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掬水へんろ館

14日目 1999年7月8日  快晴

 本堂と大師堂にお参りして、7時05分に37番を出た。快晴微風に加えて、今日は湿度が低く風が涼しい。この2週間で最高の天気だ。急いで歩く必要のないリラックス日なので、車の少ない国道をのんびり歩く。こんなにリラックスして歩くのは初めてのことのように思う。日和佐からの半日も天気が良く、少しリラックスできたが、あの時は全身に疲労が溜まっていたし、二人との競争のようなウォークで気が抜けなかった。あの日から、まだ1週間だというのに、遠い昔のことのように思える。

 低湿のさわやかな風、丘の連なりのような低い山、牧場の牛、少ない民家・・・。まるで北欧の夏を歩いているような気分になってきた。今日も鼻歌が自然に出てくる。今日の鼻歌は「This land is my land 〜〜」とか「私の国には山がある〜〜」とかの、『日本は素晴らしいぞー』という内容の曲だ。ほんとに日本は素晴らしい。いや、四国が素晴らしいのだ。

 鼻歌のつもりが小声になり、小声が大声に変わってきた。前から来た自転車で登校中の高校生が、不思議そうな顔をして通り過ぎていった。頭がおかしいと思われたのだろうか。

 ふと気がつくと、トンネルをくぐっていた。トンネルの手前からトンネルの上を越える遍路道があったはずなのに、気持ちよく歩いているうちに見落としたようだ。トンネルの先から、下りの遍路道に入った。急斜面で注意が必要な細い道だったが、林の中の涼しさを満喫していると、あっという間に下の国道に出てしまった。

 片側通行の道路工事場所があった。トランシーバーを持った誘導員は、「お遍路さん一人通ります」と連絡した後、僕の前を工事区間が終わるまで歩いて先導してくれた。通行中の一般車を止めたままである。そして別れ際に、「気をつけて歩いて下さいね」とまで言ってくれる。これは、道路工事に気をつけろではなく、遍路旅を成就するようにという意味であろう。ありがたい。申し訳ない。

 なぜ、こんなにまで遍路に親切なのだろうか? お大師さんと同行二人だから。それは、もちろんわかっている。しかし、それだけでは説明できない何かを感じる。「四国・おそるべし」の中身を徹底的に探索したい気持ちになるが、きっと明らかにはできないようにも感じる。

 それでは、自分もお接待の心が持てるのか? 心がけならできると思う。が、実行できるかどうかは疑問だ。態度と実践の間には大きな溝があるが、ここまで実践に結びついている心とはどのようなものだろうか? また疑問が湧く。遍路以外に対しても同じように親切なのだろうか? 疑問は廻り廻って、いつもの、僕にお接待を受ける資格があるのだろうか? に帰着する。結論はもちろん出ない。

 佐賀温泉からは、国道を離れ対岸の小道を進んだ。蝉の声がうるさいほどに聞こえる。 「夏だぞ、夏だぞ、俺達の夏になったんだぞ」 蝉のうれしさが僕にも伝わってくる。田の手入れをしているオジサンがいた。 「もうこの時期に稲穂が垂れていますが、ずいぶん早いのですね?」 「このあたりは台風が多いきに、4月に田植えして8月の中旬には刈り入れちゅうことだ」 「へー」 「ところが最近の台風は来るのが早くて、ハハハハ」 明るいオジサンの笑い声に元気をもらったような気がした。

 11時40分、国道沿いのコンビニに入る。 「外のベンチで弁当を食べてもいいですか?」 「どうぞ、どうぞ」 新聞も買って、食べながら読んだ。活字中毒気味な僕にとって至福の時だった。氷アイスも買い足して、さらに読む。気がつくと、ここに着いてから1時間が経過しており、お店の人の眼も少し険しくなっていた。

 佐賀の町を抜け、鹿島の先の岬に行くと、軽四輪のバンのお店があった。遠くにかすんで見えるのは足摺岬だろうか。足摺とのご対面を祝ってカキ氷を食べることにした。代金を払おうとすると、オネエサンがお接待だという。 「お金には困っていないので受け取って下さい」 「ウチでは歩きのお遍路さんから貰わないようにしていますから」 受け取る気配もない。午前中からの疑問が、またグルグル廻りはじめた。

 井ノ岬のトンネルを過ぎて、有井川に入った。海が美しく、ずっと左横を見ながら歩き続ける。道路の先に目をやると、100m先のゆるい坂道をオバアサンがゆっくり歩いてくる。そして立ち止まり、手提げ袋の中に手を入れて何かを探しているようだ。また、海を見ながらしばらく進み、前を見ると、目の前にさっきのオバアサンが腕を突きだして立っていた。

 シワの多い顔に満面の笑みを浮かべている。年令は80才を越えているようだ。驚いたことに、突きだした手のひらの上には500円玉が乗っていた。 「おばあちゃん、おいくつですか?」 耳が遠いのだろうか、答えがない。そのかわりに手のひらがさらに突き出された。ためらう余裕もなかった。合掌してからお接待をいただいた。

 オバアサンのなけなしの小遣いではなかったのだろうか? うれしさより申し訳のなさが強かった。オバアサンは何事もなかったように、ゆっくりゆっくり杖を突きながら坂道を降りていった。動けなかった。細くて小さな後ろ姿を見送るだけだった。しばらくして我に返り、強く握っていた500円玉をもう一度見つめた。手のひらの汗で濡れてはいたが、きれいなきれいな500円玉だった。

  すごくエネルギーの貯まる一日だった。今日はキネシオテープを貼らなかったので、左の脚の筋肉にまだ少しの痛みがあるが、マメは気にならなくなってきた。剥がれた皮膚も近いうちに気にならなくなるだろう。明日は、予定を変えて足摺岬まで足を伸ばそうか。積極的で前向きな自分が戻ってきたようで、なんとなく嬉しい。

 14日目 →32km、↑160m、47000歩、7:05〜15:30、大方町「民宿みやこ」

<お接待>

 遍路に対して、四国ではお接待という習慣があることは、もちろん知っていました。また、お接待を断ってはいけないという「きまり」も知っていました。が、知識があることと体験することの間には、大きな隔たりがあることを実感しました。若い頃に無銭旅行のような旅を何度か経験しており、四国以外で飲み物や食べ物の施しを受けたことがあります。その頃は、まだ依存的で大人に成りきっていなかったせいか、また金銭的に追い込まれていたせいか、感謝や感激のみで申し訳ないという気持ちは薄かったように思います。そのためか、素直に施しを受けられたと思います。

 しかし、四国のお接待はレベルが違いました。まず、回数が多いということです。何日かに一度ではなく、毎日のように何かしらのお接待(気持ちも含んで)を受けていたといっても過言でないと思います。この日のように、お接待を続けて受けることも珍しくないことです。密度が濃いとでもいえましょうか。

 もうひとつは現金のお接待があるということです。飲み物や食べ物は、比較的軽い気持ちで受けることができましたが、現金のお接待は重みが違い、感謝だけでは済まされない気持ちになることが多かったように思います。

 お接待を受ける人の考えにも、いろいろなレベルがあると思います。
1. 重すぎて、申し訳なさが先にたつ。受けにくい。
2. 感謝の気持ちが大きい。とまどいながらも素直に受け取れる。
3. 感謝の気持ちがある。当然のように受け取る。
4. 当然だと思う。お接待のチャンスを待つ。
5. 権利だと思う。お接待をねだる

  相手や、状況や、経済状態や、お接待物品により、このレベルも変わるでしょうし、ひとりの人でも遍路経験日数により変化していくのかもしれません。遍路の「きまり」は2をイメージしているのだと思いますが、遍路中は、2のレベルでも抵抗を感じることがありました。今でも、同じです。人の善意ですから、その善意をしっかり受け止めることはとても重要なことはわかります。しかし、その善意が受け取る側に重すぎる場合も、本当に断ってはいけないことなのでしょうか。

 さらに考えたのが、4と5は許されるかどうかです。「遍路をしているのだから、お接待は当然だ。貰ってやっているのだから」というような遍路が現れないことを祈るばかりです。ましてや「お接待をちょうだい」と自分から言い出すようでは遍路の資格がないように思います。

 このような、人の善意を意識無意識にかかわらずあてにしており、それを当然と思う考えの人が増えれば、お接待の文化にどう影響するのでしょうか。日常を見渡すと、そのような人が増えているようにも感じますので、時代に合わせて、少しずつお接待の形態や回数が変化していくような気がします。

 托鉢とお接待を求める人との違いについても考えました。托鉢とお接待が当然と思う人との間には、表面的な行動から見ればそれほどの違いはなさそうです。が、この二つの間には厳然としたラインを引きたいという気持ちがあります。両者を分けるのは、おそらく、修行とか宗教心などの内面的な違いなのだと思います。この意味で、僕のような遍路の端くれには、4.5のような対応は考えられませんでした。

 遍路を終えて、現金のお接待が手元に残りました。使う資格があるかどうかに結論が出なかったからです。「お賽銭に」と託されたお金はお寺に納めましたが、「なにか飲んで」とか「どうぞ」と手渡されたお金には手をつけられませんでした。両替もする気になりませんでしたので、渡されたお金そのものを持ち歩いていたことになります。この現金は、僕にとって一種のお守りのような効果があったように思います。

 現金のお接待は、次のお寺のお賽銭にするのが普通らしいですが、そうしなかったのは、善意にこたえるために、はっきり善意となる使い方をしたかったからです。帰宅してからしばらく考えた後、災害の義援金として寄付することに決めました。お接待のお金は手元になくなりましたが、お接待をくださった方々の思い出とお気持ちは決して消えないものだと今も思っています。


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