昨夜のうちに作ってもらっていた弁当を持ち、5時ちょうどに、まだ薄暗い道路に出た。足摺岬まで行ければ行こう、と決めたからだ。もちろん、無理はしないし、駄目なら敗北とは考えずに途中で泊まろうとは思っている。なるだけ距離を少なくし時間をかせぐため、中村市を通るコースや四万十川河口の渡し船コースは避けて、四万十大橋のコースにした。
入野松原に入る所で太陽が出てきた。季節的に元気な日の出かと思っていたが、静かで落ち着いた日の出であった。松原の中を通らず林の海側を進んだ。この時間でも、すでにサーファーが海に出ている。浜辺や車で準備中のサーファーの何人かと挨拶を交わした。サーファーとは別世界の人だと思っていたが、大自然に立ち向かい、大自然にもてあそばれながらも自分の目標に近づこうとするという意味で、登山や遍路との共通点が少なからずありそうだ。こう思うと、彼らにすごく親近感が湧いた。
自転車登校の小学生や中学生が「おはようございまーす」と元気に追い越していく時間になり、四万十大橋がチラリと見えた。元気が戻る。8時ちょうどに四万十大橋のある堤に出た。清流というより緑の大河という風景にとまどったが、河口近くなので仕方のないことであろう。ザックから取り出した弁当はオニギリだった。串間さんの遍路日記を思い出す。 「ここで弁当を堤から転がしてなるものか」 あっという間にたいらげた。
工事中の四万十沿いの国道は歩きにくく、おまけに狭くて怖かったが、津蔵淵を過ぎるとバイパスになり歩きやすくなった。また、新伊豆田トンネルは歩道が広く、遍路のことをよく考えたトンネルに思えた。が、20分もトンネルの中を歩くのはやはり苦痛だ。とはいえ、旧トンネルまで登ることを考えれば楽にちがいない。
時々通る車の騒音に消されないよう、「振り向かないでこの道を、歩き続けて 欲しいから〜〜」と、松山千春の歌を大きな声を張り上げて歌いながらトンネルの中を歩いた。今日の歌は、気分のよい鼻歌ではなく、どちらかといえばヤケクソ気味の歌である。単調な歩きに、少し嫌気がさしてきたのかもしれない。トンネルを出るとドライブインがあった。まだ10時だが昼飯にしよう。
下の加江川に沿って進む。これこそ清流。キラキラ輝くさざ波がきれいだ。できれば河口まで泳ぎたいと思う。それに対して、地上は太陽がジリジリ焼いてくるのに微風もない。真上の太陽を避ける日陰もない。下の加江の橋を渡り、急坂を登り切ってからへたりこんだ。納屋の30cmくらいのひさしの下にベタリと座った。が、トタン板が焼けていて日向より熱苦しい。次の自動販売機まで何とか歩き、500ml缶をイッキ飲みした。なんとか正気に戻る。またゆっくり歩き始めた。
向こうから長身の遍路が歩いてきた。40才くらいだろうか。笠をまっすぐ被り、白衣も乱れなく身につけている。歩き方も背筋を伸ばしてスマートだった。それに比べて我が身はなんだ。乱れた服装に乱れた姿勢、それに表情だって崩れている。 「こんにちは。暑くなりましたね」 挨拶までもスマートに聞こえる。まだ遍路の初心者だと言うが、話す内容も、遍路の下調べが完璧なのか理路整然としている。負けた。完敗だ。だけど、みじめになんかなっていられない。足摺はまだ遠いのだ。
13時前に、大岐海岸が見下ろせる所まで来た。そろそろ宿を予約しなければならない。足摺まではなんとか行けるだろう。小林さんの「同行二人(PHP文庫)」に出ていたお風呂の大きい国民宿舎に電話した。ここは、38番金剛福寺の目の前のはずだ。 「すみません。今日は予約で一杯です。それに、国民宿舎は別の場所に建て替えて名前も変わったんですよ」 「ガーーーン」 予約がとれない可能性はもちろん承知していた。が、この時は、なにかすべてを否定されているような気持ちになった。他の宿舎に電話を入れる気もしなかったし、足摺まで行こうという意欲も薄れてしまった。
電話をするまでは、大岐海岸の砂浜を歩いて行こうと思っていたが、その気も失せた。ボーッと、何も考えられずに道路を進んだ。もう暑さもあまり感じない。全身の感受性センサーが半分くらいパワーダウンしたような感じだった。見るものも少しぼやけているようで、全然集中しない。ただ、惰性で前進パワーだけがなんとなく動いているようだ。
以布利からのトンネルに向かう登りで、少し覚醒してきた。トンネル手前を左に進んで足摺岬まで無理やり歩くか、それとも、このままトンネルを越えて土佐清水の市内に泊まるか、とにかく決めなければならない。体育会系なら当然左へ、と思っているうちにトンネルに来てしまった。決断力が落ちていた。意欲もパワーダウンしていた。40km以上歩いてきたのだから当然なのだろう。
トンネルのそばにあった新しい看板が目に入った。ビジネスホテルの看板だ。ぼやけた頭で電話番号を必死に記憶して、トンネルを過ぎて初めての公衆電話で宿泊を申し込んだ。OK。疲れがドッと表に現れた。逆に、坂道を下りきれば宿だとわかって、意欲が湧いてきた。不思議なものだ、まだパワーが残っていたなんて・・。今日の午後は本当にヘバっていたのだろうか。ただ、心のヘバリが身体に転移していただけなのだろうか。 「ほとんどの疲労は心から発生する」 スポーツ関係の書物で読んだことのある有名コーチの言葉が、なぜか思い出された。
宿に入って休む。今日は長距離と暑さで疲れ切っていたはずなのに、それほどでもない。お昼頃には完全にマイッタと思っていたのに・・・。変な一日だった。表通りの立派な食堂で、漁港ならではの刺身定食を注文した。 「ウマーーイ」 地酒・司牡丹も注文する。 「ほとんどの元気はアルコールから発生する」名コーチならぬ迷遍路の迷言である。
15日目 →46km、↑340m、60000歩、5:00〜15:40、土佐清水市「BH南粋」
<事前情報> 遍路旅の事前情報は、主として書物によるものでした。一番役に立ったのは、もちろん「へんろみち保存協力会の同行二人」です。この書物は、遍路日記や紀行文とは異なり、できるだけ客観的に書かれたものだからです。その次に役に立ったのは、出発の2ヶ月前にインターネットで見つけた串間さんの「掬水へんろ館」でした。
僕の場合は、構想段階の年月が長く、身体的苦痛を伴う旅の経験もありましたので、いろいろな情報を取捨選択して受け入れることができました。事前に特に大事にした情報は、距離、宿の有無などの行程に関する情報でした。逆に、あっても捨てた情報は、宿の良悪、食堂やお店の有無、お寺の評判などです。
なぜかというと、事前準備やプラニングが好きな性格ですので、あまり調べすぎると現地での新鮮味がなくなると思ったからです。もちろん、何も調べないで出かけるのはもっと新鮮かもしれません。が、あまりにも無知だと、現地で誰かの善意に頼ることになり、自力でやるという歩き遍路の趣旨に反することになると思います。結果的には、ちょうど良いレベルの事前準備だったと思っています。
このように事前準備がうまくいった理由ですが、おそらく、どのように歩きたいのか自分のやり方が明白であったからだと思います。言い換えれば、情報を取捨選択する基準ができていたからでしょう。
「掬水へんろ館・談話室」を読んでいますと、アドバイスを求めてはいるのですが、その人のやり方が見えてこない場合がよくあるようです。これでは、アドバイスをする人も的確な答えを出しにくいのではないでしょうか。たとえば「野宿には何が必要ですか?」という質問には答えにくいのですが、「お堂などの屋根の下の野宿を中心にして、自炊なしで歩きたいのですが、何が必要ですか?」というようなより具体的な質問には、多くの人が明確に答えてくれる可能性が大きいと思います。
掬水へんろ館の遍路日記や紀行文も情報源として活用しました。しかし、これらは、あくまで主観というフィルターを通したものですので、それなりに一歩下がって受け取るようにしました。現地で強く思ったのは、宿やお寺の良悪の情報はあまりあてにならないということです。これらは、その人の感性に大きく影響されますので人によって相当違いますし、その日の調子や状況によっても変化します。他人の感性に左右されては、苦労して歩く意味がないと思いますし、遍路は、そこで自分がどう感じたかが重要だと思っています。
この考えから、僕の遍路記では、宿とお寺の印象について、あまり触れないでおきました。もし、僕の遍路記を参考にする方がおられるなら、あくまで、体育会系中年のフィルターを通して発信した情報だということを忘れないでほしいと思います。
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