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掬水へんろ館

22日目 1999年7月16日  曇、のち晴れ

 今日は、今回の遍路旅最大の厳しい一日になるはずである。気合いとともに、3時過ぎには起き出した。4時20分、まだ真っ暗な外に出る。内子の町並みが魅力的だとは聞いていたが、暗い中では、それもよくわからなかった。 意欲、気合いとも充実しているし、体調も問題ない。問題があるとすれば、この2、3日気になっている、耳の詰まりと腫れ気味の右足小指だけだ。が、これも急に悪化するという心配もないので、快調に小田川沿いの国道を進んだ。

 快調なのは、もうひとつの要因がある。遍路を始めて昨日まで、地図を入れるために1枚の厚手のビニール袋をずっと使ってきたが、昨夜はそれを捨てて、新しいものに変えたのだ。細かいシワと汚れのせいで、歩きながらの読図がしにくくなっていたが、今日は、歩きながらでも、地図の情報がスッスッと頭の中に入ってくる。こんな単純なことが、とても爽やかに感じる。そして、『前半から追い込むな』という鉄則を実践する落ち着きもある。今日はやれそうだ。

 8時過ぎ、15km余りを歩いて突合の三叉路に到着し、店先のベンチを借りて休んだ。ここから44.45番方面に向かう経路はいくつかある。ただ、45→44番と部分逆打ちをしないで、僕のように順打ちで44番に向かうならば、峠越えか道路迂回かに限られてしまう。事前計画で悩みに悩んだ場所だが、鴇田(ひわだ)峠の名に惹かれて、左の道を進むことに決めてあった。

 この道は、道幅拡大の工事が進行中で、広い歩道と工事中の区間が交互に現れる。片側通行の旗を振っているオジサンが話しかけてきた。 「もう、どれくらいで回りよるん?」 「今日で22日目です」 「そりゃ速いわ。普通は、ここらで28、29日じゃ」 体育会系の中年を十分に刺激する言葉であった。若い女性ではないのに、ターボがかかった。

 100mほど前方を、何となく変な男性が歩いている。笠も杖もない。とはいえ、地元の人とは到底思えない。さらにターボをかけて追いついた。普通の靴、普通のズボン、普通の長袖ポロシャツ、だのにスポーツバッグの取っ手に両腕を突っ込んで、ザックのように背負っている。『遍路なのだろうか?』 「こんにちは」と言って横を追い抜いたが、返事もない。振り返ろうかと思ったが、そうもいかない。疑問を感じながら先行した。

 広い幹線道路から、下坂場峠に向かう枝道に入ってからは登りになり、日差しも強くなってくる。10時20分、道路上の木陰に座り込み、パンをかじった。10分もしないうちに彼がやってきた。 「こんに・・・」と言おうとすると、睨んできた。まるで喧嘩でも売るような目つきである。30代に見える男性は、一言も発せず、そのまま通り過ぎていった。『何なのだろう、あいつは?』

 パンを食べ終わり、歩き始めて少し進むと次のバス停があった。屋根つきの立派なバス停を何気なく覗いたら、彼が横になって伸びている。ギリギリの野宿を続けていて、身体的にも精神的にも経済的にも余裕が全然ない遍路のような気がした。声をかけずに、静かに立ち去ることにした。

 予想に反して、気持ちよく下坂場峠を登り、鴇田峠に向かう。鴇田峠は、なだらかな登りで、軽い疲れは感じるものの、ここも気持ちよく登りきってしまった。12時30分。まだ昼時だ。それなのに、もう30km以上も歩き、600m以上も登ったことになる。快調だ。 が、変調は峠からの下り坂でやってきた。足に力が入らない。林から抜けるとやはり暑い。それに、腹が減って突然ガックリが来そうだ。久万町に入ったら食堂で飯にしよう。

 久万町に入り、食堂を探すため少し無駄に歩いたが、13時30分に小さな食堂に入った。先客が2人いて料理を待っている。焼きめしを注文した。が、水はこない。先客用のラーメン作りの手際が悪い。だんだんイライラしてきた。まだ先の行程が長いので、時間を無駄にしたくないのに・・・。イライラが頂点に達する直前に、焼きめしが出される。食堂に入ってから、すでに25分以上が経過していた。

  焼きめしを口に入れて気がついた。 「しまった、油ものだ」 食えない。3分の1ほどを、やっと出された水で何とか流し込んで、急いで店を出た。腹が膨れるはずもない。次の自動販売機でウーロン茶を買い、口の中をゆすぐとともに、腹の足しにしようとした。 「アッ、忘れ物だ」 自分が悪いのに、食堂に地図を取りに戻った時はイライラが爆発しそうだった。

 44番大宝寺からは、参道を出戻って峠御堂トンネルに続く舗装路を歩いた。トンネルの方に向かう遍路道があるはずなのだが、こんな時は予想時間通りに行動できて不安の少ない道に限る。が、この道はヘアピンカーブがあって迂回を強制されているような気がするし、トンネルの中が狭くて車が絶えないので、ますますイライラがつのった。

 トンネルを過ぎ、河合の集落で声を掛けられた。「おせっかいかもしれませんが、この先の国民宿舎はいいですよ。お風呂の値段が安くて、夜10時まで入れますから」 見ると、30才くらいの野宿遍路だ。笑顔がやさしい。僕を仲間と見て、親切に教えてくれたようだ。「どうもありがとうございます。僕は宿に泊まりますので」 「ああそうですか。じゃー、問題はないですねえ。松山あたりでまた会えるといいですね。ではお元気で」 なぜか、気持ちが爽やかになった。イライラも消えた。だが、シャリバテの身体は極限に近くなっていた。

 河合から45番までは往復の行程になる。予約した国民宿舎は、45番より手前にあるのだが、45番を打ってから宿に入ると決めてあった。ここから45番方面への経路は、ゴルフ場前を通る舗装路と、沢沿いを行く遍路道とがある。また、遍路道の途中からは山越えの八丁坂というルートも考えられる。予定としては、往きは舗装路、明日の帰りは遍路道で、時間がかかりそうな八丁坂は無理だろうと思っていた。

 が、遍路道の立て札を見て気が変わった。当然のように遍路道に突っ込んだ。おそらく変化が欲しかったのだろう。途中に八丁坂の入口看板があった。だが、今日はそんな山越えの余裕なんてあるはずがない。でも行きたかった。いつものヘロヘロを通り越した「超ヘロヘロレベル」なのに、なんということだろう。なんとか自分の気合いと折り合いをつけて、下りの遍路道を進んだ。

 国民宿舎前通過が16時15分。もう12時間も行動していることになる。このまま宿に入りたかったが、気合いで、本当に気合いだけで進む。納経帳も持っていないのに「5時には45番に着いてやる」 こうでも思わなければ、先に進む意欲が出てこない。 途中に工事中のトンネルがあった。もうトンネルは出来ているが、内壁と路面の工事をしている。『これを使えば1km近く短縮できるのに・・・。工事中のオジサンに頼んでみようか?』 でも我慢した。パンパンに張った筋肉に鞭を入れて、迂回路をとにかく歩いた。

 45番岩屋寺の登り参道は強烈だった。なかなか本堂に着かない。お寺の鐘が上の方から聞こえた。『ああ、5時かー』 お堂に着くと、納経所の女性が顔を出して待っていてくれた。上から、登ってくる僕が見えたのだろうか。「すみません、納経帳は持っていないんです」 親切に応えられない申し訳なさが先に立つ。境内を掃除する人の邪魔にならないように、大急ぎで読経を済ませた。とにかく座ったら動けなくなりそうだ。焼きめしの食堂以降、どこにも座っていない。すぐに参道を降りた。

 もう、いっぱい、いっぱい。絞ってもエネルギーが出てこない。歯を食いしばる力もない。夢遊病者のようにフラフラと帰り道を進んだ。さっきのトンネルが見える。工事時間が終わったようで、人影が見えない。あたりを伺ってから、低い柵を乗り越えてトンネルを突っ切った。高校生の頃、塀を乗り越えて学校をエスケープした時と同じようなゾクゾクッとした快感が湧いてきた。トンネルの先の道では、なぜか口笛が出てきた。

 宿の部屋に入ったとたん、ザックも降ろさずに「プシュッ、ゴクンゴクン」 廊下の自動販売機で買った缶ビールをイッキ飲みする。衣服や床に液体がこぼれ落ちるが、『今日だけは許して〜〜』飲み続けた。 喉も胃も食道も冷たさで痛い。でも、至福の瞬間だ。 「プハーーーッ」 ベッドに腰を下ろすと、20分は立てなかった。いや、立つ気が起こらなかった。

 22日目 →50km、↑1200m、76000歩、4:25〜18:00、久万町古岩屋「国民宿舎古岩屋荘」

<宿地点とコース計画>

 日程を短縮するため、事前に何度も計画を練ったことは、前にも書きました。計画で難しかったのは、30kmほどの間に宿がない場合、宿を取る地点が決められてしまうことです。

 具体的に言えば、徳島の黒河(太龍寺の先)から日和佐まで、高知の下ノ加江から延光寺まで、愛媛の大洲から久万まで(45番逆打ちの場合は除く)でした。  また、何かの理由で泊まる宿を事前から決めていたり、知り合いの家に泊まったりする場合も、宿地点が変えられなくなります。

 区切り打ちで事前に宿を予約して出発する場合や、通し打ちでも日程的な余裕がある場合は良いのですが、一般的な通し打ちの場合、宿地点が決められていると、計画が難しくなります。計画どうりに順調に歩き続けられればいいのですが、アクシデントがあって遅れたり、気分が良くて行程を伸ばした場合、宿地点という行程の制約条件がネックになってきます。

 期限付きで急いでいた僕の場合は、今まで歩いた人達の記録を読んで、それを短縮するには、どこで日数を稼いでいくかを考えに考えました。たとえば、200kmを7日で歩くのは普通ですが、これを6日にしたり、頑張って5日にするのは可能です。が、100km地点に泊まらなければならない地点があると、6日は可能ですが、5日にするのは難しくなります。

  また、宿地点まで90kmくらいを残すと、2日間無理をするのか3日にして楽に歩くか大変迷いましたし、80kmくらいを残すと、イヤでも1日40kmを歩いて2日にしなければなりませんでした。90kmと80km、たったの10kmちがいですが、それだけで次の日がずいぶん変わってきます。ですから、いつも次の決められた宿地点まで残す距離を考えていました。

  このように、毎晩、次の日から5日くらい先まで、宿をどこにするか考えていました。次の日の宿が、予定より10km手前であったり先になったりすると、また計画の組み直しです。僕自身は、このような計画変更で悩むのは好きな方で、毎夜ああでもない、こうでもないと楽しんでいましたが、一般の人は苦労すると思います。ですから、通し打ちの場合、事前計画では泊まる宿を完全には決めておかない方が、制約条件が少なくなり、なにかと余裕が出来るのではないでしょうか。


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