のらくら遍路日記〜阿波・発心道場篇 | ||
北村 香織 |
| 3月16日(火)///曇のち晴 |
5:30 起床。肩・腰・ふくらはぎのコリに唸る。昨日のポテトとカロリーメイトで朝食後、7:30UP。
8:10 11番 藤井寺。昨日お参りは済ませてあるので、団体さんの脇を抜け、いよいよ山越えの細道へ。この山道は弘法大師が通った道としては残された最後の道だそうで、木の枝などにやたら「空海の道ウォーク」とかいう札がぶらさがっていた。他にも「最後までがんばろう」とか色々なメッセージも。この山越えルート、12〜3kmではあるが山を4つ?越える(横切る?)という八十八箇所きっての難所(というのを後で知って納得)。数々のメッセージははっきり言って鬱陶しいわ、ムカツクわという気分に進めば進むほどなっていったけれど、ひとつ「ナンダサカ コンナサカ」というメッセージ札があって、これには助けられた。以後、鈴木光司著『リング』でお馴染みの"貞子"が埋まってそうな鬱蒼とした杉林の登りがえんえん続く中、ひたすら頭の中で(ナンダサカ コンナサカ)をリフレイン。思いつきですぐ行動してしまう、おのれの軽はずみさを何度呪ったことか…。本気でやめたくなったが、こんな山の中でひとりっきりで、前へ進まなければやめることさえできないというジレンマ。されどこの厳しいけものみちを一体これまで幾人が通り、そしてその中の何人が倒れ、命を落としたのだろうと思うとゾクッとする反面、なにか尊いものも感じた。途中2,3個所古い庵が休憩所、そして仮寝床のような役割を果たしていて私も休憩させてもらったが、異様に寒くなってきた。それまで歩いていると山の冷気が白装束を通して肌に適度に心地よかったのに。
11:25 一本杉庵。この直前の登りがキツくてキツくて、ひとり大声で文句たらたら。
と、目の前に石段が出現、顔を上げると上方に巨大なお大師様の像が錫杖を右手にじっと見下ろしている…! 思わずさっきの悪態を心の中で謝っていた。自分でもびっくり。空海のことは歴史で習ってもちろん知っており、書の見事さでは尊敬もしていたが、別にそれだけのことで、高野山に行った時も全然いわゆるお大師様として意識したことなどなかったのだから。 ここで休憩中の2人のお遍路さん…と思ったら、ひとりは初日に1番さんまでご一緒したNL青年、もうひとりは単なる地元民のおじいちゃんに出会い、おじいちゃんが何処からともなく缶ジュース2本とパンを2つ出してきて手渡してくれた。すきっ腹だったので、感謝感激しながらお接待を頂戴する。NL青年とおじいちゃんの会話の成り行きから、これまたお接待で少しだけ車に乗せて下さるという。距離的には2kmほどであるが、半分ぐらいは稼げるとのこと。ふたりとも有難―くお言葉に甘える。NL青年は道々小さなお地蔵さんまでしっかり拝んでいくというので、私は先を歩くが、里に下りてきたところで満開の梅が紅白見事に鮮やかに目に飛び込んできて、思わず叫んでしまったほど印象的だった。おじいちゃんに教わった通りどんどん下って、やがて道路の脇の広い駐車場とログハウス風のトイレに出る。そのトイレ脇にすごい風貌の陽に焼けた筋骨たくましい白髪のおじい(と敢えて呼ばせていただく)が、みかんをくれるというので受け取るが、あまりにたくさんあるので、周囲に群がっているバス回りのお遍路さんたちと1つずつ分ける。このおじい、露天商のように何かパンフレットのようなものを売っている。聞けば千日行の途中でお寺の石段から落ちて足を捻挫したので、ここで野宿しながら薬で治るのを待っているそうな。パンフは厳密には売っているのではなく、托鉢してくれた人にお返しに自身で詠んだ俳句集を渡しているのだそう。面白そうなので、話を聞いているとなんと太平洋戦争・南方戦線の生き残り兵、それも「南の島に雪が降る」で有名な部隊にいた究極のつわものであった。「南の島に…」というのは昭和19年戦局の悪化したニューギニアで2万人いた兵士のうち半分が敵の一斉上陸を避けて転進するなかでほとんどが死んでいった (ニューギニア死の行進)といい、残りの半分も栄養失調やマラリアで置き去りにされ死を待つのみで精神がすさんでいく一方だったので、支隊司令部が演芸分隊を発足させ芝居を上演させた。ジャングルの中に250人収容の歌舞伎座を建てて1日1回1ヶ月ごとに演目を変えて続けていた。飢えとマラリアに弱った身体でジャングルの奥地から河を泳いで渡ってまで見に来る兵隊さんもいて、舞台の上の故国を見て懐かしがり「もはや思い残すことはない」と死んでいった兵隊さんたちがいっぱいいたという。あるとき出だしの雪景色の場面で、いつもならどよめきが起こるはずなのにシーンとしているので不思議に思って俳優さんがソデから覗くと、300人近い観客が全員泣いていた。この日の観客は東北の部隊だったのである…。(加東大介著 「南の島に雪が降る」、私は 小林よしのり「新ゴーマニズム宣言・戦争論」より引用)
実に2万人のうち生き残ったものが数えるほどしかいなかったという死地をくぐり抜け、身体に銃弾やその貫通痕を持つこのおじい、これは何がなんでも話を聞かなければ!と思い、傍らにへばりつきアンケートをお願いしてみた。が、一通り目を通すと一言。「こんなもんで人のこころなんか分からん」 … 。もちろんそれは正答でこの方式の調査の一番痛いところを突かれたわけで、私自身よくよく分かっているところなのだが、そうあっさり蹴られるととりつくシマもない。なんとかねばってインタビューを録音させてもらうことに。が、レコーダーが動かない…。電池を換えてもダメ。仕方ないのでメモする。それにしてもレコーダーが無駄というのはショック。卒論指導教官・A先生は大学まで高知どっぷりの土佐人であるが、お遍路さんについては「知らん!」と胸を張って断言し、スケッチブック持ってけ、カメラも、レコーダーも、と指示を出してくれたのでなるほどと素直に従って、荷物の重量の1/3はこの3種の神器なのに、スケッチどころかカメラさえ億劫であまり使う気になれないでいるっちゅーに…。
それはさておき、とにかくおじいからは貴重で重みのある話をたくさん聞くことができ、私にとっては本当に有意義なひとときであった。まるで逢うべくして逢ったような気がしている。お礼に朝買ってそのまま持っていたどら焼きと地元のおじいちゃんにいただいた缶コーヒーを托鉢し、そろそろお参りに行こうとしたところで、なんと12番のお寺はここからまだ山を登らなければならないことが発覚。しかも私はどうやら梅林のところで道を間違えてしまったらしい。13番さんへ行く途中にまたここへ戻ってくることになるので、おじいにザックを見てもらい、本来なら下ってくるはずの道を急いで登る。身軽なだけに最初は順調。NL青年とすれ違い、2,3言交わす。けれども行けども行けども続く山道に徐々に足が重くなり、最後はもうふらふら。真剣に倒れそうだった。
14:50 12番 焼山寺 着。 炭酸飲料が飲みたくて飲みたくて(私にとっては珍しい)1本一気に飲み干し、食堂で四国に来て初めておうどんを食べる。おだしがお蕎麦みたいだったけど、やはり!コシがあっておいしかった。お椀を戻しに立っておばちゃんと世間話。が、これからのことを考えるとブルーになる。こうまで疲れ切ったのはワンゲル時代(実は某外大ワンダーフォーゲル部出身)の過去にもあるかどうか。時間的にも非常に心もとない。どうしよう…と思いながら石段を下りていると、車で来たというおじさんが乗せて下さると言う。助かったー。もしかして"誰か乗せて"オーラが立ち上っていたのだろうか? 有難くちゃっかりとお言葉に甘えて、麓まで送って頂いた。その間20分。速い…。
麓ではNL青年がおじいともう一人地元のおじいちゃんを加えて話していた。おじいは私が車で送ってもらったのを見て、さも安心したかのように頷いた。つい長居して話し込んだばっかりにかえって心配をかけてしまって申し訳なく思った反面、少しうれしい気もした。NL青年が今日の宿を予約していないというので、13番へは遠回りになるが私と同じ宿が比較的多くて近い南回りのルートを取るよう勧め、一緒に出発する。話をしながら、あの梅のところで道を間違えたのはラッキーだったかもしれないと思った。正規の道はそれはものすごい急登で、私が登ったのよりはるかにきつそうだった。あのザックを背負ってそれでは絶対くたばってしまったに違いない。車で送ってもらったとはいえ、1時間も油を売っていた私と彼がほとんど時間的な差がないぐらいだから。清流・鮎喰川に沿って約1時間、宿につく。彼はもう少し先の温泉に予約してみると言って電話ボックスでお別れ。
宿はけっこう上々で、お夕飯は豪勢だった。仕出しやさんなのもあってかお刺し身とか冷たいものが多かったけどおいしかった。でも品数も多く、全部は食べられない。もったいないーと思いながら、これをあのおじいに持っていってあげられたらどんなにお互いにとっていいだろうと思わずにいられなかった。そしてこのあたりから寒気がし始める。すぐ就寝したものの4:30頃に寒くて目が覚める。どうも山中で風邪をひいたらしい。
本日の歩行距離: 24.1km