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掬水へんろ館

平成9年『出会いの日々』
【8日目】(通算42日目) 5月19日(月)[ 晴れ ]

 ゆうべ少し早めに床についたのに、ほとんど眠れなかった。しかたなく早く起きて、洗濯物をたたんでリュックに押し込む作業をはじめる。
 一生懸命やったわりには、朝食までにはできあがらなかった。
(どれだけ物を詰め込んでいるんだ、私は)

 午前6時半、朝食のために食堂に降りる。「歩き」はもう私一人だけだった。
他の2人の歩き組も、バイクのオジサンももういない。おまけに、グループ遍路の2組よりも遅れて、ビリ。
 開き直って、ゆっくり食べることにした。端の方から「片づけ」がはじまっているのを横目で見ながら、広い食堂で、一人黙々と食べる。取り残された私を励まして下さったおばさんを手伝って、食器のあと片づけもやった(少しね)。
 部屋に戻って、必死で準備。途中、掃除のおじさんが、私の部屋の戸を開けてしまい、「あ! 失礼しました」なんてあわてて閉めたりなさっていたが、こちらこそ、いつまでもグズグズしててすみません。

ローソンのお兄さん、ごめんなさい

 もう一度、本殿と弘法大師(子安大師)のお詣りをして、やっと出発。
今日は、今回最後の日だ。
「今日くらい地図なしで歩くぞ!」
 地図をカバン(ずだ袋)にしまう。今回は、ずっと地図を片手に、確かめ確かめ歩いていたので、ほとんど迷わなかったが、ここから62番・63番は直線コース、距離も短いし、間違えるわけがない。もう大丈夫だ。「へんろマーク」を一つ一つ確認しながら、ずんずん進む。途中の番外霊場にもお詣りするぞ。
ずんずん進む。ずんずん・・・。

 えーと、次までは1.5キロなのに、ちょっとずんずん進みすぎてないかい? でも「へんろマーク」どおりに来てるし・・・。
 「ローソン」発見。「飲料水」を買うついでに、店員のお兄さんに、「62番の宝寿寺さんは、こっちでいいんですよね」と、これから行く方を指さして訊いてみる。「宝寿寺?・・・宝寿寺? さあ、え? 62番? うーん、吉祥寺ならそっちですけど・・・」
「62と63は同じ方向ですから、じゃああってますよね、ありがとうございます」
 自分を信じ込んでる私は、お兄さんの「反対じゃないかなぁ」という自信なさげな言葉を無視して、自分の信じる方向へ、ずんずん歩いた。ずんずん・・・。
 おかしいなぁ。1.5キロって、こんなに長かったかなぁ。道路の向かい側に、おばさんがポツンと立っておられたので、もう一度、道を訊ねてみた。「えー、私わかんないけど、あっちじゃないかしらん」と、私が今来た道を指さす。あちゃ〜。ここでやっぱり地図登場だ。
「来すぎてる、来すぎてるーー!」

 すっかり通り越してしまっていた。
当初の予定の「番外」どころか、「62番寺」もすっかり通り越して、「63番寺」にもたどり着こうかという所だった。(悲しすぎー) 
成り行きを見守ってて下さったおばさんにお礼を言って、すごすご引き返す。
 「地図なし」なんて、私にはまだ早すぎたんだわ、とトボトボ引き返していくと、さっきのローソンが。「ひぇ〜、ごめんなさい。お兄さんの言うこと聞いて、もう一度ちゃんと確かめればよかったのに。・・・だいたい、人の言うこと良く聞かない、早とちり、が私のイケナイところだって、わかってるはずなのに」なんてブツブツ反省しながら、ローソンの前を、身を小さくして通る。情けない。
 「お四国参りの間は、人の口から出る言葉は大師の言葉」と教えられたではないか。人のおっしゃることは、素直に聞かなきゃイカンのよ、ほんと。すみません。

 反省したので、第62番札所「宝寿寺」へは思ったより早く着いた。
JR伊予小松駅のすぐそばの、こじんまりしたお寺だった。団体さんがいなかったので、ゆっくり準備。お寺の世話をしてるオバサンともいろいろ話した。
 今回はとてもよく話しかけられる。愛媛の人は、人なつこい人が多いのだろうか(高知がシャイすぎるのか?)
 納経も済ませ、63番へ向かう。他に迂回路も逃げ道もないので、結局またローソンの前を、身を固くして通る。お兄ちゃん、ごめんなさい、どうぞ私を見つけないで。(自意識過剰?)

傷つく言葉

 次までは1.5キロ、アッという間だ、と歩いていると、見覚えのある顔がやってきた。51番「石手寺」でお別れした西川さんだった。彼女にはきのう60番「横峰寺」でも会っている。(車で上げてもらったそうだ) 
 きのう会った時は、「あーら、遅いじゃないの!」と言われてしまい、ガックリきたが、今日は、「歩いてるんだもん、今日、ここぐらいでも当然よね」と言って下さったので、ホッとした。
 歩き遍路は、「遅い」の一言にひどく傷つくのだ。でも、確かに今回は遅い。
そのかわり、あまりほめられなくても、平気になってきた。自分のペースでいい。人にほめられたり激励されたり、を期待しないかわりに、少しくらい不本意なこと言われても、気にならなくなったのだ。
 西川さんとは、すれ違いで、またお互いの健闘を祈ってお別れした。

巡礼の血

 第63番札所「吉祥寺」、お詣り。
トイレを借りるのに、お寺の家の入口らしい前を通ると、中にいたイヌが、ひどく吠えた。遍路は見慣れているだろうに、なんで吠えるかなぁ。でも、お寺のイヌだから怖くない。ただ、トイレに行って、朝からおなかが痛かった理由がわかった。月に一度の・・・だった。(よく「遍路行」とぶつかる)
鎮痛剤を待機させておいて、とにかく歩くしかない。次の「64番」までは3.3キロ、その前にこのすぐ近くに、番外の「芝之井大師」があるはずだ、とにかくそこまで行くことにした。

 ここでもまた道を見失った。ウロウロしていると、お店屋さんの中から、オジサンが声をかけて下さった。「そこまっすぐ行って、ミラーを左!」 
一瞬、何を言われたのかわからなかったが、私はしっかり「遍路姿」、この辺をウロウロしてるんなら、霊場を探してるのに間違いはないのである。何も訊かなくても、近隣の人はちゃんと道を教えて下さるのである。ありがたいありがたい。
 「ありがとうございます」と応えて、ミラー(屈折した道の向こうから来る車などがわかるように、道の角に取り付けてある小さな鏡のことだった)の方へ行ってみると、うーん、どうも「右手側」の方が、こんもり木が茂っていてそれっぽい。右へ行きたい、右へ行きたい。どうしても右に引っぱられる。
私の巡礼の血が、霊場は「右」と言っている。
 少し右へ行きかけた。
でもさっき、「人の言葉を素直に聞かねば」と思ったばっかりじゃないか! そう思い直して、また引き返し、オジサンのおっしゃった通りに、ミラーを左に・・・。

 あ! いきなりあった、番外霊場「芝之井御加持水」。
「木がこんもり」どころか、道のハタに、でん! と、なにげなく祀られてあるではないか。昔からの水場、生活用水として人々が集まるところにある、といった感じだった。
 あーあ、何が「巡礼の血」なんだ。また自分勝手な先入観で、人の言葉をないがしろにするところだった。オジサンはやっぱり正しかったのに。ホントにホントにごめんなさい。どうして私はこう、素直に人の言うことがきけないんだろう。知りもしないくせに、自分の勝手な思い込みで、わざわざ間違った道に行こうとする。大いに反省。(反省するわりに失敗が多い。懲りていないのか?)
 もう二度と、人の言葉を疑いません。

スイッチ・オフ

 水運びに苦労している老婆から、気持ちよく一杯の水をさしだされた弘法大師が、衆生の苦労を解消せんと、錫杖で地を突き、湧水させたという伝説の井戸「芝之井」にお詣りし、「私も、自分のひねくれた性格を反省、こんな老婆、いや、心美しくやさしい女性になりたい」と、決意を述べ、また歩き出す。

 今日は、そうとうに暑い。おまけに腹痛もひどくなってきた。薬を飲むべきか・・・。
 阿弥陀さまがお祀りしてあるらしいこじんまりしたお堂だけがある、小さな公園で少し休憩する。今は花は咲いていないが、藤棚が日陰をつくってくれて有り難い。暑さと鈍痛で、思考回路は停止状態。
 しばらくは、スイッチオフの「人形遍路」になっていたと思う。こどもたちが道を行く声で、もとの世界に引き戻され、また歩き出す。

 やっとの思いで、第64番札所「前神寺」にたどり着いた。かなり大きなお寺だ。門前に着いて「やれやれ」と思ったのに、本堂はまだずっと奥。しかも石段まで登らなきゃならない(少しだけど)。朦朧とする暑さの中、足とおなかを引きずって、ようやく「ご本尊(阿弥陀如来)」へ。
ここまで無事導いていただいたお礼を言う。
 急な石段を登ったところにある「権言神社」(石鎚神社)にもお詣りした。
(あとで知ったのだが、こんな身体(月に一度の)で「神社」へのお詣りは、まずかったらしい。すみません。でも、何でダメなんだろう)
 薬師如来さまにもお詣り。苦しいときばっかり一生懸命お詣りするんだから、私もホントに俗物だ(とても聖人にはなれないけど)。
最後に大師堂。今回の札所詣りもこれでお終い。いつも最後は特に感慨深い。

心やさしく、親切に

 ついさっきまで、広い境内には、私ともう一人、近所に住んでらっしゃる女性(ここでまたひとしきり身の上話を聞いた)が一人くらいだったのに、納経に行く段になって、「団体遍路」とぶつかった。「あちゃ〜」。
 案の定、納経所は大にぎわい。掛け軸と納経帳が高く積み上げられ、4人くらいの係りの人が、せっせとハンを押し、バスの運転手さんか添乗員らしき人が、流れ作業で、一つ一つ「処理」している。しばらくそばで待ってみたが、当分終わりそうにもないので、先にトイレに行った。
 ゆっくりして帰ってきても、まだ終わっていない。じゃまにならないように(納経帳をかかえて)隅でボーッと待っていると、
「一冊くらい先にやったって」と、バスの運転手さんが私に気づいて下さった。
「心やさしく親切に、がモットーや」とおっしゃる。
「すみません、ありがとうございます」
 すると、寺側の、納経印を押してたオバサンが、「まぁ、よかったねぇ。瀬戸内バスさんやから、よう覚えときや。伊予バスと間違えたらアカンよ。瀬戸内バスやからね」と、何度も念を押して、私の帳面を「処理」して下さった。
うーん、普通は寺側の人が配慮して「先にやってあげよ」って言ってくれるケースが多いんだけどなぁ。寺も「お得意さん」には、気を使ってるのね。何はともあれ、急いでらっしゃるのに、先にやらせて下さったのは有り難い。「瀬戸内バスさん、ありがとうございました」と深々とお辞儀をして出てきた。
(でも、伊予バスさんも、親切だったと思うよ)

 また、暑くなってきた。おなかも痛い。でもここから16.5キロも歩かなきゃならない。最低でも4時間はかかるのだ。この暑さと疲労具合からみて、このあと腹痛は酷くなるに違いない。でも薬を飲むには、少しでも食事をとらなきゃならない(私の場合、空腹時にこの薬を飲むと、胃液まで吐くほど、よけいに苦しむことになるのだ)。
 車の少ない「遍路道」を歩きたかったが、店の多い「国道」を行くことにした。

大師からのお弁当

 大きなトラックがガンガン走っていく。
キツイ日射しと腹痛と車の騒音、排気ガスで、くらくらする。

 しばらく行くと、(おばあちゃんがよく押してる)カートを押したおじいちゃんが、前からやってきた。突然、私に、「お昼ゴハン食べたんか?」と、じいちゃん。「え?いいえ」「ほんならお接待するから、ついてきなさい」「え?」「この先に弁当屋があるけん」「でも・・・」「お昼まだやったら、お接待にお弁当こうたげるから、何でも好きなもん食べなさい」「いいんですか?」
 きゃ〜、うれしい。けど、何だかわるいー。
でもじいちゃんは、彼が今来た道をズンズン引き返していく。あわててついていった。歩きながら、私にイロイロ質問なさる。「どこから来たん?」「次はどこの寺へ行くの?」etc. 一生懸命答えるが、あんまり私の話は聞いておられないようだ。自分のことも話して下さった。今はもう80才を過ぎておられるそうだが、お四国参りも4回くらいされたのだそうだ。(やっぱり、遍路は遍路にやさしい)
 とうとうお弁当屋さんに着いて、何でもいいとおっしゃるので、330円の「のりべん」を買っていただいた。お金でいただくより、何だかすごくうれしい。
 私が「のりべん」を受け取ったのを確認して、じいちゃんは、またカートを押して去って行かれた。何度も何度も振り返って、手を振って下さるので、私も、何度も何度も振り返って、お辞儀をして手をふった。

 かっこいいじいちゃんだった。
「330円のお弁当」、おじいちゃんの心のこもった「お接待」は、ほんとうにほんとうにうれしかった。(自分で買って食べても何のカンドーもなかっただろう) それに、そのタイミングが不思議だった。出会う人は皆、弘法大師。「大師」が姿を変えて現れ、助けて下さったのかもしれない。
(ちなみに、じいちゃんのカートの中からチラとのぞいてたのは、パンと牛乳だった)

自己満足の重さ

 お弁当の袋をさげて、また「遍路道」に戻る決心をする。
少し余分に歩いてでも、せっかくの「お弁当」、おちついた気持ちのいいところで食べたかったのだ。
 大きな川に出たので、500メートルほど歩いて遍路道に戻り、これまた大きな橋の下に降りた。橋の幅だけ、ちょうど「日陰げ」ができていたので、ここで「おじいちゃんのご厚意」を広げる。おなかは痛いが、がんばって食べる。
「のりべん」はとってもおいしかった。量はかなり多くて、いつもなら半分食べられればいいほうだが、とても今日のは残せない。
時間はかかったけれど、全部きれいに食べた。

 川を渡ってゆく風が気持ちいい。
腰をあげるとき、誰かが置いてったらしいジュースの空きビンを2つ、一緒に持っていくことにした。私だって、何か一つくらい「いいこと」をしたかったのだ。
ガラスビンなのでけっこうな重量だけど、自己満足にはちょうどいい重さだった。なんとかガマンできそうなので、薬はまだ飲まないことにした(キツイ薬なので、なるべくなら飲みたくない)。
 暑さと痛みと闘いながら、ひたすら歩く。

病室の白い手

 養護老人用設備もあるらしい、大きな病院の前に出た。
3階の病室の窓が一つ、細く開いて、白い顔をした老婆が一人、外を見ていた。
私に気づかれたようなので、軽くお辞儀をして通ると、細い窓から、白い手を弱々しく振って下さった。
 私を見て手を振る姿が、「まだちゃんと意志を持って生きてるのよ、私はここにいるのよ」と訴えているような気がして、病院の白い壁、細く開いた窓から少しだけ見えた老婆の透けるような青白い顔が、いつまでも心に焼きついて離れなかった。

 西条市を越えて、新居浜市に入る。それにしても今日の空は美しい。高く青い空、白くモッコリした雲、山の緑。まるで夏の空だ。私の原風景そのもののような気がした。子どもの頃の記憶が、甘酸っぱく甦ってくる。
 このまま一気に、何十年か昔の自分に引き戻されていきそうで、恐いような気もした。

 あと少し、あと少しと、懸命に歩く。
小学校が近い。子どもがちらほら出てきた。その校門から、小さい頃の「自分」も出てきそうだ、なんて感傷的になっていると、そのうち、小学生がわさわさ出てきて、現実に戻された。挨拶していく子、挨拶しても知らん顔してる子。一概に「この辺の子は」とは言えない。子どもも大人も一緒。ひとりひとり、ちゃんと性格が違うのだ。(ほぼ全員が挨拶してくれるところもあったけど)

おばあちゃんの悲しい思い

 小学校を少し過ぎたところで、おばあちゃんにつかまった。
「ちょっと待って、ちょっと待って!」
うむを言わせぬ言い方だった。どうしても「お接待したい」とおっしゃる。
大きなトマトを2個下さった。そのまま、また身の上話に突入。

 58才になる息子さんが、手術をしてから口がきけなくなったという。今まで自分も四国参りをしていたが、最近は行けなくなったので、こうして「お遍路さん」に接待しているのだとか。話は簡単には終わらない。涙ながらに、どんなに辛く悲しいかを訴えられはじめた。子を思う母の気持ちがジンジン伝わってくる。お気の毒でしかたない。でも、私は何もしてさしあげられない。
 思いついて、横峰寺で買ったお守りを一つ差し上げた。するとおばあちゃん、今度はご自分のお財布をひっくり返して、ありったけのお金(1530円)を下さるではないか。これは、私がつらい。「受け取れない」と言っても、きいて下さらない。せめて、と思い、「般若心経」を読ませていただいた。
「来年行くお寺で、必ず息子さんのことお祈りしておきます」、と約束して、何度も何度も手を振ってお別れした。お名前も、しっかり胸に刻み込んだ。しばらくは、おばあちゃんの思いを引きずったまま歩く。

とてもとても長い道のりに、日が落ちかけていた。

身体にいい「笑顔」

 午後4時半を過ぎて、ようやく宿に到着。最後の宿は、「ビジネスホテルMISORA」。やさしい奥さんが応対に出てこられ、「疲れたでしょう」とねぎらって下さったので、少しホッとした。やっぱり「笑顔」が、身体にはいい。
バナナやヤクルトまでいただいて(私はさっきのトマトを1つおすそわけして)、ツインの部屋に入る。
 これでようやく、今回の旅も終わり、そう思うと、ドッと疲れが出てくる。

 部屋に落ち着くと、さっきまでの晴天がウソのように、雨とカミナリで、外は大荒れになっていた。

 明日の神戸への「帰り方」を調べる。JRやフェリーに電話をして、ようやくルートを決めた、までで、記憶を失った。

ファンキーな尼さま

 翌日のフェリーの中で、やはり「歩き遍路」を終えて大阪へ帰る途中の尼僧さん(私と同じくらいの年齢とみた)と同室になったので、きのう会ったおばあちゃんとその息子さんの名前、いただいたお金を渡して、「ご供養」をお願いした。
 やはり「プロ」に頼むのが一番だ。快く引き受けて下さった。

 この方、けっこう「ファンキーな尼さん」で、
「真言宗の僧侶やねんから、1回くらい四国まわっときって言われてまわってんねん。まだ新米やしー。はっはっはー!(笑い声)」と、なんとも朗らか。
 その後も2人で、大声で冗談を言っては、笑いっぱなしだった。

 「尼」と「遍路」とは思えない、騒がしい2人に、フェリー同室の方々も驚かれたことだろう。でも、やはり彼女は「僧侶」。遍路中は、野宿・素泊まりは当たり前で、キチンと修行をなさってこられたようだった。
 私の次回の「遍路行」のためにと、素泊まりさせてくれる宿やお寺も教えて下さり、実り多い帰路となった。

 遍路から帰って3日目、彼のプロポーズに返事をして、「結婚」を決めた。

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