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掬水へんろ館

12日目 1999年7月6日  曇り、時々晴れ

 6時30分、同宿の大将と女性遍路より先に宿を出た。秋山の集落のあたりは道路脇に流れを引いており、この水がとても気持ちいい。時々アジサイなどの花が流れてくるのも風情がある。しかし、2つに切ったナスが流れてくるのには驚いた。上流の台所から流れてくるのだろうか? そういえば朝飯時だ。ナス自体にとっては流れていくのが良いのか、味噌汁の具になるのが良いのか、ナスの人生を考えてしまった。でも、ナスの判断で流れているのではないことは確かだ。我々は人間でいる以上、流れにまかせず自分で人生の判断をしたいものだと思う。では、自分の半生はどうだったろうか・・・。

 気分が良いせいか鼻歌が出てきた。遍路で初めて出た鼻歌か? そういえば、これまで余裕がなかったもんなー。
鼻歌は、浜口庫之助の「どこへ行くの、小川の水よ、〜〜」という曲で、流れる水と自分の旅を重ね合わせ、水を追いかけて旅を続けようという歌詞だ。ずいぶん昔に歌ったきりで、最近は忘れてしまっていたのに、僕の気持ちにピッタリの曲が湧いてくるのが不思議だ。

 34番種間寺を過ぎて田園地帯を歩く。ビニールハウスの中は田植え前の田んぼのように水を張っている。作物を考えるが全然予想もつかない。ビニールハウスに首を突っ込んで、働いているオバサンに聞いてみた。 「ここでは何を作っているんですか?」 「ナスとかキュウリとか」 「なんで水を?」 「いやいや、こうやって土地を休ませているんですよ」 ああ、びっくりした。ナスとキュウリの水栽培かと思った。そんなことはあるはずがないのに。

 仁淀川を渡る。たおやかな流れとはこのような川を言うのだろう。土佐市の市街に入っても、いたる所に引水が流れている。水というのはなんと良いものなのだろうか。鮎喰川、牟岐川、海部川、奈半利川、物部川・・・、いつも水を見てホッとした覚えがある。固まった心が溶けていくような感じだ。まだ見ぬ四万十の流れを想像する。これからもやるぞ、という意欲が湧いてくる。

 市街地を抜けると道路工事に出会った。オニイサンが手を休め上の方を指さして、 「あそこまで行くんだよー」 とニタニタ笑っている。応援なのだろうか? ひやかしなのだろうか? 確かに34番清滝寺は高いところに見える。 「いつも、こんな登りを歩いていますから大丈夫です」 と歩き続けた。

 始めのうちは、苦しそうな道に来ると、「あと、〜〜」「まだ、〜〜」というように、主観的な感情をまじえた判断をしていたように思う。この頃は、「距離○○km、登り△△m、普通に歩いて××分」と客観的な情報だけをもとにして考えるように変わってきているようだ。また、目測だけで所要時間が大まかに推測できるようになってきた。登りはきつかったが、34番へは推測通りの時間についた。

 帰り道のオニイサンの言葉は、「もう帰りですか? 本当に行って来たんですか? めちゃくちゃ速いですね。では、この先も頑張って」に変わっていた。スピードを誉められて、体育会系らしい満足感があった。が、実は、下りになるとやはり左の脚と右足のマメの痛みが残っていて、顔をしかめることもあったのだけど・・。少し無理をしてしまったのか? けしかけられると、すぐに勝負したがる体育会系の性格は、死んでも治らないのだろうか?

 土佐市の国道で大きなスポーツ店を見つけた。先日電話したトレーナーに、痛めた脚の筋肉にはキネシオテープを貼るといいですよ、とアドバイスされていたのだ。おそらく売ってはいないと思っていたが、キネシオテープが並んでいた。今履いている調子のよい靴下もあったので、喜んで2枚も買ってしまった。奥さんの対応がとても感じが良かったのも一因である。また、和顔施に負けた。

 時刻は12時。宿に予約を入れなければならない。このところ脚の調子が良くないので、午前の様子を見てから予約をするようにしている。今日の悩みは、37番までの90kmを2日で行くか3日で行くか最終判断しなければならないことだ。宇佐、須崎と2泊するか、それとも1泊か? 1泊なら高級なホテルしか泊まるところがない。

 決断は以外と早かった。そう、読者のみなさんの予想通り「1泊2日の90km」(そろそろ体育会系の思考過程がおわかりになっていると思います) そして、宿代は2泊をかけると考えれば、もしホテルが高くても1泊ではおつりが来る。さっそく電話を入れる。 「1泊2食で、1万2千・・・。」 これでは、おつりも来ない。でも、もう半分やけくそ、お金のことは考えないことに決めた。

36番不動明王と
36番不動明王と

 トンネルの近道を避けて、とても感じのいい塚地峠を越えて宇佐に入り、宇佐大橋を越えて、15時ちょうどに36番青龍時に着く。本堂前の不動明王とにらみ合った。 『にらめっこは俺に勝てるはずがない。お前の負けだ。だが、遍路行では負けるな。負けたら承知しないぞ』 不動明王は鬼コーチのような目つきで、僕に語りかけてきた。いや、檄をとばしてきた。 「負けるわけがないだろう」と答えたが、まだ本当の確信はなかった。

 帰りの宇佐大橋の上で、また大将とバッタリ出会った。 「相変わらず速いですね」 「いえ、それほどでも・・・」 体育会系を刺激する言葉が出てくる。もう思考パターンを読まれてしまったのか? この時間では大将は宇佐泊まりになるだろう。そうなると、もう大将とは会えないかもしれない。なんとなく寂しい気持ちになる。振り切るように、「また会いましょう」といって別れた。

 今日も夕刻からの地獄が始まった。距離を表示したホテルの看板の数字が信用できない。横波三里の深い入江を迂回する道は、まっすぐの橋を架けてくれれば5分の1以下の距離になると思えるほど湾曲している。左脚は力が抜けるし、右足のマメが痛む。我慢できずに、自動販売機の前で座り込んだ。お茶とアンパンがめちゃくちゃうまい。「行くぞ」と自分に声をかけた時には、思わぬほど時間が経過していた。

 途中の防波堤の片隅に、漁具小屋があった。三方が壁で床は板張りである。野宿に最適だなあと思いながら近づくと、40才くらいの野宿遍路が中から顔を出した。考えることはみんな同じのようだ。 「どうです? 今夜は一緒にどうですか?」 「ここは最高ですね」 「ね、いいでしょう」 「僕は宿をとってますので」 漁具小屋と高級ホテルの落差を考えてしまった。あんな高価なホテルに泊まるのと、漁具小屋で野宿をするのと、どちらが本当の遍路精神を持っていると言えるのか。答えは明白である。 「・・・・・。僕に今できるのは、苦しくても休まないで宿まで行くことだけだ」 とにかく歩く。

  18時30分、少し暗くなり始めた頃、ホテルに着いた。やはり遍路には似合わない宿だった。大きな大きな湯船のある風呂では、手足を大きく伸ばすことができたが、あふれるお湯がもったいないと思った。とにかく、何においても「もったいない」宿だった。
   
12日目 →43km、↑380m、57000歩?、6:30-18:30、「グリンピア土佐横波」

<宿の選択>

 35泊の内訳は、ホテル(1泊),ビジネスホテル(15)、民宿・遍路宿(10)、旅館(3)、国民宿舎等の公共の宿(4)、宿坊(2)でした。朝早く出発することや、食事の予約がないので申込が遅くても良いことから、後半はビジネスホテルが多くなりました。コースが都市に近いことも影響したようです。

 でも、宿を選ぶ一番の根拠は、宿の種類ではなく行程です。この日のように、行程的に望ましい場所に一つの宿しかない場合、もう選択の余地はありません。逆に、泊まろうと思った場所に数件の宿がある場合は、選ぶのに困りました。判断の根拠がありませんので、名前の感じだけで選んでいたようです。どの宿になっても、良い悪いというのはあまりないようです。遍路料金では、風呂と食事と寝床があれば、もうそれで十分ですし、食べて寝る以外にそれほど楽しみを求めているわけではないのですから。

  もうひとつの選び方は、評判によるものです。出発の前から泊まろうと決めていたのは、佐野の「岡田」と鬼無の「幸荘」でした。これは宿の評判というのではなく、岡田の名物オバアチャン(お世話になりました。合掌)と幸荘の名物奥さん(お身体は大丈夫ですか)にお会いしたかったからです。この2つは、宿を決めた後で前後の行程を組みました。

 予約については、できるだけ前夜にしようとは心がけましたが、体調をみながらも可能であれば少しでも先に進みたいと思っていましたので、お昼頃に予約することが多くなってしまいました。比較的空いている夏遍路だったから良かったのかもしれません。夕刻まで判断がつかず、到着直前に申込をした日が3回ほどありましたが、やはり断られることがあり、精神衛生上よくはありません。夏でもあり、駄目な場合は野宿という選択肢をいつも持っていましたが、それでも夕方に一度断られるとガックリきました。

  宿にしてみれば、早めに予約してくれた方が良いに決まっています。が、遍路の都合だけでいえば、遅いほうが良いことになります。この矛盾の妥協点は、前夜か当日の朝くらいでしょうか。これであれば、宿は食事の材料購入の余裕もあるし、遍路もその日の行程を考え直す時間的余裕もあるでしょうから。


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