供養碑会世話人 佐藤 孝子 |
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お大師さまのご霊跡をつなぐ遍路道は千年の歴史があるといわれます。遍路途中、あるいは遍路道上で事故に遭ったり、病気になったりして結願できずに亡くなられたお遍路さんは大変な数になるでしょう。
かつては不治の病におかされて四国へ遍路となって渡り、遍路道のほとりで亡くなった人も多かったと聞きます。
それにしても八十八番を目前にして亡くなられた方や道で行き倒れた方々はどんなに残念であったろうか、と思います。
結願寺の大窪寺まであと少しというところで、お遍路の皆様にちょっと立ち止まってそんな亡き方々に合掌していただく場、ここまで来ることができたことを感謝する場があればと考えて、建立を思い立った次第です。
碑に写経を入れる |
供養碑には、土地提供者のお名前、ご浄財と写経を下さいました108人の方々のお名前が刻んであります。
碑の胎内には、「遍路道中物故者供養の為」にいただいたお写経が納めてあります。このお写経が碑の「慰霊パワー」です。
碑の石は、お大師さんの故郷の名石「庵治石(あじいし)」です。周囲にお遍路さんが踏んだであろう徳島県鮎喰川河原の青石、焼山越え山道の石、室戸ごろごろ石、岩屋寺直瀬川河原の石、北条杖大師の石を配しました。
世話人を務めさせていただく佐藤孝子は、1997年10月30日の朝、2度目の結願を目指して、碑を建てようとするあたり(香川県さぬき市長尾町前山付近)を歩いておりました。雨上がりで陽がさして来た道ですが、トラックはどんどん疾走して来るし、なんだか付近の「昏い」としかいいようのない陰気な気配に「いやな場所だな、この場を抜けて早く88番へ」と思って歩を速めました。
そこにスピード出しすぎでカーブを曲がりきれなくなった車が突っ込んできたのです。数メートル飛ばされて落下、全治3ヶ月の重傷、事情聴取に来た警官が「よく助かった、よく頭を打たなかった」といいました。回復まで手術やリハビリも含めて2年の時間を費やしました。
私は、事故直前の陰気ないやな感じが忘れられませんでした。
あの場所には何かあるに違いない、もしかして浮かばれない方でも・・・歩き遍路の霊的直感です。
杖をついて歩けるようになった時に、へんろみち保存協力会の宮崎建樹さんと、今は亡き、86番八栗寺ふもと、牟礼の田渕石材の社長さんと共に供養をしに行きました。その折、地元の方である田渕石材さんに「昔このあたりで遍路バスが崖下に転落して亡くなった方が何人もおる」とお聞きしました。
そのとき決意しました。
「88番を目前にして亡くなられた方々はずいぶんと残念であったろう。思いが残っただろう。遍路の歴史の中で、遍路道のほとりで亡くなられた方々も沢山いる、現代の車遍路で交通事故に遭われた方もおろうし、病気で結願できずに亡くなられた方もおろう。そんな方々をお慰めする碑が建てたい。そこで、お遍路さんが一時足を止めて合掌し、今自分がここに立っているのは自分だけの力ではなくて大勢の人の助けや歩みの上にあることを感謝できる場ができたらいいなあ」。
1998年5月27日のことでした。
開眼供養の日まで、魔除けの白布を巻く |
宮崎建樹さんに心がけていただいていたのですが、なかなか場所のご縁ができませんでした。
昨年4月職を得て徳島市に転居したのですが、10月末に失職。時間ができましたので
11月中旬から気に掛かり続けていた「供養碑建立」の活動に入りました。
12月半ばにあるお寺の門前近くに決まりかけたのですが、土壇場になってお断りを頂いてしまい「その場ではなかった」ということもありました。そして宮崎さんよりご推薦を頂いた地が、私がまさに事故に遭った場所にほど近い現在地です。
場所を検分に行ったときに、しかしホントにここでいいのかと思いました。
そこで、天に向かって「ここでいいんだったら雨を降らせててよ」「いいんだったら雨が降れ」と何度か叫んで待ったのですが、降りません。薄曇りでしたが、雨が降るような空ではなかったですし。あきらめて「道の駅ながお」に向かって歩き始めてしばらくしたら顔に冷たいものが当たるのです。え?と思っていたら、今度は道に雨のしずくがつきました。「ホントにふった!」とただ驚きました。5分足らず道に跡がつく程度に降ると、止んで薄日が射してきました。偶然にしては都合よすぎる小雨でした。「天の答え」をもらった気がしました。幸いにも、地主様もご承諾を下さいました。
碑の石を頼みに行った石屋さんでは「自然石の碑といってもそんなに都合よくいい石があるもんじゃない」といわれたのですが、休日返上で石探しにご尽力くださったお陰で見つかりました。
この石屋さん、話すうちに初めに一緒に行って下さって「ぜひ、供養碑をつくりましょう」と言って下さった田渕石材さんと親しくおつき合いなさっていたことが分かって因縁を感じました。
私が徳島まで来てあっという間に職を失ったのも、実は碑を建てるためだったんじゃないかという人までいます。職を得たのは、単にきっかけだったんだろうと・・・。
確実に言えることは、この「仕事」は、一時にしろ「お四国の人」にならなければ、できないことでした。
形になるまで、大勢の人達の善意をいただきました。
建立地決定、賛同者を募る、碑の石探し、地鎮祭、周囲の石拾い、開眼供養前・当日の準備、お天気に恵まれた盛大な開眼供養・・・・いちいちお名前は挙げませんが本当に大勢の方々のお力をいただきました。だだ感謝あるのみです。合掌。
改めて人は一人で生きてはいない、お四国はすばらしいところだ、ということを再確認した次第です。ありがとうございました。
開眼供養には43名余りが参加 | 参列者一人一人の焼香 |
導師は地福寺の大和永乗師 (撮影:肱水さん) | へんろみち保存協力会の宮崎建樹さんによるご詠歌 |
開眼供養後、建立地近くのへんろ交流サロンでお会いしたF様からこんなお話をお聞きしました。「落ちた遍路バスに乗っていた。自分は助かったけど、席を替わってあげた人が亡くなった・・・だから、近所にこういった碑ができるのはうれしい。地元やし、お参りしたり、管理に気を配ったりさせていただきます」。替わった人が亡くなったとは・・どんなにかおつらかったことだろうか。
郷土史家でもあるこの方からいただいた冊子にこんなことが書いてありました。
「なんとかして結願寺の大窪寺の近くまで行って死にたいと願ってはうようしてたどり着いて、あるいはごく近くで亡くなったお遍路さんの数知れず。今は大窪寺駐車場になっている辺りはそんなお遍路さんの墓が折り重なるようにあったとか。大窪寺の鐘の聞こえる谷は『極楽谷』聞こえない所は『地獄谷』ともいったという。みんな、極楽谷で逝きたかったのだ・・」
あの供養碑の場所は、大窪寺の鐘、聞こえるのかな・・・彼岸の方々には・・・。
「ここでいいのか」と天に問うたときに小雨が降った理由が分かった気がしました。やはり、できるだけ大窪寺に近くなければならなかったのです。
F様との出会いは、碑の建立と同時にお四国を去る私のために、後は地元の人もおられるから心配はないよ、という天からのメッセージだったような気がしたことでした。しかし、もちろん、少なくとも年1度くらいは、碑のお世話をしに行きたいと思っています。
供養碑建立は、長年の気がかりでした。
お遍路に関わって10年目の区切りとなりました。
再度、おへんろの皆様に「供養の合掌と笑みを」をお願い申し上げます。
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