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掬水へんろ館
平成6年

 年明け早々に友人と香港旅行に出かけ、少ない貯金を使い果たした私は、春を迎えても極貧のまま。貧乏ヒマなしとはよくいったもので、遍路のための一週間の休みさえ取れず、この年、遍路行を断念した。

平成7年 震災と遍路

 この年の1月17日、私は、神戸市灘区の自宅マンションで、その時をむかえた。 「阪神・淡路大震災」
 それは今まで一度も経験したことのない、ものすごい衝撃だった。後に母の友人が、「私、炒り豆になったみたいやったわ」と言っていたが、まさにその表現がぴったりだ。ぽんぽんと、空中に何度も跳ね上げられ、本当に天井に手がつくかと思ったくらいだ。揺れがおさまっても、電気もつかず真っ暗。何がなんだかわからない。母と声をかけあい、お互いの無事を確認するのがやっとだった。空が明るくなって、ようやく部屋の状況が見えてきた。本棚、食器棚は倒れ、どの部屋もぐちゃぐちゃ。さっきまで寝ていた布団を見ると、遠く離れたサイドボードに鎮座していたはずの大きなテレビが、いつのまにか私の枕に寄り添っていた。
 ベランダから見下ろす灘の街は、まるで「空爆」でも受けたかのような痛々しさで、崩れ落ち、あちらこちらから火の手をあげ、いつまでも、くすぶりつづけていた。大好きだった「六甲山から海に続く美しい街」が、すす色に泣いている・・。

 幸い、家族もペットたち(カメと鳥)も、不思議に、かすり傷ひとつなく、本当に有り難いと思った。 でも、多くの方が亡くなった。 生き延びた私たちに残された「使命」って、何なんだろう・・・。

 4月。「復興」からはまだほど遠く、「震災の爪跡」がまざまざと残る「神戸」をあとに、私は、「遍路」に旅立つ決心をした。もちろん、亡くなった方のご冥福を心からお祈りしている。でも、今年「遍路」に出るのは、「亡くなった方への供養のため」なんて、りっぱなことはいえない。震災で思い知ったのだ。「もの」は壊れる。「命」にも保証期間はない。せっかく「生き残った」のだ、「今できる」「したいこと」をしなければ・・・。人生に「明日」があるとは限らないのだ。

 幸か不幸か、「仕事」もほとんどなかった。

平成7年『震災と遍路』
【1日目】(通算18日目) 4月12日(水) [ 晴れ ]

 前夜、神戸から高速バス「よさこい号」に乗った。午前6時30分、高知のバス営業所到着。船に乗り換える手間がかからなし、起きれば目的地、なので、高速バスは便利だ。でもそれは「バスで眠れる人」の話。一睡もできないまま、座席でのたうっていた私は、「目の下にクマくっきり」で、また土佐の地面を踏むことになった。

納経料値上げ

 今回はここから、前回打ち終わった33番「雪蹊寺」まで歩いて、また「ひとり歩き」をはじめるつもりなのだ。バス営業所の人に事情を話すと、着替え用にと、わざわざ待合室を一つ貸して下さった。(すでに、「お接待されましたモード」に突入か) 着てきたジャンプスーツを脱いで、久しぶりの白装束。
 リュック、菅笠、大師杖を装備すると、アッという間に、正統派遍路に変身だ!何だか、スーパーマンみたいじゃない? 彼の変身場所は「電話ボックス」、私は「バス営業所の待合室」。(変身速度が違いすぎる?)
 ちゃっかりトイレもお借りして、いよいよ出発。

 この辺は「遍路地図」には載っていない場所なので地図もないが、だいたいの方向さえあっていれば行き着けるはずだ。とにかく桂浜方面を目指して歩く。
 何度も何度も人に道を訊いた。今回の旅は33番から始まる予定なのに、なかなかその出発点にたどり着けない。車道はトラック軍団がドドー、歩道は、通学自転車が群れをなしてびゅんびゅん行く。
 のびのび歩けないせいか、・・・早くも疲れが出てきた。

 6キロも歩いただろうか、ヘロヘロになりながらも、なんとか33番「雪蹊寺」に到着。前にもお詣りしているが、せっかくなので、もう一度「納経」の印を押してもらった。「納経料」が値上がりしているのを知らずに200円を差し出すと、オバサンに「300円やけどー」と、無愛想に言われた(前回はやさしかったのに)。 いきなりの試練か。しかし、こんなことでめげてはいられない。次へ向かう。6,5キロくらいの道のりだ。

遍路の幸せ

 1時間ちょっとで、第34 番札所「種間寺」に着いた。 けっこう大きなお寺だった。朝から何にも食べていなかったので、神戸から買ってきていたパンを食べる。(やっぱり神戸のパンはおいしい)
 ゆっくりお詣りして、のんびりさせていただく。境内の草取りをしていたおばあちゃんと、神戸の震災の話もした。今日はもう何回も、「神戸から」というので、同情票を集めている。皆さんやさしくいたわって下さる。 「お大師さまのおかげで助かったのね」と言ってくださる方もいた。でも、亡くなった方の中にも、弘法大師を信仰していた人はいたハズだ、と思うと、有り難いが、素直に納得することはできなかった。何があの時の生死を分けたんだろう。同じエリアにいて、無傷の人と命を失った人がいる。生き延びたから「守られた」、そんな単純なことではない気がする。残された人の苦しみや試練も大きい・・・。
 でも、こうしてまた「遍路まいり」をさせてもらえる「幸せ」は、やはりつくづく身にしみる。日焼け止めを塗りなおし、35番へ向かう。
 でも、ここで距離計算をしてみると、この疲れ方、この足の痛さでは、とても36番まではたどり着けそうにないことがわかった。そこで1つ前の35番近くの旅館へ電話してみた。「白石屋」に予約。今夜の宿を確保したので、気が楽になった。
 35番「清滝寺」までは、9,5キロ。がんばらねば。

揺れがこわい

 前半は、ナカナカ目標物が見つけられなくて苦労した。おまけに今日はおもいっきり風が強い。菅笠が飛びそうになって、あご紐が首を絞めるので、手で押さえていなきゃならない。ものすごく、腕が疲れた。それにまあ、犬に「これでもか」ってくらい吠えられた。鎖につながれてないから、追っかけてくるわ、とびつきそうだわ、噛みつきそうだわ、恐いのなんの! 身体をかたくして、ひたすら無視! 「おバカイヌなんだからー」なんて思ったけれど、怒っちゃイケナイお遍路なので、じっとガマン。「遍路って、たとえかみ殺されても耐えなきゃいけないの?」とひとりブツブツ。
 なんとか無事に通り過ぎた。

 仁淀川大橋はすごかった。なにがって、風! 風速何十メートル? って感じ。気をゆるめると、ぜったい飛ぶぞ! って感じ。おまけに大型トラックがガンガン通るので、揺れる揺れる! って感じ。(しつこい、って感じ?)
 今年の私は「揺れ」に敏感なのよ。「震災を思い出して恐いんだぞー!」と、ヒーヒー言いながら、ようやく高岡町に入った。

 遍路地図と首っぴきで、懸命に35番を目指す。途中、今夜の宿の「白石屋旅館」を見つけたが、やり過ごして、先へ進む。広い田園風景の中、前方の山の中腹に、目標の寺を確認しながら歩くので楽勝だ。

化粧はダメ?

 第35番札所「清滝寺」お詣り。納経も済ませてゆっくりしていたら、突然どこかのおにいちゃんが話しかけてきた。突然、「口紅はとってほしい」とおっしゃる。(なに、なに?) 「口をすすぐ時に、ヒシャクにつくから」ですって。(ヒシャクに唇が触れないように、上手にやってるんだけどなぁ。でも、その気持ちはわかる)ごめんなさい。これからは、ちゃんと手に受けてからすすぎます。 でもね!「貴女は、化粧しない方がいいよ!」とまで言うかなぁ。 それが、なんとなく失礼な言い方だったので、「日焼け止め塗ってるんです!」と反抗してしまった。(そんな厚化粧じゃないのよ、ヒドイわ)
 休憩所にいらした自転車遍路のお兄さんは、紳士に話しかけてこられた。今日からいっきに「歩き遍路」を見はじめたとおっしゃる。(歩きのシーズン到来なのね)その自転車お兄さんも、一回「歩き」で全部まわって、今は何度目かの遍路なのだそうだ。「誰かにあげようと思ってた」とおっしゃって、「娘巡礼記」という本を下さった。これが・・・ちと、ぶ厚い。ちょっと困る。重いぞー、読む元気もないぞー、困るぞー。でも、「いらん」と言うのも悪いし、せっかくなので、ありがたくいただいてしまった。
 そのお兄さんが行ってしまってからは、休憩所でミカンなどを売っているオバサンが遊んで下さった。オバサンは、私にブンタン(グレープフルーツみたいな色をしていて、上品な味がする、ミカンの一種)を食べさせながら、しばらく話し相手になって下さった。やはり、神戸の震災の話になる。いろんな方に心配していただいてたんだなぁと、改めて思う。出発する時には、1個100円もする大きなブンタンを、お接待にと2個も下さった。とてもやさしい方だった。

 山を降り、今来た道を3,4キロほど戻ると、確認ずみの、白石屋旅館。なかなかキレイで、りっぱな旅館だ。到着一番乗り、お風呂も一番乗り、食事も一番乗り。お風呂は湯加減ちょうどだし、食事もとてもおいしかった。(鰹のたたき・エビフライ・たけのこと山菜の煮物・菜っぱとエノキの炒め物・お吸い物・ブンタン2切れ) 超空きっ腹だったので、ご飯を2膳も食べて、大満足。

 夕食後、家に電話してみると、神戸も風が強く、私が飛んだんじゃないかと心配してくれていたらしい。ほんとに「オズの魔法使い」の世界へ行けそうなくらいの、すごい風だったもんね。

 明日何キロ歩くか、それが問題だ。中途半端な距離では、「宿」がない!

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[遍路きらきらひとり旅] 目次に戻るCopyright (C)2000 永井 典子 (イラスト・obata55氏)