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掬水へんろ館

5日目 1999年6月29日  豪雨、午後から小雨のち曇り

 7時前に靴を履いて玄関に立った。雨が急に強くなる。しばらく考えて部屋に戻った。 「今日は全身濡れることを前提にして着替えよう」 長ズボンを短パンに替え、シャツも濡れた状態で一番保温性のよいものに着替えた。ジョギングシューズも袋に入れてスポーツサンダルに履き替えた。

 豪雨の中を出発。サンダルだから1分もしないうちに足はずぶ濡れになった。しかし、雨具と笠の威力は絶大で、汗をかくまでは身体は爽やかなままだった。
 新人遍路には遍路の正装はおこがましいと思い、白衣や輪袈裟は身につけなかったが、少なくとも遍路であることを表明するために、実利的なアイテムである笠と杖だけは持った。杖も昨日の山道で重宝したが、それ以上に笠の力は絶大であることを、雨の多い今回の遍路で痛感した。もし折り畳めるのならば登山にも用いたいくらいだ。

 なだらかな大根峠を越える。山道を歩いているのか、小川の中を歩いているのか分からないくらい、雨が山道を流れていく。ザザザザ・・・ではなく、ドドドド・・・というような雨音だ。でも、心は楽しい。竹林はとてもきれいだし、子どもの頃雨の中で走り回った思い出が浮かんでくる。もっともっと山道が続いていてほしいと願った。

 9時過ぎ、22番平等寺で元校長に追いついたので、読経を一緒にさせて下さいとお願いし、横に並んで読経した。読経に慣れた人に付いて読むと、まるで自分が上手になったような錯覚に陥る。大師堂のお参りを終えると、元校長が杖を長い階段の上の本堂に忘れたと言う。こんな杖取りのお接待なんて楽勝だと思って走って登ったが、昨日までの疲れが残っていて結構きつかった。

 まだ豪雨の続く月夜(地名)を過ぎ、国道目指して車の通らない道路に入った。道の真ん中に大きな竹が倒れている。今までのお接待の恩返しと考え、竹を道ばたに力をこめて引っ張る。遍路ころがしに負けないくらいきつかった。

 しばらく進むと、なんと今度は倒木が道を塞いでいるではないか。今度の倒木はさっきの竹より重そうだ。だれかに試されているような気がした。 『これを片づけないと、もうお接待を受ける資格がないぞ』 こうなったらやるしかない。ザックを降ろして、倒木を引っ張ろうとするが全然動かない。車1台分が通れるだけのスペースが作れればと、そばにあった棒を使いテコの原理で少しずつ寄せていった。もう動けないと思うくらい頑張った。

 もうすぐ国道という遍路道。 「国道左に登る」という協力会の看板があった。前方30mくらいの斜面に、水道施設か何かの四角いコンクリートの小屋が見えた。とても急なコンクリートの小道を登り、金網のフェンスの戸を開け、小屋の壁に取付けた固定はしごを登って屋根に出て、またフェンスの戸を開けて、小屋の上の小道に出る。倒木処理の筋肉疲れでつらかったが、冒険的でとても面白い。でも、本当にこれが遍路道だろうか? 年輩の人や女性は大丈夫だろうか?  だれかの遍路記には「フェンスを通るときには戸を閉めるように」という記述があったような気がするから、間違いではないと思うが・・・。
 (ここは、看板の地点をすぐ曲がり竹林の中を通る小道が正解です。小道の入口は登りではなかったために間違えたようです。でも、間違えたほうが面白いかもしれません。負け惜しみかな・・?)

 国道55号に出るが、雨と風とトラックの水はねのせいで、笠から手が放せない。袖口から雨が入り、腕をつたって身体が濡れるがどうしようもない。トンネルに入るとホッっとした。腹が減ってきたのでカロリーメイトをかじるが、雨のせいで食べる前からジメジメしていてうまくない。星越茶屋はまだか?

 12時、星越茶屋で牛丼とうどんを食べる。とても幸せな気分だ。雨も少し弱くなってきた。元校長を待ったが、現れそうにもないので先に進む。後で聞くと、途中で風に笠を飛ばされて、それを回収するのが大変であったらしい。

 今日はパトカーが多いなと不思議に思いながら、日和佐を目指して国道を歩く。深瀬(地名)にU字溝を使ったベンチがあった。ありがたい。おまけに、山から水を引いて手水鉢まで置いてくれている。どっかりと座って、前を見て驚いた。田んぼに川の水が流入しているではないか。遠くには心配そうに田んぼを見つめている人々も見える。そうか、パトカーは被害の見回りをしていたのだ。

 でも、一遍路にできることはない。地元の人でもできるのは祈ることだけなのだろうか。土のう積みでもやるのなら、お手伝いできるのに・・。できるのは、被害が小さいことを祈りながら、ただ歩くことだけ。一人の人間の小ささを実感した。

 阿波の札所はもうおしまいと安心したせいか、午後はヘロヘロになり、マメも最悪になってきた。が、どうにか23番薬王寺を打って宿に入る。元校長もほどなく到着した。

 お互いに濡らしたものは少なかったので、元校長のものと一緒に濡れたものを洗濯機で洗った。乾燥が終わったので、衣服を畳んで元校長の部屋に届けるつもりだが、上手に畳めない。もうずっと前から、適当に畳んだことはあっても、きれいに畳んだことがないのだ。 「すみません。うまく畳めないんですけど、洗濯物を持ってきました」 「奥さんのありがたみがわかるだろう」 「はい、よくわかります」 笑って答えたが、嫁さんのありがたみはよくわかる。48年間の独身時代を過ごし、ほんの2年半前に結婚したばかりだから、わからないはずがない。

 遍路経験のある姉に経過報告の電話を入れた。毎日「きつい、疲れた」ばかり言っているから、嫁さんがすごく心配していると、姉はたしなめるように言う。夕方の電話での嫁さんの口振りはそうでもなかったが・・。 『そうか、嫁さんも気を使っているのか・・。明日からは弱音を吐くのをやめよう』

 ザックに雨水が浸入してしまったため、少し濡れてしまった地図を乾かそうと、すべての地図を部屋に広げた。ついでだからと、隣り同士がつながるように地図を並べ替える。中央部は大きく抜けているが、大四国地図ができた。こう見ると四国は広い。歩き終わった所はまだ少しだけだ。本当に弱音なんか吐いていられない。

 気合いだけは体育会系に戻ってきた。今後頑張るためには、まず、この疲れをどうやって抜いていくかを考えなければならない。バリバリの気合いだけでなく冷静さも戻ってきたようだ。

 5日目 →30km、↑380m、46000歩、7:00〜15:55、日和佐「薬王寺薬師会館」

<地図>

 今回の遍路には、国土地理院の「5万分の1地形図」を使いました。もちろん、へんろみち保存協力会の本は所有しています。しかし、いろいろ考えた結果5万分の1に決めました。(協力会の本は90年初版をもとにしています)

 1番の理由は次のようになります。協力会の地図は、赤色の遍路道が強調されすぎて、地図自体が非常に読みづらくなっています。遍路道が小道なのか、道なのか、大きな道路なのかよく分かりませんし、分岐を道なりに行くのか、それとも注意を要する小道に分かれるのかも判別できません。また、遍路道以外の情報部分の印刷が薄く、地図としての情報がとても少なくなっています。特に、等高線が見えにくく、登り坂や向こうに見える山などについての情報が不足してしまいます。

 ふたつ目の理由は、次の地図とのつながりが分かりにくいことです。本のレイアウトに苦心されたということは十分に理解できますが、地図ごとに方角が異なると読み違える可能性が多くなります。また、異なる縮尺の地図が混同し、距離感が合わなくなる可能性もあります。
 もうひとつは、地図を読むたびにザックから出し入れするのも面倒くさいし、本になっていると持って歩くには重くて持ちにくいという面があります。

 一方、協力会の本には遍路をするための貴重な情報が記載されています。そこで、僕は5万分の1の地図に必要と思われる情報を事前に転記していきました。宿、主要地点とお寺とのA・B距離、5万分の1には載っていない小さな遍路道などです。また、予定コースも蛍光ペンで記入しておきました。事前に2回もこれをやりましたので、出発までには、問題となりそうな遍路ころがしなどのコースプロフィールは大まかに頭の中に入っていました。

 5万分の1の地図は、余白と不要な部分は切り落とし、通し番号をつけて持ち歩きました。歩くときには、その日のコースが記載されている地図だけを厚めのビニール袋に入れ、必要なときにはすぐ読めるように左手に持つか、ベルトにはさむかしていました。

 僕は何年もオリエンテーリング選手をしており、どちらかというと地図マニアに近い人種です。ですから、地図1枚を持って山の中に入るのも、それほど不安ではありません。ただし、地図が正確であるという前提が必要です。この意味で、国内で一番信用できる国土地理院の地図が必要でした。より正確な2万5千分の1を使わなかったのは、そこまで正確さを要求しなかったことと、地図枚数が4倍になることで重くなるのが嫌だったからです。

 地図のおかげで、遍路中に道を間違えたことはほとんどありません。2カ所ほど、地図には道があるのに実際にはない所があり、そこで15分くらいロスしたのが最大のミスでした。
  
  地図読みがあまり得意でない人には参考にならないかもしれません。道を間違えながら進むほうが面白いという人もいると思います。また、協力会の看板やシールを主な情報源とするだけで十分だという人もいるに違いありません。それはそれで良いと思います。遍路それぞれ、やり方も考え方も違って当然なのですから。


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