6時30分、今日も小雨まじりの中を出発。雨には慣れているせいか、野外生活の経験の中で雨を苦痛と思うなと自分で言い聞かせてきたせいか、それほど苦にはならない。また朝から萎えていては、12番焼山寺への遍路ころがしに勝てるわけがない。吉野川に向かって快調にゆるい下り坂を歩く。心配なのは、対岸の12番に続く山並みが雲に隠れていることと、午後には必ず悪化すると感じる足裏の状態だ。
一つ目の潜水橋を渡り、畑の広がる吉野川の中州に入る。すっと農作業用の軽トラックが寄ってきた。 「にいちゃん、次の潜水橋まで乗っていかんか」 「あのー、全部歩き通すつもりですので・・・。すみません」 「いや、このところの雨で次の潜水橋に水がかぶってるという話や。通れるかどうかわからんから、乗せたるから見に行こ」 ここからは川上の橋も川下の橋も見えるが、引き返してあの遠い橋を迂回することを考えると気持ちが重くなる。
しばらく躊躇したあと決断した。 「はい、いろいろなことは覚悟してます。橋が渡れなかったら、引き返してあの橋を回りますから」 「そうか・・・」 残念そうな顔をしてオジサンは畑の方へ行ってしまった。有り難いことだ。だのに善意を断ってしまった。自然にトラックに向かって頭を下げていた。一方、心のどこかに 『最後まで歩き通せるんだ』 という確信も芽生えた。
引き返す場合は無駄足になるため、潜水橋までは非常に足が重く感じられた。水がかぶっていても強行突破もいとわないつもりになると、少しは楽になれた。潜水橋は、水没の余韻を残すように路面に水たまりは出来ていたが、水面はほんのわずか橋に届いていなかった。ラッキー。いっぺんに元気が出た。
国道沿いのコンビニで昼飯のおにぎりと携行食のドラ焼きを買う。日頃は甘いものをあまり食べないが、山での携行食はドラ焼きが一番だと思っている。パサパサしないので水も必要ないし腹持ちもいい。 このコンビニの若いオネエサンにはとまどった。他のお客さんと向かうときと表情が違うのだ。僕に一目惚れかと思ったが、僕にそんな魅力があるわけがない。わかった、杖と傘の威力なのだ。僕個人への配慮ではなく、その後ろにあるお大師さんへの配慮なのだろう。 「和顔施」 美人とは言えないが、そのオネエサンが非常に魅力的に感じられた。 (ノロケではないが、嫁サンの和顔施が結婚の要因だったことを再確認した。 ・・・やっぱりノロケか?)
8時50分、11番藤井寺を打ち終え、いよいよ遍路ころがしに足を踏み入れる。地図で見る限り、日本アルプスなどの登山に比べると大したことがないと思えたが、遍路道の中で1・2の険しさであると評判の道である。気を引き締める。
いつもの登山のように、休憩を入れないで登る。立ち止まって、景色を見ながら深呼吸を2・3回するのが僕の休憩法だ。ベッタリ座ってしまうと意欲まで落ちてしまう。したがって、登行スピードは速くない。が、目的地に着くのは比較的早いほうだ。3回ほど立ち止まっただけで尾根道になった。雲が山から去り、雨も上がったようだ。だが、遠くは相変わらず見えない。
長戸庵を過ぎた尾根道で2人の遍路に追いついた。抜こうかどうか考えながら、間隔をおいたまま2人を観察すると、前を歩く人が少し足を引きずっている。よく見ると白い靴下が赤く染まっている。かわいそうに、マメなのだろう。かといって、手助けする方法も考えられない。他人の痛みを部分的に引き受ける方法なんてないのだ。言葉かけが唯一の方法だろうか。
向こうが僕に気づいてくれた。 「遅いですからお先にどうぞ」 「足の方は大丈夫ですか?」 「まあ、なんとかなるでしょう。マメはできませんか?」 以外と元気な声で安心した。 「僕は大したことないです」 実は11番ではマズイかなと思っていたが、これから山道だから平気だろうと考えていた。尾根道に入ってから、またマメの状態があまり良くないようなのだ。体調が悪くても怪我をしていてもそれを隠すというのは、体育会系らしいのかもしれないが、素直ではないと言われれば確かに素直ではない。
10時40分、柳水庵に到着。ベンチを借りておにぎりを食べ始めると、噂のとおり、中に入ってお茶を飲むよう勧めてくれた。本当にありがたく思う。が、これでいいのだろうか。山では、他人に頼らないで自分のことは自分で完結するように教えられてきた。飲み物も十分すぎるほど持っている。もちろん、お接待を断ってはいけないという教えは理解しているが、これを続けていると、自分に甘えてしまうのではないかという心配もある。
悩んでいるうちに昼飯を食べてしまった。さあ、遍路ころがしの後半だ。人気の消えた庵に向かって、お礼とお茶をいただかなかった謝罪をして、先に進む。本当にお接待は断ってはいけないのだろうか。そうだとすれば、今日は半日で2度の罪を犯したことになる。また、こうも考える。僕はまだお遍路の正選手ではなく、まだ球拾いの新入部員ではないか、そんなレベルの低い奴にお接待を受ける資格があるのか? 88のお寺のお堂を巡る旅で、考えは堂堂巡りする。昨日に続くお接待に関する宿題が解けたときには、僕でも補欠選手くらいの遍路になっているのだろう。解決は時の流れにまかしてしまおう。
一本杉庵まであと少し。キツイけど休まない。これが最後の階段かと見上げると、圧倒的な迫力のお大師さんが立っていた。僕を叱っているようで、どこか怖かった。 「 喝! 」 確かにキツイ時は、やさしい言葉より叱咤激励のほうが気合いが入る。これは体育会系だけの習慣なのだろうか。このお大師さんは、きっと通る人に合わせてやさしい言葉をかけたり叱咤する言葉を投げかけたりするのだろう。遍路それぞれの心の状態が、お大師さんの表情と言葉に投影されているのだろうか。
左右内の集落を抜けて最後の登りに入る。雲の中に入ったためか湿度が非常に高く、汗が幾筋にもなって杖を伝い地面に染みていく。顔を上げないので、山道と残り距離が彫り込まれた石仏としか見えない。この程度の山でヘバるはずはないと思っていたが、現実にヘバりかけているのだ。積算で1000mは登っているのだから当然なのだが・・・。山道を抜けた時の表情を、自分で見てみたかった。苦しさと安堵感と達成感が入り交じった複雑な表情であったに違いない。
11番から4時間10分、正味3時間50分で山門に着いた。腰を下ろしたのは柳水庵だけ。満足しながら焼山寺の本堂前で休む。ヒールの高いサンダル(ミュール?)を履いた茶髪ロングヘアの若い女性が2人現れた。それぞれが子どもを連れている。ヤンママのドライブだろうと思っていたら、突然読経が始まった。それも、僧侶にも負けないくらいの堂々とした般若心経。ヤンママと読経の取り合わせは、今までの経験では想像もつかなかった。お大師信仰の奥深さを思い知らされた。
登ったら降りなければならない。宿まで7km。また強く降り出した雨の下り道を、右足のマメを気にしながら気合いだけで歩く。
2日目 →29km、↑1400m、46000歩、6:30〜15:00、神山町神領「桜屋旅館」
<遍路道へ 2> 1990年代になって身近な人が遍路を経験するようになりました。
まず母が、友達と一緒にタクシーで区切り打ちに出かけ始めました。父の死後に書きためた写経を納めるのが大きな目的ですが、もちろん友達との旅の楽しさも求めていたようです。いわば、宗教的なレジャー遍路でしょうか?
次は姉でした。姉は長年ウォーキングを趣味にしていますが、歩け歩け協会(現在はウォーキング協会)関係の何回かに分けて歩き通すイベントに参加しました。これは、スポーツ遍路といえるでしょうか。この時、前述の「チャレンジ・ザ88」を貸したのですが、歩き終えたお礼として、へんろみち保存協力会編の「四国遍路ひとり歩き同行二人(1990年初版)」が送られてきました。
この本は、すごいとしか言い様のないものでした。。遍路地図や宿だけでなく、食堂などの情報も多いし、野宿可能場所には水・トイレ・灯りなどの有無を示すコード番号さえつけてありました。なにより、歩き遍路の強い味方が四国の現地にいるというだけで、心強く感じるものがありました。
もうひとりの遍路体験者は、大学時代にお世話になった恩師のひとりで、その頃は鳴門の大学に勤められていた先生です。もともと徳島がご出身地であることは知っていました。その先生が、定年を前にして通し打ちをやるというのです。それも、驚いたことに、文部省の科学研究費を申請して受理され、自分の身体を実験台に歩き遍路の健康について研究するというものです。研究遍路なんて聞いたこともありませんでした。
先生は、僕が遍路について興味を持っているのをご存じだったので、遍路後に報告書を送って下さいました。内容をかいつまんで記すと、遍路を続けると脂肪や体重の減少だけでなく、血液性状なども標準値に近づいて行くそうです。ただ、それも終了後2週間を過ぎると徐々に元に戻っていくということです。お酒の好きな先生ですのでしようのないことかもしれません。
その頃にまた一冊の本が・・・。小林淳宏さんの「定年からは同行二人(PHP文庫)」です。旅の下調べが好きな僕には考えられないくらいの無手勝流のお遍路さんですが、共感する部分が多く、できるだけ早く遍路に出たいという僕の気持ちには、刺激が強すぎたような気がします。
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