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掬水へんろ館

平成7年『震災と遍路』
【6日目】(通算23日目) 4月17日(月) [ 晴れ ]

 午前8時10分、内田屋旅館出発。よくしていただいた宿のお母さんがセキをしておられたので、きのう岩本寺でお接待にいただいた「アメ」を差し上げた。気前よく、一袋全部。ちょっと残しておけば・・とも思ったが、ええい、ケチケチするもんじゃないぞ、私は遍路だ! と自分に言い聞かせる。(なんのこっちゃ)

海坊主と風見くじら

 湿布が効いたのか、足も元気。海を見ながら、快適だ。でも、1時間くらい行った所で、急に太もものつけねが痛くなった。急にギクシャク歩く。海の見える道のそばに「お地蔵さま」がお祀りしてあったので、ロウソクを立て線香をあげてお経を唱えると、あーら不思議、しばらくすると足がラクになった。たとえ気のせいでも、有り難い。お地蔵さま、ありがとうございます。

 またしばらくテクテク行く。「海坊主」なんて名前の民宿のすぐ手前の、うつくしーい家の屋根に、風見鶏ならぬ「風見くじら」が泳いでいた。「シーサイド老人ホーム」という建物も発見。ここなら景色もバツグンでいいよねぇ、同じ「老人ホーム」に入るなら、こんなロケーションの所がいいな、なんて思いながら、またテクテクがんばる。一人なので、すぐ休んでしまう。立ち止まるだけでもずいぶんラクになるのだ。

サラブレッド現る

 入野の白浜に入る少し手前で、トイレ。ゲートボール広場の向かいの広場にあった(地図のとおり)。遍路地図はほんとにエライ。やはり地図どおりに、その奥にあるスーパーでパンとジュースを買ったら、お接待に、カンロアメ1袋とお菓子を下さった。不思議なことに、誰かに何かを差し上げた後は、必ず別の人から「お返し」がやってくる。宿のおばさんにさしあげた小さなアメの1袋が、倍の量になって返ってきたのだった。
 入野浜の自然遊歩道の入り口で、ランチ。その少し手前の山の中で会ったオジサンたちに、エライエライとほめていただいたが、「おとろしや」とも言われた。これは、はっきりした意味はわからないけれど、感嘆の言葉の一種なのだと理解しておいた。清水まで車に乗せてあげると言って下さるのを、ありがたくご辞退。

 入野浜の休憩所には、なんと、サラブレッドがいた。(ほんとよ、それも競走馬!) 他に足の太い馬もいたけど、1頭は見事な競走馬だった。あんまりキレイでかっこいいので、しばらく見とれてしまった。ここには、馬を海で歩かせてトレーニングする施設があるのかもしれない。
 遊歩道を歩いて先へ進む。素晴らしく眺めのいい所だった。

 長い長い砂浜を歩いて、下田口の国道まで出る。逢坂トンネルを越えると、中村市だ。少し街になってきたという感じ。それでも最初のうちは田んぼがいっぱい。ちょうど田植えの時期で、皆さんせっせと農作業をしておられる。声をかけると、「えらいねー、たいちゃなことよ!」と、笑顔が返ってきた。 「たいちゃなことよ」は、「大変なことだね」みたいな意味だと思う。でも、中村の中心地に入るにしたがって、「こんにちわ」と言っても無視されたり、こちらを見てさえくれない人が増える。やっぱり都会は、人情が薄いのかしらん。ま、忙しいのに、急に知らない人から声をかけられても「びっくりするやら、気持ち悪いやら」って気持ち、当然ですよね。
 返事がなくても、全然平気。(自己満足でやってるようなものですから)

エビカレーに気をつけろ

 後川(うしろがわ)を渡るとすぐに、今日の宿「サンリバー四万十」があった。りっぱな建物だ。おまけに「温泉」と書いてあるではないか。電話予約した時の応対も一流だったし、なかなかキレイなホテルだ。部屋も(シングルだからけして広くはないが)、清潔で、ベッドもふかふか。温泉が気持ちよかったので、浴後の缶ビールもやっちゃったよ。「四国丸飲み生」って名前で、四国限定発売だというじゃないですか。(飲まずにおれるものか)
 食事した、ホテル内のレストランでは、なんと「ジャズ」が流れていて、まるで一流ホテル並みだった。「遍路、ジャズに酔う」の図。いいやんかー。
 ジャズを聴きながら「エビカレー」をいただく。(もう「さしみ定食」には飽き飽きなの) でも、一応私も「遍路」。肉類はやめようと思い、ビーフカレーやチキンカレー、ハンバーグも遠慮して「エビカレー」にしたのに、出てきたのは巨大エビフライ2尾がのった、「ビーフカレー」だった。(知らなかったのよー)「ラッキー!」、いや、もとい、「しまった!」 でも、出されたものを残すわけにはいかない。おいしく、いただきました、ぺろっと。

 部屋に戻って家に電話を入れてみると、仕事やプライベートの電話がいろいろ入っていた。

 震災でつぶれるまで「行きつけ」だった飲み屋の「お別れ会」があるらしい。

震災の凍る月

 1月17日、大震災の数時間後・・・。
 私の「安否を確認」しに来てくれた飲み友だち数人と、家から歩いて10分ほどの所にある、その居酒屋を訪ねた。神戸市灘区六甲道の、小さなビルの一階にあった店は、崩れ落ちてこそいなかったが、扉も壊れ、梁はむきだし、食器も飛び散り、と惨憺たる姿になっていた。もう「店として使える状態」ではない。まわりの住宅や店のほとんどが全壊していた。
 倒壊した隣りのマンションから奇跡の生還を果たしたマスターが、ぐちゃぐちゃになった店内を、片づけておられた。 駆け寄り、お互いの無事を祝福しあう。

 夕方、近所の常連たちが、店に「水」や「食料」をもちよった。「みんな生きてて、よかったね」と、割れずに残った「酒瓶」が出てきた。やがて、昨夜の残り物を「あて」に、崩れかけの店の中で「宴会」がはじまる。 なんと「お気楽な」と思われそうだが、この時は、「飲まなきゃやってられない」という気持ちだったし、誰かと一緒にいたかったのだ。何度も襲う「余震」の度に、全員が腰を浮かせるのだが、手に持ったグラスだけは、誰も離そうとしなかったのが、今から思うとおかしい。 「どうせ割れるんやったら、あの高いお酒、さっさと飲んどいたらよかったなぁ」などと、いじましい話で盛り上がる。

 扉を失った小さな店内に、1月の冷気が流れ込んできた。 顔を上げると、住宅の瓦礫の上、妙に視野が広くなった空に、大きな満月が、恐いくらい美しかった。
 私たちは、あの日の「月」をきっと一生忘れないだろう。

 「思い出」多い店の最後に立ち会えないのは、寂しい。しかも、まるで「先の見通し」のたたない「自分の暮らし」や、「神戸の街」を離れ、一人「遍路」に出ているのが、不思議でさえある。でも、「今したいこと」は、「今しなければ」と、この震災で学んだのだ。「過去」より「現在」、そして「未来」。
 遍路を中断して「お別れ会」に出るより、新装開店のお祝いに行こう。

 半年後、居酒屋「祭囃子」は、再オープンした。 店は、前より少し、広くなっていた。

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[遍路きらきらひとり旅] 目次に戻るCopyright (C)2000 永井 典子 (イラスト・obata55氏)