掬水へんろ館目次前日翌日著者紹介
掬水へんろ館のらくら遍路日記〜土佐・修行道場篇(序)
北村 香織
第4日
7月16日(金)

今日の坐禅


ビリビリ…も我慢した。今日は新たに、起きているのにまるで眠っているかのような境地を体感。これも「無」への障害の一つになる幻覚の一種で、でも少し集中力が出てきたということ。「進歩している」と和尚さん。辛かったのは、1時間を経過して1時間半までの間。足を組み替えるとどうしても辛くなる。今回は雑念は辛くなってから時間が気になったぐらい。

今朝の坐禅(3回目)はけっこう我慢したし、自分では頑張ったつもりだったので50点。でも朝ごはんのとき、顎をのけぞらせていたことを注意されてしまった。そんな姿勢では坐禅をする意味がない、と。恐縮です… ひゅるひゅると縮んでしまった。

その後の草むしり(注.和尚さんが朝ご飯の支度をして下さっている間と食後の午前中の日課)中はそのことと坐禅が全然出来ない自分のこと、そして なんで今自分はここにいて、いったい何をしてるんや?! ということをずっと考えていた。答えはなーーーし。なんか流されすぎかなぁ・……。このお寺を紹介してくれた人も小僧さんも、めちゃくちゃ居心地がいい、サイコーだ、みたいなことを言っていたけど、そこまで言うほどかー?

それともうひとつ気づいたこと。こんなふうに、あるいはどっかの片田舎で必要最低限のことをしながら悠々と生活することに憧れながら、私って絶対それができない人間だってこと。こうして「今」に充足して一生懸命生きられる人って本当にスゴイ。私はいつも何か欠けてて、常にその何かを求めて、永久に追っていないと気が済まないんだろうな〜。それってけっこう夢がある、と言えるかも知れないけれど、その反面ドン・キホーテなのかもね、本当は。

お昼はなんとカツオの刺し身&タタキ! ごはんは朝の残りの冷や飯なんだけど、これが馬鹿ウマ。朝いつもお勤めに来られるご夫婦がいて、昨日いただいたものの、こんなに大きなカツオをさばく包丁もなければできる人もいないので、持って帰ってもらおうとしたら、たまたま昨日本堂に泊まりにきた警察官の方が旅館の料理長さんと仲良しなので、頼んでさばいてもらうと持っていって下さったもの。その間休憩ということで、久っ々に表で頭洗って、乾かしがてら2km離れた公衆電話に電話をかけに行った。(ちゃんと電話はある。でも携帯電話にかけると通話料が高いので遠慮した。) お天気は良いが、今年はどうも雨が多く全体的に湿度が高いようで、歩いて往復するのはなかなか大変。でも帰り道てれてれと歩いていたら、この警察官さんが拾ってくれて助かった。(お寺の麦わら帽にスリッパにあの格好じゃ目立ちすぎたか…)

和尚さんは普段は日に一食という生活を送っているだけに、お昼はいらないとおっしゃって、既にお昼寝タイムに入っていたのだけれど、この量と質には負けて一緒にいただいた。でもここのところ宿泊客が連続でいるので、2〜3食食べるせいで口の周りに出来物ができたとこぼしておられた。あー 毎日豪勢な食事を禅寺でいただいて、こんなに幸せでいいんだろうか〜。

昼からまた草引き。1時間半もやっていた。季節のせいか、それとも土のせいか、とにかく引きやすいのでついついやってしまう。引きながら歩くことと座ることについて考えた。よ〜分からん。 でも体を使うのは、頭(意識)だけでなしに全身(特に体)で感じ取るためなんじゃあなかろうか。まさに体得ってやつ。

それから私は定住に向いてない。蒙古民族の血か何か入ってんのちゃうか? 清水くんは坐禅より歩いている時の方が雑念が入ってこないと言っていたけど、私は動いている時にこそ色々ひらめいたり考えが湧く。坐禅の方がどちらかというとまだ「無」の境地へは1歩近いかも。あと2回しか坐禅のチャンスも無い。明日こそ2時間、足を組み直さずに頑張るぞ!

草引きやめて母屋に戻ってきたら、間髪入れずに巨大スイカが出てきた。和尚さんが何年か前、本堂建築のために全国を托鉢して行脚された(注.和尚さんは30年かけて全国を廻って2億円貯め、本堂を3年前に建てはった凄い人です)ときに廻った鳥取の信者さんか誰かが毎年送ってくれるもので、一人で抱えるのすら難しい、とにかく巨大すぎるスイカがなんと2つもある。1つは知り合いの方にお裾分けして、残りのひとつを草刈りの手伝いにはるばる来てくれたおじいちゃんと毎朝お勤めを欠かさないご夫婦と、その他あわせて7人でやっとこさ食べた。縁側にすわって、種をぺっぺっ地面に飛ばしながら、正面には田んぼの緑と土砂利の道と民家、川にかかる橋―――。日本の夏の原風景がここにある。入れかわり立ちかわり人が立ち寄って、差し入れもらったりお裾分けしたり。1日草引きとおしゃべりで のほほ〜ん と過ぎていく。風が走り、虫音に囲まれ、闇はやがてすっぽりとあたりを包む。

いいねぇ〜 トイレとお風呂とキッチンはリフォームしないといけないかな、あとはそっくりこのままの大正建築に住みたい。。。 でもそのまんまの暮らしは私にはできんな〜、きっと。無駄と消費を必要最低限におさえた生活はけっこう好きで、今も自分では気をつけてやっているつもり。それでもまだまだ私はどっぷり現代っ子。食パンの空き袋とプラスチックの袋止めすらも和尚さんはちゃんと取っておいて、リサイクルやお湯やご飯を炊くのに活用している。「今の子はそういう(何でもすぐ捨てたりする)生活に慣らされている。そういう風にしつけられている」と言われた時は、ドキッ とした。

夕食時、和尚さんとサシで冷やをやる。アテはお昼のカツオ。私は日本酒はあまり得意ではないが、このお酒は飲みやすい、うまい。どこの地酒…と思ったら、月桂冠だった。アウトドアの食事と同じ原理で、気持ちとシチュエーションで人間の感覚は全然変わってくるんだな、と改めて思った。

和尚さんとは初めてまとも、というのか、きちんと正面向いて話をしたような気がする。和尚さんも女一人が居候するんじゃ、やりにくくて仕方ないかも。でもこの時はお酒も入ったし、よくしゃべってくれた。そのやりとりから…………。

心身バラバラに感じることも分かることも理解できることもあるけど、坐禅や何かで心身統一の訓練ができていることで、より深く、まっすぐに体に入ってきて消化できるのではないか、と思った。今の教育が頭(意識)ばっかりに視点を置いて、西洋の学問や思考法ばかりに力を入れすぎているがために、そっちの極致へ行ってしまった人間、つまりエリートと呼ばれる人たちの一部が反動で無意識的なもの、神秘的不可解なものを求め、でもあまりに頭でっかちになってしまっているから周囲をうまく、広い視点で見れずに、例えばオウムにひっかかって視界10cm…みたいなことになったのではないか。日本人にはコーディネートの才能があって良いものを見る眼もあるのに、なんで足元の良いとこまでへりくだってるのか見落としてるのか、評価しないんだろう??? やっぱり古来伝統の心身一体感を忘れているからじゃあなかろうか、とほろ酔いに思ったのであった。

さっきかつての仮本堂で今は私の寝室でもある15畳くらいの間で見つけた『荘子』を読んでいる。明日1日しかないので、頑張って読まな。驚いたことにこの本に1万5千円挿んであった。案の定?和尚さんはすっかり忘れてはったらしい。このお札、日の目を見れてよかったね。(正直、一瞬だけど〔言わなよかったかな〕と思いました ^^;)

四国遍路目次前日翌日著者紹介