う。

 今日は、門前の石鎚山温泉に泊まるつもりでいた。身体はヘロヘロまでは行かず、ヘロくらいだ。横峰への遍路道はもっと厳しいものだと思っていたのに、案外楽勝だった。そして、まだ夕暮れまで時間がある。 「もっと行こう」 伊予西条の駅まで歩くことにした。どうも、ヘロヘロまでいかないと納得できなくなっているようだ。明後日の宿は決めているので、今日距離を伸ばしても、明日と明後日の距離が減るだけなのに・・・。

 歩き始めると、やはりヘロヘロがすぐやってきた。「一日の最後のお寺を過ぎるとヘロヘロが来る」という、今回の遍路で発見した格言通りで、なんとなく嬉しくなった。だが、嬉しくてもキツイものはキツイ。加茂川橋を渡り、国道から駅に向かう頃には、心の中で「イチ、ニー、イチ、ニー」とリズムを作らなければ動けなくなりそうだった。

 26日目 →36km、↑820m、55000歩、6:20〜16:45、西条市「西条アーバンBH」

<遍路ころがしと遍路札>

 歩き遍路しか通らない遍路道には、10cm角くらいの遍路札に言葉が書かれたものが、木の枝からぶら下がっています。急な遍路ころがしでは、特に数が多いようです。また、この日の湯浪からの登りでは、白い角材の杭に文字が書かれたものが、いくつもありました。

 これらは、ここが遍路道だよという道しるべの意味がありますが、それ以上に、遍路を応援したり啓発したりする意味のほうが大きいと思います。おそらく、遍路札は、以前に歩いた遍路がそのお礼として付けたものだと思われます。また、遍路を応援する先達などが寄進したものかも知れません。僕にとっては、先達が書いたような「上からのアドバイス」ではなく、歩きの先人が書いたと思われる「同じ視線からの言葉」が心にしみ込みました。

 遍路札の言葉には、「頑張って」とか「あと少し」というものが多かったので、遍路前半はあまり気にも留めませんでしたが、後半になると、書かれている言葉を噛みしめるようになりました。ひとつひとつメモをしたわけではないので、ほとんどの言葉は忘れてしまいましたが、ずっと心に残っていたのは、「時と金、かけて歩くは遍路道、この疲れこの痛み、有り難きかな」という言葉です。 (へんろみち保存協力会のホームページにもこの言葉が掲載されていますので、協力会のキャッチコピー的な有名な句なのかもしれません)

 その他で心に残ったのは、「喋るより、体験しろ」「〜〜(?)より、へんろで歩ける、幸福感」などでした。遍路を終わってみると、これらの言葉をもっとメモに書き付けておけばよかったと反省しています。その時の心理状態や体調や状況によって、記憶に残る言葉は変化すると思いますが、歩いているうちに、その人にピッタリくる言葉がきっと見つかると思います。

 遍路札について少し気になることがありました。それは札の素材と、枝に取りつける紐の素材です。金属へ字を書いたもの、プラスチック板、布、そして、針金、ビニール紐などです。年月を経て朽ち果てたほうがよいのか、いつまでも変わらないほうがよいのか、考え方はいろいろあると思います。しかし、あまりに痛んで字も読めないものや、樹木や景観に害を与えていると思われるものは、取り外しても良いのではないでしょうか。


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