![]() | ![]() ![]() ![]() | ![]() |
![]() | ![]() |
![]() |
昨夜はグッスリ寝た。というより、夕食後は「バタン・キュー」で、朝までテレビのスイッチが切れてなかった。ニュースの天気予報を待ちながら眠ってしまったようだ。朝御飯をユックリ食べて、7時30分に宿を出た。昨日の疲労が残っているかと心配していたが、歩いてみるとそうでもない。調子が悪ければ46番までと考えていたが、松山の道後まで行けそうだ。
河合までは、ゴルフ場前を通る舗装路を使って戻り、峠御堂トンネルの手前から千本峠に向かう遍路道に入った。松山の平野に続く三坂峠に進む道は、峠御堂トンネルがメインだが、5万分の1の地図では南側から千本峠、滝野越え、六部堂越えのサブルートが読める。できるだけ人の通らないルートを行きたかったが、廃道に突っ込んだ失敗を参考にして、昨日入口の遍路立て札を確かめておいた千本峠で妥協した。
峠の登りは、やはり昨日の疲れが残っており重い足が気になったが、歩く人が少ないのか、古い遍路道がそのまま残っているようで気持ちの良い峠だった。峠の下りを少し行くと、立て札がもう一度登り返せと言う。これはきつかった。でも登るしかない。登りきると台地状の高野(地名)の小さな集落に出た。汗を流したあとの景色は別物である。あづま屋のベンチに座って山々を眺める。いつもと違う感慨が湧いてきた。
身体的な課題はほぼ達成できた。あと残り3分の1もなんとかなるだろう、予定通りに期限内に結願できるにちがいない。確固たる自信があった。それに対する満足感が大きかった。 それとともに、不安も湧いてくる。『それでは、精神的な課題は達成されたのか?』 答えは出なかった。もちろん、精神的なものの課題達成レベルなんて設定していない。だが、遍路をする以上、それなりの何かが得られるはずだし、得ようとしなければならないと思う。「求めよ、さらば与えられん」というのならば、求める気持ちが小さすぎるのだろうか? また、宿題が増えた。
国道まで下り、三坂峠に続くダラダラ登りの道路を歩く。歩道の段差が苦しい。この国道の歩道は車道より一段高いのだが、脇道や民家の入口のたびに車道と同じ高さになる。そして、自転車のために段差を斜面にしているのだ。自転車だと波乗りになるし、歩行者には登り下りの段差となる。つまり、自転車通行可の歩道が、自転車のためにも歩行者のためにも辛いものになっている。横断歩道橋もそうだが、これでは老人や身体が弱い人には苦痛しか与えないだろう。道路行政に関わる人達に、ぜひ歩き遍路や自転車旅行をしてほしいものだと思う。
11時15分、三坂峠の食堂に入った。冷たい水を続けて飲み過ぎたせいか、あまり食べられなかった。うどん定食の熱いうどんがほとんど食べられず、炊き込みご飯だけを食べた。暑さのせいか体調のせいかわからないが、これで、3日続けて昼飯が不調だったことになる。明日からは少し昼飯について考え直さなければならないだろう。
三坂峠を下る。気持ちがいい。スピードを上げてみる。もっと気持ちがいい。小走りになってきた。 『俺は風だーー。いや、比叡山の千日回峰の行者だーー』 下り坂をぶっ飛ばす。坂の途中で休憩中の遍路から声を掛けられたが、返事をする余裕もなく、気がつくと遍路道は終わっていた。太股の前面は疲れてしまったが、快感の伴う疲れだった。
14時に46番浄瑠璃寺を打ち、次の47番八坂寺でお参りをしようとすると、声を掛けられた。昨日の好青年だ。お母さんの供養をするための野宿遍路だとか。30才くらいと思っていたが、もう30代も残り少ないと言う。番外も別格もすべて回っているらしい。それなのに、(悪い意味の)野宿遍路らしさがない。とても淡泊な感じがして、昨日以上に好感が持てた。今日は51番の境内で宿泊をお願いするそうだ。
お参りを済ませて先に進んだ。好青年が、ずっと先を歩いている。しかし、歩き方がなんとなくおかしい。よく立ち止まるのだ。しばらく遠くから観察して理解した。神社の鳥居、路傍の石仏、・・・、このようなものがある度に、立ち止まり正対し手を合わせる。彼の信心深さに頭が下がった。また、彼の遍路行の重さを感じずにはいられなかった。真似は出来ないと思ったが、自分を考え直すキッカケともなった。(後述)
48番西林寺を打ち、49番に向かう。道後の宿への到着が遅くなりそうなので、少し急ぎ足だ。信号待ちの時に、買い物帰りのようなオカアサンが話しかけてきた。「どこからですか?」 「茨城県の・・・」 「あら、ウチの子どももその近くに住んでいるんですよ」 並んで話しながら歩いた。でもスピードはそのまま。オカアサンには速すぎるかと思ったが、宿までは一気に行きたい気持ちが強かった。
もう1km以上は一緒に歩いている。このオカアサンはこんなに遠くまで買い物に出るのだろうか。やっと気がついた。俺もバカだ。オカアサンはきっと、子どもの住んでいる地方のことを聞きたかったのだろう。また、もしかすると、僕と子どもとを重ね合わせて、まるで息子のように感じていたのかもしれない。スピードを落とそうとすると、少し息の上がった声で、「では、私はこれで」と言って去っていった。 『考えが至りませんでした』 49番浄土寺ではお大師さんの前で反省した。
50番繁多寺の到着は17時ちょうど。今日もシャリバテで、スタミナが切れそうな身体をベンチで休めていると、納経所の人が声を掛けてくれた。やさしい目と言葉がうれしい。 この時間になって、道後にあるビジネスホテルに電話をかけた。季節と宿の数からみて、問題はないだろうと思っていたが、全然問題がなく部屋が取れた。が、まだ歩かなくてはならない。
薄暗くなってから、門前のお店も閉まり人の数も少ない51番石手寺を打ち、道後温泉に向かう。ホテルに入る前に温泉に寄ろうと思っていたが、温泉前の商店街の混雑と、温泉に出入りする人の多さで気持ちが萎えてしまった。今日は土曜日だったのだ。
急に重くなった足を運び、曇天のためか真っ暗になった道をホテルに向かう。民家の明るい窓が、なぜかうらやましく感じた。明るい窓の内側には、明るい家庭があるのだろう。
23日目 →38km、↑560m、55000歩、7:30〜18:15、松山市道後「BHツルイ」
<石仏への挨拶> 遍路の途中では、数え切れないくらい多くの石仏に会いました。特に初日は、3番から4番への遍路道に入ると、次々と小さな石仏が現れてとても驚きました。石仏の多くは、遍路途中で倒れた人の墓標と聞いていましたので、どのように対応するべきか考えましたが、特にこうするという自分の「きまり」は決めてはいませんでした。
強いて言えば、ただ無視するように通り過ぎるのではなく、心の中で「よろしく」と言いながら通るようにしていました。言い換えれば、「あなたを認識しましたよ」という意味であり、「ありがたい」とか「何か御利益を」というような宗教的な意味は含まれていません。「こんにちは」という挨拶程度ということでしょうか。
したがって、外見的には、視線を石仏に送るだけで、頭も下げずに通り過ぎていたことになります。厳しい遍路ころがしでは、苦しさのあまり石仏を睨み付けるような態度も多かったように思います。でも、常に石仏に対して感謝の気持ちは持っていました。ただ立っているだけの石仏ですが、時によっては「元気にやってるな」「頑張れよ」「まだまだ甘いぞ」など、色々な言葉を掛けてくれるように感じていたからです。
好青年の石仏に対する態度を見て、我が身を振り返り、考えが少し変わりました。 「気持ちは動作で示そう」ということです。彼のように、すべての石仏の前で立ち止まると、歩きのリズムがとれませんので、歩きながら出来る動作を考えました。まず、歩きながら手を合わすのはどうかと思いましたが、厳しい登りの途中では出来そうもありません。また、何か心の中にテレのようなものもありました。
結局は、石仏の前ではシッカリ頭を下げることに決めました。歩きながら石仏を見つめて頭を下げる、たったこれだけのことでしたが、それまでに比べ、僕と石仏との心理的距離がグーッと近づいたような気がしました。これがクセになったのか、日常に戻ってからも、たまに石仏に会うと自然に頭が下がるようになりました。これも遍路の効果のひとつでしょうか。
次へ |
![]() |
[期限付ヘロヘロ遍路旅] 目次に戻る | Copyright (C)2001 橘 直隆 |