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掬水へんろ館

34日目 1999年7月28日  雨、時々曇り

 6時15分に宿を出た。今日も雨だが、この季節の雨は気持ちがよい。直射日光がないだけでも嬉しい。だが、歩き始めたら、昨日までとはまったく異なる感覚だった。頭は空っぽで、何も考えられないし感じられない。筋肉もスカスカで、歩いているという実感がない。地図も見ないので、なんとなく適当に進んでいるだけだ。

 最初のバス停でうまく便があれば、嫁さんをバスに押し込んで一人で走ろうと作戦を練っていたが、適当なバスがなかった。卯辰越えは諦めることにした。しかし、10番に向かって歩き始めても集中しない。まったく集中しない。嫁さんとの会話も、まともに答えていないような気がする。

 ひとつの目標をなし終えた後の、目的のない歩きがこんなにつまらないものとは驚きだった。道路も、ずっと下りで頑張る必要もない。10番近くの高速道路が見えて、やっと覚醒してきた。以前見たような風景に感じられて、少し嬉しくなってきた。そういえば、88番からここまでの道や風景はほとんど記憶していない。どことなく嬉しそうに歩き、話し続ける嫁さんの記憶だけだ。

 雨も上がり気味になってきた。10番切幡寺の入口を通り過ぎる。帰りの10番から2番まで、もう一度お寺にお参りする人が多いそうだが、10番に寄ろうという気は起こらなかった。あるのは、できるだけ早く1番に着きたいという気持ちだけだ。ただ、再び歩く9番までの道はなつかしく、記憶を確かめながら歩いた。このあたりで出会った「接待してくれオジサン」も思い出したが、あんな宿題は、もうどうでもいいような気になっていた。

 11時に、9番法輪寺の境内に入る。やはり、なつかしい。嫁さんはさっそくテントのお店に寄り、先日のお接待のお礼を言っている。そのくせ、逆にお接待をされたらしく、僕を呼んでお芋を頂けと言う。同席の地元のオジイサンが「ようお帰り。出る時のここと、帰る時の今と、えらい考え方が変わるんやのう。みんなそう言うし、ワシの時もそうやった。あんたもそうやろう?」と聞いてくれたが、答えを濁してしまった。 『そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない』 自分ではハッキリとはわからない。

 そろそろ疲れたと嫁さんが言うので、バスについて聞いてみると、この近くからは1番-3番方面に行くバスはなく、その方面に行くバスは、6番近くの鍛冶屋原から出るらしい。そこまで二人で歩くことにした。また雨が降り始めた。そしてだんだん強くなってくる。まるで1日目と同じ状況になってきた。1番に早く着きたい気持ちが一層強くなってくる。

 嫁さんをバスに乗せて、一人で歩き始める。「走りたい。早く1番に着きたい」 ザックのベルトを締め直し、杖を持ち直してユックリ走り始めた。重い。身体が鉛のように重い。歩く速さとあまり変わらないスピードなのに、500mも走れなかった。長年ジョギングを続けて、走り用につくってきた身体中の筋肉が、この1ヶ月で歩き用に変化してしまったのだろう。くやしいけれど仕方がない。

 急いで歩く。下手に走るよりも速いような気もする。5番の近くを通り、3番の門前を通過すると、向こうから遍路を始めたばかりの2人の若者が歩いてきた。雨具もしっかりしていないし、今にも逃げたそうな顔をしている。話しかけて、いろいろ教えてあげたい衝動にかられた。が、我慢した。「何より体験することが一番だ。言葉で教えたって身につくはずがない。いらないお節介はやめよう」

 遍路を終えた夜は、徳島市で美味いものを腹一杯食べて、ゆっくり休もうと、遍路に出る前から嫁さんと決めていた。今朝も、もちろんそのつもりだった。しかし、はやく四国を離れたい気持ちが、突然強くなってくる。1番にはやく着きたいという気持ちは、ゴールに着きたいというのではなく、四国をはやく離れたいという意味だったようだ。2番の門前を通過する。決断しなければならない。

 土砂降りになってきた。出発の時とまったく同じだ。これ以上速くは歩けないスピードで進む。 「見えたー。山門が見えたー」 34日間の1181km。ヘロヘロになった回数は・・・。 嫁さんの待つ山門に入り、本堂に向かう。そして、遍路は終わった。

 1番に帰っても、遍路を終えたくないと思う人が多いという。そのまま、すぐにでも2巡目に出発したいと思う人も少なくないという。しかし、僕の場合はまるで逆だった。とにかくこの場を離れたかった。理由は解らない。おそらくは、マラソンを走り終えた人が、すぐに2巡目に出発したいと思わないのと同じなのだと思う。

 「徳島に泊まらないで、夕方の船に乗るぞ。和歌山に泊まろう」 嫁さんに一方的に告げる。反論が来ないように強い言葉で・・・。そして、船の時間が迫っていたのでタクシーを呼んだ。

 港に向かうタクシーはメチャクチャ速く感じられた。 「通しで34日かー、そりゃ速いわ。そんな速い人、あんまり聞かんなー。そやけど、身体が強いだけで回れるわけとちゃうわなー。頭が良うなけりゃ、あかんわ。どこに泊まるか、うまいこと計算して決めんと、そんなに速う回られへんもんなー」 運転手の誉め言葉は嬉しかったが、返事もせず、窓からボーッと吉野川の流れを見つめていた。

 34日目 →40km、↑20m、55000歩、6:15〜15:20、和歌山市「フジヤホテル」

<まとめ>

 遍路記に記したように、今回の遍路旅をまとめる時期である最後の数日は、暑さによるヘロヘロと、結願に伴う心の空白で、あまり考えることなしに過ぎていきました。 「ヘロヘロ遍路旅」を書き終えるにあたって、このまとめをしなければと思いましたが、うまくまとめることができません。

 職場では、「登山」の授業を担当していますが、遍路をした年は筑波山、穂高岳、五竜山、鳳凰山などに登りました。毎年、「登山」の授業を終えるにあたって、学生達の感想文集を作成しているのですが、下の文章は、遍路をした年の文集に私が書いたものです。遍路経験によって感じ取ったものを、学生へのメッセージとしましたので、まとめに替えて、引用させていただきます。(登山や山や大自然を、徒歩遍路や遍路道や四国に読み替えていただければと思います)

 「登山の授業を終えて」
・ ・・・・・(始めの部分は略します)・・・・・・。
 満足に出ない出張費や、年々感じる身体的衰えを憂うことは確かにあるが、それを補ってあまりある喜びが、この授業にはある。それは、「学生の成長」とまとめることができようか。なにをもって学生の成長とするかは難しいし、成長を具体的に述べよと言われると、口ごもってしまうに違いないが、確かに実感はある。○○が良くなった、とか、△△が伸びたというものではなく、自分自身を、良さや強さだけでなく、弱さも嫌な面も含めて丸ごと受けとめられる「人間の大きさの変化」と形容するのが適当のように感じる。したがって、自分でその変化に気づいていない学生も多いのではないかと思う。

 大自然が我々に与える「ストレス」と「癒し」の微妙な配合が、このような変化を導いているのに違いない。が、いつでもどこでも、大自然は我々に何かをしてくれるわけでもないし、一言も声をかけることもしない。不思議なものだ。最近、大自然は鏡のようなものではないかと、ふと考える。普通の鏡ではなく、こちらの現象を歪曲したり、修正したり、肥大化させたり、消去させたりする鏡のようなものではないかと。 鏡を見ようとしない人には何も与えてくれないし、無視する人には厳罰を与えることもある。その一方、こちらが自然に働きかけると、こちらの姿を見せつけてくれる。それも、「もう少し〜〜しなければ」とか「〜〜はだめだよ」という修正意見を沿えて。

 登山は、この働きかけのひとつだと思う。大自然は、それに対する返事を個人個人に用意していてくれるに違いない。あとは、その返事を受容するだけの感覚器と度量が、我々に備わっているか、備えようとしているかだと思う。癒しだけを大きく求めると「レジャー」的になり、ストレスを多くして癒しの量ではなく質の変換を求めると「修行」的になるのではないだろうか。もちろん、どのレベルで山に向かうかは個人の自由である。が、山に向かう人は、「こちらの姿を映して山が語る言葉」を受け入れる力を少しでも残しておいて欲しいと思う。
 ・・・・・・(あとの部分も略します)・・・・・・。


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