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掬水へんろ館

31日目 1999年7月25日  晴れ(熱暑)

 今日の予報も34度の熱暑。9時の待ち合わせに余裕が持てるように、6時にホテルを出て、近くにあるうどん屋に入った。セルフサービスのうどん屋が朝早くから営業しているのも驚きだが、この時間でも客が絶えないのも驚きだ。さすがうどんの本場らしい。暑さで食欲がなくなることを警戒して、朝から大盛りうどんに稲荷ずしを食べた。

 歩き始めた道路沿いの公園ではラジオ体操が行われていた。夏休みの風物詩というところか・・・。歩きながら、ラジオに合わせて身体を動かしてみた。ひとつひとつの動作を、身体がほぼ完璧に記憶しているのが不思議だ。歴史のある遍路という文化もすごいが、国民全体に広がっているラジオ体操という文化もすごいものだと思う。 しかし、杖と笠を持って、手足をリズミカルに動かしたりジャンプしたりしながら歩く遍路は、どう見ても異常なような気がして、歩きながらの体操はやめた。

 何となくポケットに手を入れると、「ない。お金がない」 うどん屋で2枚の紙幣のうち1枚を使ったのだから、もう1枚あるはずなのに・・・。「1km近く戻るのは大変だから、あきらめるか」 「もったいないから戻るか」しばらく考えてから戻ることに決めた。「四国の人なら、きっと僕を捜して追っかけてきてくれるに違いない。そんな申し訳ないことはできない」

 店に戻っても、なくしたお金は見つからなかった。落としたのはお店の中ではないのかもしれない。いずれにしても、お金がないということが確認できてスッキリした。しかしこれで、30分近く時間を無駄にしてしまった。急がなくては9時の嫁さんとの待ち合わせに遅れてしまう。

 日陰の歩道を急いで歩いていると「お遍路さん、途中でこれを食べて下さい」 取れたてのミニトマトを、底の深い苺パックに山ほど入れたものをお接待してくれた。有り難い。が、重い、持ちにくい、歩きにくい。そのままザックに入れるわけにはいかないので、右手に杖、左の手の平にトマトのパックを乗せて歩いたが、腕が疲れてしようがない。79番天皇寺では、数個のトマトを頂いてから、残りはお供えにさせてもらった。

 7時30分になると、もうメチャクチャ暑い。鴨川の駅舎で一休み。500mlのスポーツ飲料でも渇きが抑えられないくらいだ。ここからは川べりの道で直射日光をさえぎるものが全然ない。そこから続く新しいバイパスも並木が小さく、日光を避ける物はなさそうだ。すこし遠回りになるが、バイパスの脇の旧道を通ることにした。が、それほど日陰はなかった。

 なんとか9時前に80番国分寺に着いた。嫁さんはまだのようだ。本堂にお参りしてから山門を振り返ると、嫁さんが満面の笑みを浮かべてやってきた。しかし、「横に並んで歩いてくる、やさしそうな紳士はいったい誰なんだ?」 幸荘のご主人が車で送ってくださったと聞いて、安心したというより反省した。「こんなことで不安になるようでは・・・・・」

 これから登る遍路ころがしに備えて、自動販売機で3本の大きな缶を買った。そして、その1本を一気に飲んでしまった。横で嫁さんが「そんな飲み方をして大丈夫?」と言うが、この何日かは一気飲みばかりしているので、自分では変だとは思わない。これからの登りでは、また汗が噴き出すに決まっているのだから、その分の補給を先にしておくだけだ。

 予想に反して、遍路ころがしの斜度はキツイものではなかった。しかし、なんとなく調子がおかしい。メチャクチャ汗が出る。いつもなら休まずに楽に登れるような坂なのに、今日は立ち止まることが多い。眼下に見える町や池や山がとてもきれいだったので、立ち止まるたびに景色を眺めた。不調で立ち止まっているのに、こうしたほうが、嫁さんが楽だろうと思って立ち止まるのだと、自分に言い訳していた。

 車道まで上り詰めて、予定通り左に曲がり舗装路を進む。道路の右に寄ったり左に寄ったりして、出来るだけ日陰を選んだ。嫁さんが、顔色が少し悪いし、なんとなく歩き方がおかしいと言うので、路側の白線の上を真っ直ぐ歩いてみた。確かにおかしい。キチンと白線の上を歩けないのだ。身体にこれといった自覚症状はないが、どうもフラフラしている。

 車道がヤケに長く感じられた。シャリバテか? 過労か? 水の飲み過ぎか? 暑気あたりか? 嫁さんがいる安心感か? 何が原因かわからないが、身体がヘロヘロになっていることは確かだ。しかし、筋肉的なものではないので、歩けることは歩ける。 頭から水をかぶりたいと思ったが、尾根道に沢水が流れているはずもない。とにかく、81番に着いてから対処しよう。

 車道から遍路道を経て、11時15分に81番白峰寺に到着する。お参りを済ませ、お堂のそばの低い石積みに座った。お昼にしようと、嫁さんが、幸荘からお接待で頂いたおにぎりをひとつ差し出してくれたが、まったく食べる気がしなかった。 「チョット寝るわ」と嫁さんにことわって、冷たい石積みの上に横になったら、すぐに意識がなくなった。

 小一時間も寝ただろうか。目を覚ますと爽快感がわきあがってきた。おにぎりもひとつ食べられた。 「さあ、次へ行こう」 日の射し込まない遍路道を歩き、車道に出たところにある食堂でカキ氷を食べると、すっかり元気が戻ってきた。82番根来寺では、残りのおにぎりも食べることができた。団体客が多いため、嫁さんの納経を待ちながらゆっくりベンチに座っていると、緑色のモミジの葉が「私が赤く染まった時に、また来てね」と言っているように感じた。

 14時40分に82番を出て、鬼無(きなし)に向かう下り車道に入ると、瀬戸内海とそこに浮かぶ島々、高松の街と屋島が目の前に大きく広がった。思わず声が出てしまうようなクッキリした素晴らしい景色だ。足が止まる。遍路の終盤になって、ご褒美をもらったような気がした。今日の昼が絶不調だったからこそ、この景色がよけいにきれいに見えるのだとも思う。

 今日の不調は、結局何が原因だったのだろうか。おそらくは、軽い熱中症の症状だったのだろう。それに、脱水になっていたのかもしれないし、逆に、水分の取りすぎで体液のバランスが崩れていたのかもしれない。喉は今でも渇いている。「よし、鬼無に着いたら、とにかく一番先にビールを飲もう」 このアイデアを嫁さんに話したら、嫁さんも大賛成だと言う。

 ところが、行けども行けども、自動販売機やお店があるようなところはなかった。盆栽通りという名前から、盆栽のお店が多い場所だと思っていたが、お店に出す前の盆栽を育てる畑(?)ばかりの場所だった。表通りに着けばお店が見つかるだろうと、かすかな希望をあてにして歩いたが、そんなものは全然ない。でも、ビールを頭に浮かべて歩いていたら、いつもの夕刻のようなヘロヘロにはならなかった。

 喉が渇いたまま、幸荘に着いてしまう。玄関で挨拶を済ませた途端、いけないとは思いながらも、「申し訳ないのですが、まず一番先にビールを貰えませんか?」と言ってしまった。こんな遍路は他にはいないだろうと思いながら・・・。格好風体は異様だし、ビールをすぐに頼むし、奥さんの目には変人に写ったに違いない。嫁さんが、昨夜のうちに奥さんといい関係を作ってくれていたのが、せめてもの救いか・・・。

 夕食後、奥さんが、明日のコースの詳細図コピーを渡してくれた。僕の地図と照らし合わせてみると、予定コースとほぼ同じルートだ。これなら僕の地図で間違えるはずがない。お礼を言ってコピーを返そうとすると、嫁さんが「せっかく下さったのだから、貰っておいたら」と言う。返せば、相手の親切を突っぱねることになるらしい。僕は「返せば、コピーがもう一度使えて無駄にならない」と思う。どちらが正解なのだろう。

 31日目 →29km、↑880m、45000歩、6:00〜16:15、高松市鬼無「幸荘」

<幸(みゆき)荘>

 事前計画の際、高松近辺の宿は、88番から逆算して決めるようにしました。ところが、最も宿があってほしい80番から83番の間に、適当な宿が見つかりませんでした。(1990年版の同行二人をもとにしています) 串間さんの遍路日記では幸荘という宿に泊まっていますが、それが、どこにあるのか全然解りませんでした。

 たまたま、インターネットで「四国八十八カ所遍路ノート」というホームページを見つけ、これを運営しているのが幸荘とわかり小躍りすることになりました。が、ホームページのどこにも住所と電話番号が載っていないのです。何月何日にそこを通るかはわかりませんし、高松まで歩き続けることができるかどうかもわかりませんでしたが、思い切って、Eメールで住所と電話番号をお聞きしました。

 メールには「順調に歩ければ、7月下旬に宿泊をお願いします」と書きましたが、僕の中では、月日を指定しない予約の意味がありました。予約をしたのですから途中で挫折なんてできません。そして、嫁さんと落ち合う宿も幸荘と事前から決めていました。 幸荘でも、7月の下旬には橘という遍路が来るのだから、奥さんの体調が優れなくても休めない、と思ってくれていたそうです。とても有り難いことです。そこへ、昨日、「橘です」と女(嫁さん)から電話があったのですから、奥さんが非常に驚かれたのも想像がつきます。

 このように、幸荘は、事前に予約した唯一の宿、インターネットで予約した初めての宿、嫁さんと落ち合った宿、ビールをいっぱい飲んだ宿、夕食で話しに花が咲いた宿、とても親切にして貰った宿・・・・、という思い出いっぱいの宿になりました。


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