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掬水へんろ館

平成8年『野宿』
【8日目】(通算34日目) 5月2日(木)[ 晴れ ]

 午前5時頃、なんとなく目が覚めて向こうを見ると、田村さんも起きられた気配。底冷えがしたし、床が固くて、やはりよく眠れなかったとのこと。大丈夫だろうか、・・・と人の心配もいいが、実は私も絶不調だった。
 ひどく喉が痛いし、少しセキも出る。鼻は、片方がまったくつまってしまい、もう片方の鼻の穴からは鼻水がダダー。(あったかくて、野宿とは思えないほど快適に眠ったハズなのに) しばらくして鼻水は止まったが、用心の為に一袋だけ持っていた風邪薬を飲んだ。

 田村さんにお借りしたカッパと、銀シートをとってビックリした。銀シートの裏と毛布の表面に、びっしり水滴がついている。身体の熱が水蒸気になって銀シートについたのだろうか。でも私自身もカッパを着てるのに、身体もカッパも濡れていない。それほど通気性のいいカッパでもないハズなんだけど・・・。片づけをしながらあれこれ考えた。で、考えられることはただ一つ。銀シートを顔までかぶって寝ていたので、口から吐く息が水蒸気になって、銀シートについたのだ。それが一晩中、何時間にも及んだので、みごとに毛布もぐっしょりになったに違いない。(単純なことだった)

涙のおにぎり

 「6時まで待ってもいいよ」と言って下さる田村さんに、「グズなので、6時にはとうてい出発できない」と言って、先に発っていただくよう説得。(私を待っていたらいつになるかわからないのです、まして、イタイイタイ足で。気の毒すぎる) 今度こそお別れを言って、田村さんは出発して行かれた。午前5時半だった。寝不足だし、疲れているし、足は痛いのに、大丈夫かなぁと、かなり心配だが、今日もついて歩くというわけにはいかない。彼には彼のペースがあるのだ。

 ひとりぼっちになった境内で、「片づけ」を終え、昨夜お風呂を貸して下さった家に毛布を返しに行ってみると、奥さまが、「ご飯を持っていきなさい」と、朝握ったばかりの「おにぎり」と「おかず」をお接待して下さった。
 何度も何度もお礼を言って、その家をあとにする。

 田村さんは、寒くて固い、辛い夜を過ごしたのに、私だけ、毛布を借り、お風呂も借り、おまけに朝、おにぎりまで作っていただいた。本当に申し訳ないと思う。それにもまして、ご夫婦の親切が、有り難くて有り難くて、胸がつまる。山へ入る道々、般若心経を唱えながら、涙がボロボロこぼれて、止まらなかった。
 あのご夫婦が、いつまでもいつまでも幸せでいらっしゃるように、そればかり祈って歩いた。

 小さな峠に入った所で、あんまりおなかが空いたので、いただいたおにぎり(小さいおにぎりが6個入っていた)を半分と、卵焼き一切れ、たけのこの煮物を一切れ食べた。「田村さん、おなか空かせてるだろーなぁ」、悪いな悪いなと思って、半分は彼の為に残しておくことにした。(彼に追いつく気でいたのだ)

ずべべべー

 いよいよ「ひわだ峠」に入った。登りは覚悟していたので、それほど大変だとは思わなかったが、下りが大騒動。途中から「へんろマーク」がぜんぜん無い!
 小さな谷川みたいな所に出てしまい、しばし考え込んだ。でも、渡るしかないので渡ってみる。ここで、上へ行くか、川に沿って降りるか・・・うーん。
 川を遡りはじめて、もう一度地図を見た。どうも川に沿って降りた方がよさそうだ。悩んだあげく、「大丈夫かしらん」というほど細く危なげな道を降りることにした。石がゴロゴロしているその道は、昨夜雨が降ったらしく、よけいによく滑る。案の定、滑ってしりもちをついた。「ずべべべー」と、けっこうハデに転んだぞ。2回目に転んだときは、お尻をしたたかに打ったうえに足をぐねた(くじいた)。すごいこけ方をしたわりには、ケガもなく足も痛くならずにすんだのが不思議だ(いつもの筋肉疲労痛は続いているけどね)。

 下りでへーへー言わされた「ひわだ峠」も無事過ごし、ようやく久万の町に入る。ここから第44番札所「太宝寺」はすぐだった。
 今回の最終地(と、この時は思っていた。それでも予定より多めに来たのよ)とばかりに、本堂、大師堂、他の二つのお堂も丁寧にお詣り。最後のご挨拶(今回はこれで終わりです、の挨拶)もした。

バチあたり

 納経所で田村さんのことを訊いてみると、1時間くらい前に到着したご様子。無事でよかった。納経所の壁に、「納経 午前7時から午後5時まで それ以外の時間はいっさいお断り」と書かれていたせいだろうか、丁寧に応対していただいたハズなのに、「このお寺、なんだか冷たい感じー」、と思ってしまった。時間外に来てしまうのは、団体遍路以外の、「歩き遍路」や、数人でまわってる、それなりに信仰のある人だと思うんだけど、それでもダメなのかなぁ。でも、きまりはきまりだし、お寺にだって都合があるんだろうナ、といろいろ考える。

 さあ、今回はここで終わって、神戸に帰ろう。でもいいお天気だし、もうちょっと行ってみようかなぁ、と悩んでいると、「一部、歩き遍路」(所々は車に乗ってるという人)が、続けて2人現れた。どちらも30才過ぎくらいの男性だった。
 千葉から来たという男性といろいろ話していると、「44番寺は冷たい、この近所の旅館も応対が悪い」とおっしゃる。私も、さっきテレフォンカードを買ったら、500円のが800円もした、と文句を言ってしまったが、男性2人はかなり興奮・憤慨しているようで、次々に怒りの言葉が出てくる。まるで悪口大会のようになってきた。このまま話してると、もっとヒドイ言葉を聞きそう、私も何か言いそう、だったので、やはり45番を打つことにして、早々にその場を離れることにした。(彼らは45番から44番へ、逆打ちしてきていた)
 でも、お寺の真ん前でお寺の悪口を言うなんて、なんてバチあたりなんだろう。歩きながら、ものすごく反省した。

罪な男(ひと)

 「ここで終了」と思い、太宝寺(44番寺)で1時間も居座っていたので、田村さんとは都合3時間も離れてしまったことになる。もうぜったい追いつけない。「でも、折り返してきた所で会えるかも」、とまだかすかな望みが捨てられず、「お弁当、分けてあげたい」一心で、それからも必死で歩いた。
 45番までは、小さな峠大きな峠をいくつか越えてゆく。車道なども利用して、できるだけ短いコースで歩くつもりだったのに、結局は通れる峠は全部越えて「しんどいコース」を選んでしまった。「へんろマーク」は時にいじわるだ。いやでも「へんろ道」に戻されてしまう。最後の「八丁坂峠」なんて、「いつ着くの〜?」ってくらい長かった。それほど急じゃないけれど、長い長い登りが終わると、これまたうんざりするほど長い下りが待っていたのだ。

 その長い峠道の途中で、前方から颯爽と登ってこられた一人の女性(60才過ぎくらいかな)が、「貴女が、神戸から来られて、ゆうべ神社で野宿された方?」とおっしゃったので、びっくり! さっきまで田村さんと一緒に歩いておられたそうなのだ。田村さんの「足」のこともあって、「先に45番に行って、少し待ってみたけれど、時間がないので、先に降りてきちゃったの」とおっしゃる。
 44番と45番の間は、同じ道を「打ち戻る」かたちになるが、途中、車道を離れて峠道に入ってしまうと、すれ違ってもわからないのだ。彼女は、行きは車道、戻りは峠を選ばれたらしい。「(田村さんのことが)気になってるんです」とおっしゃる。私もずっと気になっている。まったく2人の女性に心配させて、罪な男(ひと)だ。
 東京から来ておられるその方と、納め札を交換して、お互いの健闘を祈ってお別れした。
 「もうすぐだから、お嬢さんの足なら、お寺で休んでる田村さんに会えるかも」と言って下さったので、「ほーら、やっぱりお弁当渡せるじゃん」とばかりに、ピッチをあげてドンドン歩いた。でも、しかし、けれども。行けども行けども、到着するどころかお寺の気配さえしない。おまけに「あと1,4キロ」などという標識が出てきた。平地でも20分以上かかる道のり。山ならこりゃ大変だ。
 うんしょうんしょと一生懸命歩く。

尋ね人は何処へ

 第45番札所「岩屋寺」にたどり着いた時には午後2時半近くになっていた。44番を出たのが午前11時くらいだったから、3時間半ほどかかったのだ。
「えらかったー(しんどかった)」。
 でも、車の道でも距離は長いし、下の山門からは「歩いてしか上がれない参道」が、これまた急坂で長い長い登りなのだ。車遍路の団体さんたちもヒーヒー言って上がっておられたたので、どちらも大変なことに変わりはないのだと思う。
 それより「田村さん」だ。お詣りより先に「尋ね人」を探してみたが、やはりおられなかった。残念ではあるけれど、今ここにいると、今日は彼、下(44番近くの宿)まで戻るのは困難だろうから、おられないほうがよかったかもしれない。
 仕方なく、大事に持ち歩いた田村さん用の(と勝手に決めていた)お弁当を食べることにした。(山の中でおなかがグーグー鳴るのを、リンゴをかじってガマンしてきたのだ) ムチャクチャおいしかった。

 納経所でも、「40才過ぎくらいの、少し足を痛めている男性歩き遍路」のことを訊ねてみたが、わからなかった。でも、納経所の女性が、お茶やみかんやお菓子までお接待して下さって、うれしかった。
 少しぼんやりしてから、さて、どうしたものかと考える。先のことを何にも考えずに行動するのは、「遍路」に来ているからなのか、私の生き方なのか。(単にズボラなだけ?)

 今日中(夕方まで)に、44番近くまで降りる時間はないし、宿は途中に1軒だけ。それなら、何人かの口から名前のあがった、45番門前の「門田屋さん」に泊めていただこうと電話してみる。快く「OK」のお返事。少し早いが、長い坂を下りて、3時半頃には投宿。

遍路用パンツ

 「昼過ぎにはもう来ていた」という60才過ぎの、ちょっと個性的な先客歩き遍路おじさんと「宗教談議」などかわして、時間をつぶす。洗濯をしながら、宿のおかあさんと「パンツ談議」もした。おかあさん曰く、「小さいパンツは、お尻が気持ち悪い」のだそうだ。おへそまでかくれて、お尻をすっぽり包むパンツがだんぜんいいらしい。
 実は私も、「遍路用パンツ」を持ってきている。日常はいている「フリフリがついたの」や「すごいガラパン」や「きわどいの(これは日常でもほとんどはかないけど)」は、いっさいやめて、「真っ白、柄なし、少し大きめ」のパンツを「遍路用」に揃えている。
 だって、洗濯物を干していて誰の目にふれるかわからないし、歩いてて雨に濡れてパンツが映っちゃった時に、お尻に大きな怪獣が現れる! なんて、恥ずかしいじゃないか。いろいろ気を使っているのだ。

 宿のおかあさんは、風邪をひいたのか疲れからなのか、気の毒なくらい声が出なくなっているけれど、とっても朗らかで楽しい人で、出ない声で、よく笑い、笑わせて下さった。

小娘の反逆

 個性派遍路おじさんと2人、夕食を済ませたところへ、3人の歩き遍路さんが到着。皆さんけっこうなお歳(70才は越えてると思う)だし、一人は女性なのに、今日私が歩いた同じ峠を越えてこられたという。(ひゃー、エライ)
 岐阜から、毎年連休だけ出かけてきて、バスなど使ってまわり、そのうち1ヶ寺だけは歩くということにしておられるのだそうだ。

 世代を越えて、すっかり打ち解けた遍路たち(私も含めて)は、お風呂の順番を待ちながら、「遍路の心得」などを話し合った。でも、先に来ていたオジサン遍路の、「山などにある道案内の遍路札などをはずしてしまうのは、極端に所得の少ない地域の人が、最近の裕福な遍路を妬んでのことだ」発言に、ムカッときてしまった。(遍路だから怒ったりはしなかったけどね)
 私は突然、「自分の目で見たわけでもないのに、そんな風に決めつけるのは好きじゃありません!」と、叫んでしまっていた。けっこう大きな声だったらしく、老遍路たちは、びっくり。一瞬会話がとまって、シーンとしてしまった。

 確かに、明らかに故意に札をもぎ取った、という感じのものを見かけることもあるが、憶測で誰かを犯人にするなんて、遍路のすることじゃない! と思ったのだ。いや、「極端に所得の少ない地域の人」という言い方が「差別発言」に聞こえてイヤだったのかもしれない。自分でもどこかできっと誰かを差別してしまっているとは思うが、毎年「差別をなくそう県民運動」の司会なんてこともやってたものだから、こんな時「にわか正義感」が出て、つい熱くなってしまったのだ。でもやっぱり「遍路の口」からは聞きたくない言葉だった。
 今までニコニコおとなしく聞いていた小娘(彼らにとっては)が、急に大声を出したからか、私の顔があんまり恐かったのか、まだ言いたいことがありそうながら、オジサンは黙ってしまった。
 少し気まずい空気が流れはじめた時、岐阜組の皆さんが、すぐに話題を変えて下さった。生意気を言ったわりには、後の始末ができない自分の未熟さを少し反省。それに、自分だって「お寺の悪口」を言ったじゃないか。お恥ずかしい。(でも、遍路に出ると急に「いい人」になってしまって、「本来の自分」とのギャップに、驚くことがしばしばだ。これが帰ってからも持続すればいいんだけど)

一期一会

 最後には「納経帳自慢大会」になって、とっても楽しかった。20年前からまわっているという名古屋のおじいちゃん(岐阜組)の納経帳は、もう朱印で真っ赤っか(同じ帳面に、何度も朱印を押していくため)。お寺の名前の文字も、今みたいに「どれもこれも同じようなもの」ではなくて、それぞれ個性があって素敵だった。
 この岐阜組は、じいちゃん夫婦と、奥さんの弟さんという組み合わせで、とても感じのよいトリオだった。
 みんな「歩き遍路」なのにけっこう遅くまでワイワイ話していて、前からの仲良しグループみたいだ。団体遍路やグループ遍路って、こんな感じで旅をしているのかもしれない。

 楽しいけれど、やっぱり一人でいろいろ物思いながら旅する方が、遍路として「得する」んじゃないかな、とも思う。一人の方が、いろんなモノが見えてくる気がするからだ。ただ、今夜の仲間は「一期一会」。たまには「同士」が会するのも楽しい。よく笑った。

 宿のおかあさんがあんまりセキをするので、少しだけ、後かたづけなど手伝って、ずっと持ち歩いていた「那智黒」のアメを、袋ごとさしあげた。(私にしては大盤振る舞いなのだ)

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