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掬水へんろ館

平成4年『遍路への旅立ち』
【4日目】 4月18日(土) [ 晴れ時々曇り ]

 目覚ましのスイッチを入れ忘れ、おじいちゃんが雨戸を開ける音で目覚めた。もう6時過ぎ、大変だ。
 「雨が降ればもう一日ここにいられるのに」、という密かな期待は見事に裏切られ、明るい朝を迎えていた。

 玄関の前の水道で歯磨きをしていると、山高帽に小さなリュック、「僕はアルプス登山隊」という感じの男性が、颯爽と宿の前を通り抜けていった。足が速い。私も急がなくちゃ。
 またまたおいしい朝ご飯を、6時15分にはいただいたのに、お礼を言って宿を出たのは7時45分だった。(なんでかしらん)愚図にもホドってもんがあろーに。

がんばれ、つーよいぞ

 まっ、しゃーない、今日はゆっくり行こう。山登りはあと半分だし、次までの道も、下りと平たんなコースだ。「楽勝楽勝」、とゴキゲンに歩き出す、と、5分もしないうちに息があがってきた。かなりキツイ。急な坂。急な坂。全部、登り坂。たまに平たんになったりもするが、下りは下りでヒザがガクガクするし、もうこれは、「拷問」以外の何でもない。引き返すこともできないし、止まるわけにもいかない。「前進あるのみ」なのだ。ほんの小さな一歩でも、止まらずに歩けば、いつかは目的地にたどり着く。ローマの道も一歩から、か?(ローマじゃなくて、次の寺でいいのに)。
 1メートルを10回進めば10メートル、それを10回くり返せば100メートル、それを10回くり返せば1キロメートル、それを10回で10キロメートル。ほーら、いつか辿り着くさ。
 ゼーハーいいながらでも何かしゃべっていないと、くじけそうになる。今日は赤胴鈴之助の歌を何回も唄った。
「がんばれ、つーよいぞ、ボクらの仲間~、」

 そういえば、金剛杖の「鈴」の音が、どれだけ疲れた心を励ましてくれるかしれない。
 下り坂で考える。
「これ、杖がないとかなり辛いなあ」
2本の足だけでは、人間こんなにも不安定なものなのか、と思い知らされる。「杖」は、本当に人を支えてくれる。自分の足だけではころびそうな坂も、前方に杖をつくと、そこに体重をあずけてバランスがとれる。
 同行2人、やはり「大師」(杖)は心身ともに、遍路を支えて下さる。

 リュックの重さは、もうほとんど気にならなくなっていた。きのう長戸庵に行くまでに、また考えが変わっていた。
 リュックの重さは、自分が「背負っていかねばならぬもの」なのだ。つまり私にとっては、家に残してきた毋。彼女を背負って一緒にお詣りしているのだ、と思うと、急にリュックの重さを感じなくなっていたのだ。

最大の難所

 それまでもかなり辛かったのに、「焼山寺まであと2キロ」の標識の横に、「一番の難所。ここからが一番苦しい坂です、がんばってください」の札。
「でー! 冗談はやめてよ! 私をそんなにいたぶって何が楽しいの?  おまけに今までより「もっと」って、それ何? 今まで以上の苦しさなんて、ソーゾーしたくもないわよ!」と、大声で文句を言ってしまった。
でも、タイソウに言ってるだけなんだと思い直す。今までの苦しみを乗り越えた私には、少々のこと「なぁーんちゃあらせん」。これはきっと、さっきの車道まで「車」で来た人が、初めての急坂で苦しむから用心しなさいよ、ってことなんだ。きっとそうに違いない。

 そういえばさっき車道に出た時、やっと人間を見た。朝から誰にも会わず、黙々と一人山中を歩いてきたので、「人」を見てとてもうれしくなった。「へんろマーク」がないので、「四国のみち」の矢印に向かって、今日宿を出てからはじめて見た人間であるおじいちゃんの方へ歩いていくと、じいちゃんは「こっちやない、あっちの左の道や」と、まだ道を訊ねてもいないのに、まるで反対の方向を指さされる。「え?」っと、もう一度よーく探してみると、小さな看板が「焼山寺→」と出ていた。「こんなのわっかんねーじゃんかー、もうちょっとで、とんでもないところに行くとこだったんだぞー、疲れてんのにやめてよねー」、とか思いながら、おじーちゃんに何度もお礼をいった。
 山越えしてはじめて開けた集落。でも山あいにちっちゃな家が点在してるくらいで、人の姿もほとんどない。というか、そのじーちゃんしか見なかった。よくぞまあ、分岐点に立って道を教えて下すったこと。これも大師の配慮かと、頭が下がった。
 もとに戻ろう。そのじーちゃんに教えていただいた道が、「最大の難所」に続いていたのだ。
「2キロくらい」と思ったのが大間違い。ものすごい急な坂。坂じゃない、ロッククライミングでもしてるような、「石にへばりつき登りコース」なのだ。
「ちょっとヒドイんじゃないのー」 ヒーヒー言いながら登りはじめて、5分くらいたった頃、前方から何か落ちてきた、いや、降りてきた。なんと、今朝柳水庵を駆け抜けた「アルプス登山隊」にーさんだった。
 急な段を2つ3つ飛ばしに、さっそーと降りてこられる。すれ違いざまに、苦しい息ながらも「お気をつけて」と愛想したのに、何も言わずにハヤテのようにとび去っていった。よーよー、にーさん、そんなに急いで何処行くの? くじけかけてる哀れな遍路に「がんばって」の一言も言えないの? と恨み言も出る情けなさ。・・・つらい。
 ガイド本に「杉木立の中を、もうひとあえぎ」とあったけれど、ひとあえぎどころか、私は何千回、何万回あえぎしたわよ!
 それでも、苦しくても辛くても前に進めばいつの間にか必ず着くもので、とうとう、焼山寺に登り着いた。

苦労はむくわれる

 あと八丁、あと六丁、あと二丁と標石が出る度に思っていた。今日こそはホメテほしい。今までのは「えらい」に値しない。でも今日の私はえらかった。本当にえらかった。身体もえらかったけど、ここまで来た根性は(引き返すこともできなかったけど)見上げたものだ。
 泣き言は言ったけど泣きはしなかったし、途中で会ったトカゲ2匹にもちゃんと挨拶した。お地蔵さまにも手をあわせたし、「ガンバレ」の札にも、ちゃんと声を出して「ありがとう」と言った。今日こそほめてほしい。誰でもいいから、一言でいいから、いや、できればたくさんほめてほしい。そんな気持でいっぱいだった。

 そして第12番札所「焼山寺」の山門をくぐった瞬間、私の苦労は、むくわれた。なんと、きのう11番で私をスターダムにのしあげてくれた、あの、あの団体遍路さんたちが、ちょうど一緒に門をくぐられたのだ! ウソみたいな偶然。
 口々に、「きのう会ったんよ、覚えてる?」「いやあ、あんた昨日の子、もうここまで来たん? すごいなあ」「よう無事ここまで来たね」。ガイドさんも、「みんな心配しとったんよ。よう歩いたねえ、ほんまにえらいねえ」と、みんなで、がんばったね、えらいね、すごいねの大合唱をして下さった。「えらいの分けてもらお」と、私の身体に触る人までいるではないか。
 うれしかった。ほんとーにうれしかった。がんばった事を、大勢の人が認めてほめてくれることが、こんなに「快感」だとは思わなかった。(オリンピック選手が金メダルをとった時って、こんな気持ちじゃないだろうか)これは、一度味わうとクセになりそうだ。その団体遍路さんの一人が、「お接待に」と2千円も下さった。ああ、このお金、もったいなくて使えない。

 私の「11番から12番」を見届けて下さった、やさしい応援団は、まもなく、バスに乗って走り去って行った。別れ際、20人ほどいる、本当にひとりひとりが、それぞれ、励ましと賞賛の言葉をかけて下さった。
 報われた思いに、胸がいっぱいになり、結局、一時間近くを焼山寺で過ごした(その間にバナナを食べてジュースを飲んで、トイレも2回行った)。幸せだった。
 夕べ「柳水庵」のおばあちゃまに教えていただいた「四国遍路ひとり歩き同行二人」という本は、ここには置いてなかった。何でだろう、歩き遍路には一番お便利な本なのに・・・。ま、いいや、今日歩く道順はメモしてあるし、宿も予約した。あとはゆっくり楽しみながら歩いて、神山温泉で、疲れた身体を休めるのだ。

少女趣味?

 遊び気分で下りはじめた。車だと山をグルグルまわりながら降りなきゃいけないのに対し、「歩き」だと、すとんと直進下りができる。しっかり踏みしめれば、それほど辛いものでもない。下りはじめて20、30分進んだ左手に、「杖杉庵」があった。番外札所だ。
 最近、般若心経の唱え方が、少しわかりはじめてきた、というかフシがついてきたみたいだし、ここはまわりに誰もいない静かな霊地。よーし、いっちょ「かっこよく」やってみよう! 今までで一番大きな声で、かっこつけて唱えはじめた。(カンニングペーパーは離せないけど) と、突然お堂の中から、「ようお参りくださった」と太い声。ギョッ! 人がいた。 びっくりするやら恥ずかしいやら。でも途中で止められない。お辞儀だけしておいて、なおも唱え続けるが、声はだんだん小さくなってゆく。
「色即是空、空即是色、受想ぎょうしき、やく、ぶ、にょー・・・」(オジサーン、いるならいるって言ってよねー、べっくらこいたじゃないかー。急に出てくるから、「なんか出た!」なーんて思っちゃったぞ)

 無事お詣りを済ませ、そばで待ってて下さったオジサンに、納経印をいただく。印を押して下さりながら、「神戸から来たんなら宝塚の少女歌劇におったんじゃろう」と、どう返答していいのか、さすがのインタビュアー(私の事)をも困らせる、難解なほめ方をして下さる(「ホメ言葉」だと確信する自信がすごい?)。
 大日寺への道を教えて下さりながら、「きのう19才の女の子が、自分の弟子の尼僧と一緒になってやって来た」、という話をされた。「19才でお遍路さん」というのは画期的なことらしく(この頃はまだ若い歩き遍路が少なかったようだ)、坊さま、コーフン覚めやらずといった雰囲気だった。

無骨なみかん

 お礼を言って、左下の道を降りて行く。どんどん降りていくと、ガイドにもある鍋岩という集落に出た。山あいを川が流れる、こじんまりした村だ。少し行くと、道端で果物を売っておられるオジサンが、「見かけは汚いけど甘い!」と言って、ミカンを2個、私の手に持たせて下さった。本当にブサイクなミカンで、ところどころ傷みかけていたけれど、うれしかった。ありがとー、オジサン。
 「気ィつけて行きや」と見送って下さったおじさんは、くださったミカンと同じ、無骨そーだけど、甘い、やさしい顔だった。

遍路のむくろ

 この辺から道がよくわからなくなった。ガイド本には、「鮎喰川沿いに」、と書いてあるのに、「へんろマーク」は、山へ入る矢印。「うーん、うーん」と、ひとしきり悩んだ末、大型バスのブンブン走る川沿いの車道コースを避けて、山へ入った。(でも、これが大間違いのこんこんちきだったのよ!) 山へ入ってもすぐに突き抜けて川の所へ出ると信じていたのに・・・。
 途中、木が何本も倒れて細い道をふさいでいるわ、ちっちゃな野ねずみが首を噛まれてヒサンな最後を遂げているのに出会うわ。ヤバイナーと思いながらも、「へんろマーク」が「こっちこっち」と先へ誘うので、フラフラと前進を続けたのだ。そのうち、よけい登り道になって、工事のカーブ道にさしかかって、「もうダメ、引き返そうかしら」と思った時、ショベルカーを操作していたオジサンが、「気ィつけて行きなさい」なんて、ものすごーくやさしい声で言って下さるものだから、思わず「ハイ」と元気に返事して、ずんずん登ってしまった。 そこから、ああ、あまりにも辛く苦しい修行の行が始まったのだ。
 「へんろマーク」はまぎれもなく山の斜面を指しているが、見ると、道らしき道もない。「うそだろー、これ登れっての? 直角じゃないのよ、あたしゃサルじゃないのよ。じょーだんでしょー」。・・・一人で文句言ってみても、結局進まねばならず、泣きそーな気持ちで山の斜面を登る。
 それは、さっき終わったばかりの、焼山寺の「いちばんの難所」とまるで同じだった。先がわからない分、もっとタチが悪い。それでも「へんろマーク」は、ひたすら山の上へ上へと続いている。不安と疲労と、引き返すこともできない中ぶらりんの気分で、「ここで死んだらどうしよう」と真剣に考えた。いや、こんなことで死にゃしない。この山が延々と続き、里へ降りる道がなくても、いつかは「騙されてここを登ってくる遍路」がいるハズだ。私がここで果てていても、必ず誰かが見つけてくれる。・・・でも気の毒よねぇ、その人だって苦労して必死でここまでやって来たのに、目の前に遍路仲間がころがってたら、助けないわけにいかない。(私みたいに初めての遍路だと)先がわからないから、また今来た道を戻って、人を呼びに行かなきゃならない。下に降りても、あの工事のオジサンがもういなかったら、もっともっと降りていかなきゃ「民家」なんてないのだ。おまけに救助隊を案内して、またまた今来た道を登らなきゃならない。ああゾッとする。
 私がもしここで「遍路のムクロ」に出会ったら、「あ、これは白い石だわ」、なんて、見なかったことにして、行ってしまいたくなるだろう。人の迷惑にならないためにも、こんな所で果てられない! そうやって自分を奮い立たせ、ひたすらひたすら登った。そしてやっとこさ「峠」に出た。大日寺の矢印が下り道を指している。やったー!やっと、人間のいる所へ出られる!

 安心したので、峠にドンと出てきたお堂の前に座らせていただいきゴハンにした。お堂の前には、やっと出てきた、人の匂いのする「舗装道路」をはさんで、7人のお地蔵さまが並んでおられた。よくぞここまで無事に導いて下さったと思い、買ってきたちらし寿司を、葉っぱに少しずつ載せて、7つお供えした。お茶のかわりに、毎日宿のポットのお湯を入れてくる。夜はのどが渇いてジュースやお茶やとかなり飲むが、昼間は小さなお茶入れのお白湯をちびちび飲めばちょうどいい。

地獄に仏

 雲がかかって肌寒くなってきたので、ちらしは少し残して出発することにした。
 楽しい下り坂。でも足は、「もうかんにんしてーなぁ、もう、あて(私)へろへろでんねん。ちょっと酷使しすぎとちゃいまっか。これ以上歩くゆーんやったらストライキしまっせ」と言っているように、ヨタヨタしていた。でも歩かなきゃ宿どころか、道を訊ねる「人」にも会えない。
 しばらく下ると、ようやく山あいに集落が現れ、段々畑に、ちらほら人がいた。
「キャー、人間がいる、動いてる、しゃべってる!」 ここは人間社会だ。めでたいめでたい。砂漠をさまよってようやくオアシスにたどりついた気分だった。
「大日寺行き」の「へんろマーク」は、相変わらず、このまま次の山へ行けと命令していたが、「もういやだ。何があっても降りてやる。ここに住みついたっていい。人のいる所がいい。もうぜったい山へなんか入らない」
 プンプンしながら、民家方面へ降りていき、一番最初に見た「人」に声をかけた。
 よく日に焼けた、親分タイプのおじさんが、ニコニコしながら駆け寄ってきて下さった。「大日寺やったら、その道いくねんで」 そうだけど、今日は大日寺へ行く途中の神山温泉に泊まるんだ、と言うと、おじさんの目がテンになった。「あれま、ぜんぜん違う方向へ来とるで。なんでこんなとこ登って来たんや、ひと山ぶん向こうやで」と、今降りてきた山の向こう、つまり難行苦行の始まりの所あたりを指さされるではないか。ひえーん、やっぱり?
 私は、そのまま降りればいい所を、わざわざガケを登り、見事にひと山越えてきたのだった。・・・めまいがした。足は、「もう一歩も歩かへん!」、と棒になったフリをしている。

 今にも泣きそーな顔をしていたのだろう。「おっちゃん、お接待したげよ。うち泊まるか? なんやもう宿予約しとんのか、何処や、え? なんや、つじサンか、ほんならよー知ってるから、お接待に送ったげよ」と、サッサと車をまわして下さる。口がさけても、いつものお断り、「歩き遍路ですから、車には乗れません」は言わない。言うもんですか! これだけがんばって歩いたのだ、ズルじゃないハズだ。もうへろへろなのだ! 今から下の車道を歩いて戻ると、何時間もかかるっていうじゃないか。 もうぜーったいヤだ。誰が何て言ったって、歩くもんですか!
 ありがたーく、素直に、車に乗せていただいた。オジチャン(親しみを覚えたので、呼び方が変わった)は自分の仕事を放りだし、車でもけっこうかかる道のりを「民宿つじ荘」まで送って下さった。

 道々、オジチャンは、自分も88ケ所をもう3回もまわったこと、よくお遍路さんを接待すること、この間も28才の尼僧さんを2晩も泊めてあげたことなどを話して下さる。ということは、やはりこの辺では、歩き遍路がよく迷子になるのだろうか。
 それにしても、この方に会ってホントにラッキーだった。相原土建の「あいはらサン」という方で、「つじ荘」に着くと、「道に迷ってたお四国さん、お接待で送ってきたでー」と、私をつじ荘に引き渡して下さった。(遍路のことを「お四国さん」というようだ)
 好きな部屋を使っていいと言われ、部屋の探索に出かけている間も、オジチャンは庭先で、つじ荘一家とでっかい声でお話しをしておられる。
 私は、ねぐらにおちついて、すっかり元気を取り戻していた。

 まさに「地獄に仏」だったオジチャンも帰られ、私はすぐ近くの神山温泉に出かけた。温泉といってもあまり有名でもなく、観光地でもないようで、近代センスの健康ランド風大浴場には、近所の人たちらしいおばさんがチラホラ入っているだけだった。私が入っていくと、いっせいに注目。やがて今までのおしゃべりに戻るのだが、常に誰かがこちらを見ている。なんだか恥ずかしい。こんな疲れた顔と身体、見ないで!
 でも、オフロは天国だった。疲れが半分溶けて流れていった。

 民宿に帰って、洗濯機をお借りし、何もかも洗濯。でも洗剤が少なかったせいか、あまり真っ白にはならなかった。宿のオバサンに、「洗剤は自分のがあります」と得意げに言った手前、借りるわけにもいかず、洗濯機の横に置いてある洗剤を恨みがましく睨んだりして・・・。

 今日はじめて、夕食を残した。まずかったわけではない。食がすすまないのだ。ジュースの飲みすぎかしらん、やっぱ疲れてるのかしらん・・・。ご飯もたくさん残したので、少し残したままのちらしのパックに、そのご飯をこっそり詰めた。お漬けものも入れた。だんだん「サバイバル遍路」になってゆく。いただけるものはいただく、使えるものは使う。
 洗濯干しにも磨きがかかってきて、今日は、ストーブのまん前に洗濯物が降りてくるように、「ハンガー5つつないでロープ張り」というワザをあみだした。お陰で、寝る前に、厚物まで全部乾いてゴキゲンだ。 ・・・今日はさすがに眠い。

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