今日も雨の朝だ。洗濯した下着が乾ききらず残りは一組しかないので、今夜中には洗濯して乾かさなければならない。
6時30分出発。神山町を離れると、向こうから笠と白衣をつけた体格のいい男が歩いてきた。見るからに落ち着いていて、遍路のベテラン選手らしい雰囲気をただよわせている。服装の汚れ方やヒゲ面から、いかにも逆打ちの野宿遍路らしい。ただ、荷物の量からみてテントは持っていないようだ。夏だからこそできる方法か? 「おはようございます、毎日雨で大変ですね。こんな雨だと寝る場所を探すのが難しいでしょう?」 と声を掛けると、「いや、濡れないで寝る場所は問題ないけど、着る物がなくなって困る」 フム、そうなのか。同じ徒歩遍路でも、野宿と宿利用では、困難の質が違うようだ。洗濯物を乾燥機に放り込めばいいと思っていた僕には、計り知れない困難に出会う野宿遍路が偉大に感じられた。
8時を過ぎて、水のきれいな鮎喰川沿いの道に出る。今回は通らなかった玉ケ峠からの道と合流し、刑務所を過ぎると13番大日寺までもう少しだ。自動販売機の並ぶお店の前を、黙々と通り過ぎる。 突然後ろから、走る足音と声が聞こえた。 「お遍路さん、お遍路さん」 驚いて振り向くと目の前に缶コーヒーが差しだされていた。 「えっ、えっ・・・」 言葉が出ない。だのに、僕の手は受け取るように前に出ていた。意識とは無縁の反射的行動なのだと思いたいが、飲みたいという気持ちがなかったわけではない。50才にもなってまだまだ浅はかなものだ。
「えっ、えっ、遠慮なくいただきます」 頭を下げてから身体を起こすと、その人は、頭に手をあてて雨を避けながら、もう20mくらい先を走っていた。25才くらいの若い男性。これも驚きのひとつだった。お接待をしてくださるのは年輩の人だけ、という根拠のない思い込みが完全に打ち破られた。昨日のヤンママといい今日の若者といい、 「四国・おそるべし」
すぐ飲もうか、あとで感慨に浸りながらユックリ飲もうか迷ったが、雨で身体が冷えているのだからという若者の気持ちを考えて、早速いただくことにした。身体も心も暖まる熱くて甘いコーヒーだった。
流水岩の境内が面白い14番常楽寺を過ぎ、雨上がりの15番国分寺に入る。お参りを済ませ16番観音寺の方向に出ようとするが、出口が見当たらない。探したあげく、結局は山門から参道を戻ることになった。確かに、たったの300mくらいの迂回かも知れない。しかし、歩き遍路にとって、目の前に進むべき道があるのに、そこに出るために大きく迂回を求められるのは精神的にキツイものがある。もちろん、近所への配慮とか、お寺の建物配置の関係とか、山門を出入りするのが正式だとか、お寺により種々の事情があることは理解できる。が、15番だけではなく、このような歩き遍路に精神的ダメージを与えているいくつかのお寺に、ぜひ善処をお願いしたいものである。でも、それも修行のうちと答えられれば、黙って従うしかない。
昼時になり、腹が減ってきた。16番観音寺を過ぎた国道にはお店が多く、どこに入ってもいいのに、何となくやり過ごしてしまう。府中駅にはあるだろうと思っていたが、考えが甘かった。13時頃に17番井戸寺を過ぎて、中鮎喰橋を渡る。見えた! マクドナルドの看板だ。まだ遍路3日目なのに、何ヶ月ぶりに出会う看板のような気がするのが不思議だ。
ふと心配になってきた。身体が臭うのではないだろうか? 鼻を利かせてみると、どこからか、かすかに臭う。臭いの元は靴だった。2日半、濡れたままのジョギングシューズだから、当然といえば当然か。周囲に迷惑にならないように店内を避け、店の外で階段に座って食べた。いつもなら2個で十分なのに、今日は2個では食べた気がしなかった。
踏み切りで通過列車を待つ。バイクのオジイサンが横に並んだ。 「あんた、えらい」 と誉めてくれる。 「いえ、そんな」 てっきり遍路を始めたことを誉めてくれたのだと思っていた。 「このごろの遍路はみんなあっちの方を通ってばかりで、この道を歩くのは少ない。あんたが正しい、あんたはかしこい」 と上鮎喰橋の方を指差す。協力会の地図には上鮎喰橋のコースしか書かれていないのだ。(96年版から中鮎喰橋のコースも書かれている) 僕はただ、蔵本の国道につながり、跨線橋を使わない一番短いコースを選んだにすぎないのだけど・・・。
「あんたのことやから分かってると思うけど、次はあの山の裾ぞいに行くんやで。18番の恩山寺さんまで4時間はかからん、頑張ってな」 「はい、ありがとうございます」 と答えたが、踏み切りの向こうは別の道を歩くことに決めていた。できるだけコインランドリーがありそうな道を。 また、今日は18番までは行かないで徳島に泊まる。オジイサンの姿が見えなくなってから、「すみません」と心の中で謝りながらコースを変えた。
コインランドリーを発見し、洗濯作戦を開始する。物陰を探して、パンツを含めて全部を着替えてしまい、シューズも脱いでスポーツサンダルに履き替えた。そして、機械に片っ端から放り込む。ザックに衣服はひとつも残っていない。他人の目を盗んでシューズも機械へと考えてみたが、さすがにそんなことはできず、ビニール袋に押し込んだ。 機械を動かしながら、今後の洗濯作戦を考える。少したまってからまとめて洗うのがいいと思っていたが、乾きにくいこともあるので、結局は、毎晩洗うのが一番のようだ。宿に洗濯機がなくても、シャツとパンツと靴下だけなら風呂場で簡単にできる。
徳島市内のサンダル歩きはつらかった。あと少しという安心感からか気合が抜けており、3日間の疲れで筋肉のハリが強く、右足裏のマメも相当ひどくなってきたようだ。 『遅くても歩いていれば必ず宿に着く。止まって休めば宿に近付かない』 何度も言い聞かせながら、ゆっくり歩いた。
夜、近くに住む15年前の教え子が訪ねてきてくれた。以前から年賀状で近くに来ることがあったら必ず連絡するように言われていたが、四国に来るチャンスがなく、顔を見るのは卒業以来だ。彼女は、朝食前の果物の収穫から始まり、家事と農作業と子供の世話と休むまもなく働いているとのことだ。それ加えて、夜はママさんバレーにも参加しているという。すごいエネルギーだ。学生時代より少し痩せたようだが、明るさは変わらず、自信に満ちた表情は学生時代にはあまり見られなかったものだった。負けられない、遍路では挫折できないと思った。 喫茶店での1時間はあっというまに過ぎた。
3日目 →37km、↑160m、49000歩、6:30〜16:00、徳島市「BHオリエント」
<遍路道へ 3> 遍路に出る前の年の1998年に、松山で開かれた学会に出席しました。四国に足を踏み入れたのは、たしか15年ぶり4回目だと思います。岡山県から本四架橋の高速道路を使いましたが、四国に入っても少しも違和感はありませんでした。はじめは高速道路のせいだと思っていましたが、そうではなく、道路表示の四国の地名に慣れているからだと気づきました。地図や本を何度も見ていたから当たり前かもしれません。
学会の特別講演の講師は、地元出身のあの早坂暁氏。早く飲みに行きたい友達を無理やり引き連れて、夕刻の会場に出向きました。 「私には、100m競争のタイムを0.1秒縮める価値が分かりません」と、ほとんどが体育会系の聴衆を笑わせておいて、内容のほとんどが遍路についてでした。遍路の歴史、遍路と地元民との関係、遍路の心理、そして遍路道へと話が進んで行きました。大事な言葉は2回繰り返し、ユックリお話しする早坂氏の講演には、僕だけではなく仲間も引き込まれていきました。
学会後は、休日を利用して、大学院生達と石鎚山と剣山に登る予定にしていました。今治を経て車で石鎚に向かう道の途中には「○○番△△寺」という道路案内が多くあり、その度に僕が「56番だ」「59番だ」と声を上げるものですから、学生にバカにされていました。小松からの坂道に入ると、「60番横峰寺」の看板がずっと山奥まで続いていて、学生も少しは興味を持ってくれたようです。
石鎚山からの下りでは、白衣に身を固めて登ってくる集団に出会いました。年輩の女性がほとんどですので、バス遍路でしょうか。本当に苦しみながら、あえぎあえぎ進む姿は少し滑稽に見えないことはありませんが、その真摯な姿には頭が下がりました。早坂氏の講演にあった、遍路ころがしの遍路の心理を少し理解していたからかもしれません。いい意味で、このように苦しんでみたいと強く思いました。
四国から帰って、今までの『遍路に出たい』という気持ちが『遍路に出るんだ』に変わってしまいました。もう止まらなくなってしまったのです。ずっと以前から、遍路をするなら通し打ちと決めていました。区切り打ちは頭の片隅にもありません。ですから、40日をどう確保するかが問題となりました。
さいわい、大学の教員には研修制度というものがあります。これは、研究や勉学のためであれば職場を離れてもよいという制度です。もちろん、出張ではないので金銭的な補助はありませんし、授業や校務を放り出すことはできません。登山の授業を担当していましたので、日本の登山のルーツは宗教的な登山であることは理解していました。そこで「宗教的な野外活動がもつ修行的な意味とレクリエーション的な意味を、体験を通して考える」をメインテーマにして、上司に相談しました。結果はOK。上司は霞ヶ浦横断遠泳の主宰者で克服的活動に理解がありました。また、先述の徳島の先生の後輩で遍路にも興味を持っていました。このようなことが、僕の研修を認めることについて、うまく作用してくれたようです。
期日は、試験週間や夏期休業を生かし、校務への支障を最低限になるように考えると、6月24日から7月31日までの38日間。関東からの行き帰りを差し引くと36日間の期間限定でやり抜く以外はありませんでした。
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