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掬水へんろ館

1日目 1999年6月25日  大雨のち小雨

 午前7時過ぎ、1番霊山寺の山門前に立つ。
 未明からの強い雨は、止む気配も見せず降り続いている。靴下はすでにズブ濡れ。香川、愛媛は大雨注意報、徳島も午前中に大雨雷洪水注意報が出た。 『試合前に気持ちで負けてどうする』 体育会系の思考は、すぐにこうだ。ワンパターンだが核心をついていないこともない。頭は睡眠不足でドンヨリしているが、心と目は幼児のように好奇心いっぱいで、新しいものを探している。気合いは入っているのだ。

 まっすぐに、堂々と(気持ちだけでもベテラン風に)本堂に向かい、ザックから般若心経(もちろんフリガナつき)を取り出す。 『ヤバイ』 目の前のお札やお守りの販売所のおばさんが見ているではないか。また、本堂への参拝者も増えてきた。他人を意識しはじめると、ベテラン風のつもりが、一瞬にして新入部員に戻ってしまった。初めてバッターボックスに入った時と同じで、何をやるかはわかっていても、足が浮ついて動作がおかしくなる。つっかえながらの読経はしようのないことだが、声がだんだん小さくなり、あとすざりして最後は壁にぶつかって下がれなくなってしまった。 徒歩遍路用の出発・結願を記入するノートに名前を書いて、大師堂に移る。今度はヤケクソ気味の大声で読経を始めたが(近くに人がいなかったから?)やはり最後は雨音に消されるような声になってしまった。

 山門前のお店で笠と杖だけを購入して2番極楽寺に向かう。足が軽い。いや、ウキウキした気分が足に伝染しているのだ。 『最初から飛ばすと午後にヘバるぞ。マラソンや山登りのイロハじゃないか』 もちろん知ってる。でも、分かっちゃいるけどやめられないのが人間じゃないか。
大雨の4番大日寺
大雨の4番大日寺
 9時に3番金泉寺を出る。4番大日寺への古い遍路道にはいると、もっとハイになってきた。枝から下がった遍路札や小さな石仏が多く、たくさんの応援を受けているようにも感じた。大雨の中をニコニコしながら早足で歩く遍路は、地元の人にはどのように見えていたのだろうか。

 5番地蔵寺を過ぎたお昼頃、やっと我に返った。足が重い、足裏にも違和感がある。それに、腹が減ってどうも力が入りにくい。と、スーパーの横にうどん屋を見つけた。さっそくキツネと巻寿司をかきこんだ。雨具やザックは外に置いたが、椅子をずいぶん濡らしてしまった。  「すみません、雑巾を貸してもらえますか」 「何に使うの?」 「椅子を濡らしてしまったもんで・・・」 「ああ、いいんですよ。あとで拭いときますから」 「すみません」 最後のすみませんは直立不動で頭を下げる。体育会での教育の賜物か、それとも、この姿勢がこのような状況で一番効果的なのを経験の中で身につけてきたのか・・・。100%の謝罪の気持ちがあるわけではないのに、無意識に動く自分の身体に感心する。

 6番安楽寺、7番十楽寺、8番熊谷寺、9番法輪寺と、疲れは感じるものの快調に打ち続け、ヤレヤレやっと残りは10番だけ、と肉刺(マメ)のできかけた右足裏をかばいながら、ゆっくりと進む。向こうから、傘を差したまま合掌した男が近づいてきた。  「お父さん。昨日からメシ食うてないんや。何か接待してもらえんやろか」 『なんだこいつは。四国では遍路にお接待する習慣があるとは聞いていたが、接待してくれオジサンなんて聞いたことがない』 それに、お接待するといっても小銭の持ち合わせがない。お寺が続いたため、お賽銭でなくなっていたのだ。つぎのお店でパンでも買って、両替しようと思っているくらいなのに。 「ああ、ちょうどおやつにしようと持ってるものがありますから」 ザックから今朝買ったドラ焼きを出して手渡したら 「300円くらいの方がええんやけど」 よく言えたものである。腹が減ったのならドラ焼きで文句はないはずだ。この場は退散が一番と、男を無視して足早に10番切幡寺に向かった。手のひらにドラ焼きを乗せてキョトンとしている男の顔は面白いものだった。 『遍路の中には俺のように甘くない人間だっているんだぞ』

 少し進むと空腹を感じ、急にお接待したドラ焼きが惜しくなった。それと同時に、彼にお金のお接待をしなくて本当に良かったのか自問自答しはじめた。 『人の善意をあてにして生きるなんて最低だ。 いや、善意を前提にする托鉢は遍路の歴史に出てくる』 『働いて食うのが人間だろう。 いや、働けない身体なのかもしれない』 遍路の初日に大きな宿題を出されたように感じた。

 (この年に、88番から1番に向かってこのあたりを歩かれた永井典子さんの遍路記にも、接待してくれオジサンが登場する。おそらく同一人だろう。お金の接待をした永井さん、しなかった僕、どちらも後味はあまり良くなかったようだ。悟りの境地にあるお坊さんはどちらを選ぶのだろうか?)

 10番を打ってから宿に入る。風呂をすませて荷物を整理すると、テレフォンカードがないことに気がついた。普通のプリペイドではなく、暗証番号をダイヤルして銀行引き落としで後払いするシステムのものだ。出発前に嫁サンが、これだけは私の代わりに持っていってほしいと手渡した2つのうちの一つがこのカードである。もうひとつは、いつも自宅のどこかに保管されている結婚指輪。この指輪は今、左指で買ったときと同じように輝いている。指輪だったら腹を切らなければならなかったかもしれない。

 まずは嫁サンに謝らなくてはと、叱られるのを覚悟しながら、100円玉で電話をかけた。返事は以外にも 「ダイジョーブ、ダイジョーブ」 焼き魚を真っ黒にした時など、失敗を笑って流す時の口ぶりとまったく同じだった。ホーッとしたら約束させられた、「そのかわり毎日電話してね」

 1日目 距離28km、積算登距離↑420m、43000歩、行動時間7:00〜16:05、宿泊 10番切幡寺前「坂本屋」 

<遍路道へ 1>

 遍路に初めて興味を持ったのは、25年以上も前の23才の時です。山口、愛媛、徳島と巡る自転車旅行の途中、菊間町だったか伊予北条だったかは忘れましたが、立ち寄ったパン屋の店先で、話し好きのオバーチャンにつかまりました。1時間も話したでしょうか。

 なにかの話からか遍路の話題になりました。 「昔はいっぱい歩いとったよ。みんな、どこへ行っても橋本旅館や松本旅館へ泊まってな」 「その旅館は、お遍路さん相手のチェーン店みたいなもんですか?」 「ハハハ。橋本旅館は橋の下、松本旅館は海岸の松の木の下じゃ」  汗水流して歩くお遍路のイメージが、汗水流して走るサイクリストの心を捉えたようです。 『いつか僕は八十八ケ所を歩くのだろう』 漠然とした予感があったのを今でもしっかり覚えています。

 17・18年前の35才の頃、本屋さんで一冊の本を見つけました。山と渓谷別冊の「チャレンジ・ザ88」 すぐに買って、むさぼるように読みました。この本は、編集者達が実際に足(車)を使って、遍路道沿いのお店や出会った人たちを紹介するガイドブック・情報誌という性格のものでしたが、4人の若者が県別に実際に歩く「歩いてみたぞ」というコラムがあり、コースタイムや宿の情報だけでなく、徒歩遍路の現実の苦労も書かれていました。

 何度か読んでいるうちに、八十八カ所の具体的な配置もイメージできるようになりました。始めはドンドンお寺を回れるが、途中から間隔があき、終わりの方はまた間隔が狭くなるなど、人間の心理をついたコースだなと感心もしました。が、 『実際に1ヶ月以上も休みが取れるのは、定年になってから以外は考えられない』 というのが結論でした。


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[期限付ヘロヘロ遍路旅] 目次に戻るCopyright (C)2001 橘 直隆