くしまひろし |
朝食は、大きなガスレンジの並ぶ厨房の一角で頂いた。昨日と同じように早発ちするため、朝食は弁当にしてもらおうと思っていたが、「5時半でも朝食の準備は出来ますよ」というのでお願いしておいたのだ。
三好旅館の宿帳 おばあちゃんが、宿帳用紙と鉛筆を持ってきた。電話番号の「津島10番」というのを見て「えらく時代ものですね」とびっくりすると、「これは私がお嫁に来た頃に作ったものだ」という。
おばあちゃんの話
ウチはもう4代目になり、ここ岩松では一番古い。旧館の建物は明治時代のもので、建ててから100年は経っている。「珍しい」といって建築関係の人やら学生さんなんかがしょっちゅう写真を撮りに来る。そのうちに、板前のご主人と奥さんもやって来た。昨晩の夕食と違って、3人に囲まれて楽しい朝食となった。
元は3階建てだったのだが地震で傾いてしまった。近所の人が「危ないから何とかしてくれ」という。大工さんに聞いたら、直すのは無理ということだったので、通し柱を切って2階建てに改造してしまった。今の技術を使うと3階建てのまま修復できるということを後で聞いた。惜しいことをした。
最近は、歩いてくる人が増えた。若い女の人が一人で歩いているのにはビックリする。怖いことないのかねぇ。
ご主人と奥さんの話
ホントに歩きの人が増えたね。そこの河原で寝ころんで休憩していると、上の道を何人も通る。僕は基本的に小食で、ご飯のおかわりというのはあまりしない。特に朝は軽くすませるのが普通だ。だが、おばあちゃんが「一膳飯はよくないよ」としきりに勧める。炊きたての美味しいご飯だったので、結局2杯目まで頂いてしまい、ちょっと食べ過ぎたなあという気分である。
ここ何年か、いつも5月の連休には、バイクの団体が来るんだ。初めは学生が7〜8人で来たのだが、ここが良かったと言って毎年来てくれるようになった。段々人数も増えて今では30人位来る。女の子も混じっている。
おかげさんで、連休中は2日から5日まで予約で一杯。そこに、お遍路さんが1人2人来たら断るわけにもいかないし、困ってしまうけど…
6時10分。小雨模様で蒸し暑い。国道56号を岩松川に沿って歩く。6時50分、国道56号から左に分かれる。この先の、排気ガスが充満した全長1710メートルの松尾トンネルを避けて、旧国道を行くのである。この入り口の場所は『同行二人』の地図では分かりにくい。中華料理の店の先から入るように見えるが、実際はずっと手前に入り口がある。第2期(昨年夏)で一緒になったカタネさんが、この場所を今年の3月に歩いたときに気がついて、お手紙に書いて下さっていたので用心しながら歩き、正しく進路をとることができた。
旧道とはいえ、舗装された自動車道であるが、ほとんど車は通らない。くねくねとゆるやかに上っていく。
真珠貝殻破砕工場があり、破砕された真珠貝殻の粉末が山積みになっている。建築材料などに使用するのだろうか。
7時30分、旧松尾トンネルを通過すると、採石場があって、工事車両が出入りして盛んに作業中である。8時ごろになると、本降りになってきたのでカッパを着用することにした。週間予報より1日早く雨になったようだ。
採石場 8時30分、国道56号に復帰すると、道路脇の標識には「松山まで100km」とある。今回の到達目標は松山だが、実際にはずっと国道沿いに行くわけではないので、歩行距離はもっと長い。しばらくすると雨が納まってきたようなのでカッパを脱いだ。
この付近にはコンビニが多数ある。サンクスで買物をし、トイレを借りた。お客用のトイレのあるコンビニが増えたので助かる。宇和島市街に入る手前の『ふたつはし』のたもとの公園で休憩。ここにも公衆トイレがあった。
有れば有り、探すと無いのが、お手洗い
10時25分、宇和島城。せっかくすぐそばまで来たことだし、時間的に余裕があるので、寄っていくことにした。観光客の姿も多い。城の入口に荷物をおき、拝観料200円を払って天守閣に上る。60度もあろうかという急な階段を4階まで上がると展望台である。宇和島の町が一望できるが、ここの住民ではないので、「あすこは○○で…」というような格別の感慨はない。次々に上がってくる客も「ま、こんなもんか」という感じですぐ降りていく。階段は一人分の幅しかないので、待ち合わせながらの交互通行である。
宇和島城 三線を弾く青年 城を出ると、庭のベンチで、沖縄の楽器、三線(サンシン)を弾いている青年がいた。宇和島城で三線を弾くことになにか特別の意味があるのだろうか。遍路をしていると、こういうユニークな人物にはやたらと親近感を抱いてしまう。曲が一段落するのを待って話しかけてみた。
三線を弾く青年の話
普段はギターを弾くが、この三線の音色に魅せられて独学をはじめた。教習本などは使わない。CDを聞いて自分でコピーしている。公園のような広いところで弾くのが楽しい。
今日は、東京から夜行バスで着いたところだ。宇和島の親戚を訪ねるのだが、まだ早いのでここで時間をつぶしている。
11時過ぎ、お城を後にし、宇和島の繁華街を抜ける。丸瀬橋を渡り、住宅街に入ったあたりで迷ってしまった。またもや市街地離脱時の失敗である。うろうろしていると、自転車で通りかかったご婦人が「どこか、お寺を探しておられるのですか」と声をかけてくれた。『同行二人』の地図を見せて、番外霊場の龍光院の前を通るコースに戻りたいのだと言うと、「少し戻らないといけませんね。私もそっちに行くからご一緒しましょう」と言って、わざわざ自転車を押して歩きながら案内してくれた。
自転車のご婦人の話
実は私も、先日お遍路から帰ったばかりなんです。まだ香川と徳島が残っている。今度は秋に回るつもり。ほんとは歩いて回れるといいんだけど。番外の龍光院には行かれますか? いいお寺ですよ。
龍光院は番外霊場なので素通りする積もりだったのだが、道に迷ったのも何かの縁、ご婦人が勧めるし、道中安全の祈願を兼ねて、番外札所 別格6番 龍光院に寄ってみることにした。
別格6番 龍光院 階段を登って山門をくぐると、広々として手入れの行き届いた心休まるお寺である。ちょうど雨上がりであり、地面もしっとりとして、清々しい。来てよかった。番外だからか訪れる人の姿もない。 龍光院の納経所に行って声をかけるとシャツ姿で出てきた方が、「納経ですか」といって奥へ引っ込み、服装を整えて出直してきた。記帳が済むと、納経帳を捧げるように返してくれた。こんなに威儀を正して納経して頂いたのは初めてである。
龍光院の住職(?)の話
自分も若いとき、高野山からこの寺に帰る際に初めて歩き遍路をした。和歌山から船で徳島に向かった。ちょうど土曜日で船は満員、横になる場所もなかった。1番から歩き始めたが、初日から雨で、それが次第に雪に変わり、風も強く、散々な目にあった。夜になって、おばあさんが一人でやっているへんろ宿に泊まった。ふとんに横になったときにやっと安らぎ、こういういつも当たり前だと思っていることが、実はどんなに幸せなことなのかというのを実感した。
その後は信徒さんを案内して何度も回っているが、この最初の遍路のときの苦労は心に残っている。
お茶でも、いやコーヒーはいかがですか。
息子さんだろうか、これまた礼儀正しい青年がコーヒーを入れてくれた。お寺でコーヒーのお接待を受けるというのもオツなもの。納経所の前のベンチにかけて味わう。
ご住職(?) 「高野山には修行で?」と問うと「いや、修行というか、単にそこにおったというだけです」という。高野山大学で学ばれたのかもしれない。「最近歩く人が増えました。わざわざ遠くからやってきて歩くというのは何故なのか、その理由というか、動機は何なんですか?」と問われたが、僕は「リフレッシュ休暇がきっかけで…」と冗舌な説明を繰り返すしかなく、的確な答えを返すことができない。
そのうちに、お客さんが「じゅず玉」を買いにくる。男玉、女玉とあるようだ。それぞれ、「男一つ、女二つ下さい」などと言っている。コーヒーを飲みながら「店先」に長居しているのは気が引けてきたのでそろそろ失礼することにする。
ここ龍光院は、40番観自在寺の奥の院ということになっている。でも名前からすると41番龍光寺と親戚筋のように見える。名前論議と言えば、35番清瀧寺と36番青龍寺の関係も不思議だった。なかなか素人には分からない来歴があるのだろう。
12時15分、龍光院出発。
県道57号をしばらく歩いて「クアライフ宇和島」の中の「レストラン欅」で昼食。ここもカタネさん情報で「ゆっくりできる」と教えてもらった店だ。時間がもう1時近いせいもあるだろうが、お客は僕1人。遠慮なく荷ほどぎをして寛ぐことができた。メニューに「ソーメン」とあり、「おお、今食べたいものはまさにこれだ!」と思った。だが、「夏期のみ」と注記がありきいてみると「5月中頃からです」とのことでガッカリ。結局うどんで済ます。
県道57号をJR予土線に沿って龍光寺に向かう。JR務田駅付近で県道31号に入り、さらに水田地帯の直線的な道路を1キロほど行く。民宿稲荷の前を通ってまもなく、14時50分、龍光寺の入口に着いた。
41番龍光寺は、神社と合体したお寺で、参道の入口には鳥居がある。境内に入ると、左に本堂、右に大師堂、そして正面には稲荷神社が構えている。本堂は工事中で、ご本尊は納経所のそばに仮安置されてあった。軒下で読経していても雰囲気が出ない。次々と訪れる参拝客も、「どこどこ?」とキョロキョロしている。
龍光寺の鳥居 15時10分、41番出発。「四国のみち」の道標に従って、鳥居をくぐって左に歩き始めたら、近所の若いお母さんに「反対から行った方が近いですよ」と教えられる。新しい道路が通じたらしい。
県道を約1時間で、42番佛木寺(ぶつもくじ)に到着。県道沿いの、よく注意していないと通りすぎてしまうような目立たない寺だ。納経所で今日の宿とうべやの場所を尋ねる。「100メートルぐらい行くと右側にあるから」という。
とうべやを探す。納経所の人の「100メートル」を信じて行くがそれらしい看板もない。300メートルぐらい来ると、左側に少し大きめの建物と看板が見えてきた。でも右側って言ってたよなあ。近づいてみると、建物は倉庫、看板は46番近くの有名な「長珍屋」の看板であった。長珍屋の看板は至る所でお目にかかる。「変だなあ、通りすぎたのか、でも右側は畑ばっかりで何もなかった」と思ってキョロキョロしていると、道路の右側の畦道に「民宿」と書いた小さな立て札があるのに気がついた。右の奥の方を指し示す矢印の先は、畑の向こうに何軒か建物が見える。「あれだ!」と思って喜んだが、そこまでどうやって行くのか分からない。道路らしきものはなく、畦道を数十メートル歩き、最後は水路を飛び越え、土手を無理やりよじ登って、ようやくとうべやにたどり着いた。
とうべや 宿に着くなりこの顛末を話すと、看板の数十メートル手前にここへくる道の入口があるのだという。「そんなら、看板は道の入口に立てるべきでしょ」というと、「皆さんにそう言われます」という。当然じゃ。
とうべやのご主人の話
今年の2月に開業したばかり。消防や保健所の検査があって許可が下りるまで大変だった。ほとんど宣伝らしきことはしていないが、そこそこお客がある。佛木寺に頼んであるし、この辺の人は皆親切でお客を紹介してくれる。お遍路さんの他は、工事関係の人が役場の紹介で泊まりに来る。龍光寺にも頼んであるが、あそこは民宿稲荷が近くにあるからね。
きのう泊まった遍路さんに、「同行二人」の本のことを教えてもらったので、さっそく宮崎さんに電話して載せてもらうよう頼んだところだ。
奥さんの話
ここを開業するまでは兵庫に住んでいた。地震は幸いに被害を受けなかった。主人はもともとここの出身で今でも身内がいる。宣伝していないので、飛び込みのお客が多い。突然、一度に7〜8人も来たときは近所の人に応援を頼んだりもする。「とうべや」というのはご主人の実家の屋号だそうだ。いわゆるUターン脱サラというものか。故郷とか土地とかいった資産があるからこそ可能なのだろう。多少の羨望を覚えつつ、しかし、もうすこし商売っ気があってもいいのでは?と要らぬ心配をするのだった。今晩の客は僕ひとり。
子供たちは生まれ育った神戸を離れたがらないので私達だけでやっている。
53,305歩、29.3キロ。