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掬水へんろ館

10日目1999年7月4日  曇り、時々晴れ

 朝食を食べたあと、7時15分に宿を出た。国道までは急な下り坂だ。恐る恐る足を運ぶ。昨日痛めた脚に痛みとか力が入らないということはない。いろいろな歩き方を試してみた。今日は28番手前までの少なくても25kmは歩きたいと思っていたが、なんとか歩けそうだ。

 高曇りの空の下、海と安芸の市街がきれいに見える。こんなに遠くまで見えるのは何日ぶりだろうかと考えた。6日目と7日目の日和佐から尾崎までの2日だけで、残りは雨が降るか、雨が降らなくても低い雲の日が続いていた。天気がいいだけで気分も軽くなる。しかし、いつ脚が悪くなるかわからない。慎重に、慎重に・・。

 安芸市では朝市が開かれていた。そうか、今日は日曜日なんだ。曜日の感覚はすでになくなっていた。登校する子どもや学校で子どもを見なかったのはいつだろうと思い出してみた。そういえば焼山寺下の神山町の中学校には誰もいなかった。あれから1週間か。ずいぶんたったなー。いや、昨日のようだなー。距離の感覚も日数の感覚もなくなっているようだ。

 サイクリングロードを進む。車や段差がなくて歩きやすい。が、お店がない。10時だというのに腹が減ってきた。耐えられず国道に出ると喫茶店があった。 「モーニングをお願いします」 「どのモーニングにしますか?」 「どんなものが?」 「おにぎりモーニングと・・・」 「そっそっ、それください」 四国のモーニングはすごい。異常だ。値段が安いうえに腹にたまる。10時だというのに店は満員だった。みんな日曜の朝寝をして、モーニングという名の昼飯を食べているにちがいない。それとも、昼にはうどんでも食べるのだろうか? 

 喫茶店では氷をもらって大腿を冷やした。少し前から違和感があり軽い痛みもあった。お礼を言って店を出る。少し進むと、声を上げながら喫茶店のオネエサンがダッシュして追いかけてきた。忘れ物だった。遍路を始めてから出発の際は、電車の運転手のように声を出して「ワン、ツー、スリー」と確認することにしている。1・2・3は、「頭、右手、左手」であり「笠、杖、地図」である。地図を忘れていたのだ。初めての忘れ物である。

 ついでといってはなんだが、お店で聞きそびれた薬局の場所をオネエサンに教えてもらった。薬局で買ったのは、筋肉痛の薬と瞬間冷却スプレー。店内ですぐに使用すると、女性の薬剤師が心配そうに寄ってきて、試供品の2種類の軟膏を手渡してくれた。塗らなくても持っているだけで効き目があるような気がする愛情のこもった薬だった。

 晴れてくると暑い。国道から海辺のサイクリングロードに出ようとするが、連絡路が見つからない。しようがないので、民家の脇をすりぬけて防砂林を突っ切った。すぐに力技に頼ろうとするのは、体育会系の悪い点だとは知りながら・・・。 
海辺の風は涼しかった。琴ヶ浜ののんびりした風景も爽やかだった。 「琴ヶ浜かー。いい名前だなー」 「琴ヶ浜といえば内掛けかー」 同名の昔のお相撲さんを思い出してしまった。なんとなく暑苦しくなった。

 日陰やトンネルが涼しいサイクリングロードを進み、香我美町に入った。時刻は13時前、宿を決めて予約をしなければならない。今日の距離は35kmになるが土佐山田の駅まで行くことにした。遠い方の宿にする必然性はなかったが、なぜか、きつい方の行程を選んでしまう。もうひとりの自分がささやく「お前、本当に大丈夫か? 脚は調子悪いんだろう?」 答えは「行くしかないんだよ」 全然答えにはなっていない。

 ここから28番大日寺までの8kmはさすがにきつかった。左足がだんだん利かなくなってくるし、左足をかばうように歩いたため右足の新しいマメが最悪になってきた。このような時は止まっては動けなくなる。黙々と道路だけを見て2時間あまり歩き通した。歩いたというより、杖にしがみついて足を引きずったというほうが正しいように思う。

 お参りを済ませた大日寺の境内のベンチで、靴と靴下を脱いだ。マメがでかい。500円玉を3枚重ねたくらいだろうか。水を抜こうと針と消毒薬をザックから取り出して、右足を左膝の上に置いた。マメに刺した針を抜くと 「プシュッ」 という音と同時に、マメの水が僕の顔にかかった。勢いと根性のあるマメだった。

 マメから解放されたことより、精神的に解放されたことのほうが大きかった。宿まであと5km足らず、約1時間。17時すぎには着けそうだ。右足には新しい靴下とスポーツサンダルを履いて、ゆっくりと土佐山田駅に向かった。やっと景色も目にはいるようになってきた。しかし、左足は靴で右足はサンダルのノロノロ遍路は、地元の人の目にどのように写っていたのだろうか?

 ビジネスホテルに落ち着いて風呂と洗濯を済ませると、外へ食事に出る元気がなくなっていた。ホテルだから1階にレストランがあるだろうと部屋から降りると、そこは焼き肉屋だった。ふと精進料理という言葉が頭をかすめるが、すぐに遍路のレギュラー選手ではないからいいんだと言い訳する。ある時は遍路だと主張し、ある時は遍路の端くれだと言って逃げる。そのうちにバチがあたるにちがいない。
この日は食べた。身体が要求したということにしておこう。焼き肉が3人前、ご飯が2人前、それにビール。実はもう少し食べたかった。

  バチがあたったのか、この夜は12時に目覚め、夢を記録しているうちに(後述)目が冴えて寝つけなくなってしまった。

 10日目 →35km、↑140m、?歩、7:15〜17:05、土佐山田「ホテルダイワ」

<夢と卒業論文>

 掬水へんろ館の「のらくら遍路」でおなじみの北村香織さんをご存じの方は多いと思いますが、彼女の卒業論文 「遍路の持つ心理療法的意義についての一考察」の被検者になったのが僕でした。きっかけは「へんろ館の談話室」で、もう僕の出発間際のことです。

 彼女からの依頼は、遍路中に見た夢をすべて記述して欲しいとのことでしたので、目覚めると忘れないうちにノートに書いていきました。朝ならまだいいのですが、夜中に目覚めたときは書こうかどうしようか迷いました。前半はなるべく書くようにしていましたが、後半になると、目覚めたときに強く記憶するように念じながら眠ると、朝になっても覚えていることが多くなり、朝にまとめて書くようになりました。

 僕に夢分析をする力はありませんので、遍路途中では、面白い夢をみるものだと思うだけでしたが、彼女の卒論のコピーを送ってもらって読むと、興味深いことがいくつかありました。特に興味を引かれたのは、男性の夢から女性の夢に移行していったことです。

 僕が主人公のプライベートな夢には触れませんが、前半の夢の主人公はほぼ男性で、それも支配的、リーダー的、活動的、コーチ的であることでした。ところが、29日目のあと5日を残した段階でシュワルツネイガーやジャンボ尾崎という超男性的な人の夢を見てからは、一変して女性が主人公の夢に変わりました。北村さんはこの変化に注目していましたが、僕自身に現実的な変化はあったわけではありません。もしあったとすれば、意識の深層の自覚できないレベルの変化ではないかと思います。

  もちろん表層的な内容の夢も少なくなく、面白いものもありました。遍路荷物の先着便の商売を始めようとしたり、荷物を持っていない遍路をとがめる関所があったり、もらいすぎたオツリを1日かけて返しに行く遍路がいたり、辛さに顔をゆがめると老遍路にもっと笑えと叱られたり、四角四面の堅物遍路が出てきたり・・・。これらは自分のことや出会った人に関連しているようで、ノートに書きながら笑ってしまうこともありました。

 遍路中にお大師さんの夢を見ることが多いということですが、僕の場合は、自宅に帰った日にお大師さんでなく「観音さま」の夢を見ました。夢の中の遍路途中でおいしい水をいただきましたが、その女性がなぜか観音さまに見えました。

 遍路中に観音さまのインパクトがあったわけではありませんので、どうして観音さまが登場したのかよくわかりません。一番気に入っている仏像は以前から不動明王でしたので、夢に出てくるのは不動明王でもおかしくないのにと思っています。やはり、深層心理の世界で、男性的イメージ(不動明王)から女性的イメージ(観音さま)の移行がなされたのでしょうか?


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[期限付ヘロヘロ遍路旅] 目次に戻るCopyright (C)2001 橘 直隆