東京新聞 1998年1月1日付 12面〜13面
東京新聞より許可を得て転載

団塊50歳

自分探しの「旅」は今

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なお歩き続ける人生
だから遍路を歩く

 【串間さんの旅】遍路道(歩きで約千二百キロ)のプロローグとも言える阿波(徳島)は「発心の道場」とされる。串間さんの初挑戦は九六年五月。六泊七日の日程で歩き始め二十三番札所、薬王寺まで、約百五十八キロ歩いた。土佐(高知)に入ったのは二回目から。同県内は道の険しさから「修行の道場」とも言われ、全行程は四国四県で最長(約四百八キロ)。夏休みを利用して昨年七月末から、七泊八日で三十五番まで約二百二十ニキロ歩いた。今回は三十六番から出発。


 仕事納めの後、高知行き夜行バスに飛び乗って……。
 東京・丸の内のハイテク企業で部長をしている串間洋さん(四七)の三度目の遍路行は先月二十六日夜にスタートした。

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 翌朝、高知県土佐市の国道56沿いのパス停に。前回、最後に訪れた四国三十五番札所、清滝寺はこのパス停から近い。串間さんは、慣れた手つきで菅笠(すげがさ)に白衣を身に着け、金剛づえを手に、第一歩を踏み出した。
 南国・土佐は十二月とは思えない陽気に包まれ、明るい日差し。心地よい空間。
 初日の行程は約三十五キロ。ハードだが、後の行程を考えると、どうしても距離を稼いでおかなければいけない。自然と歩くぺ−スが上がる。

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 遍路は弘法大師の修行の跡をたどり、四国四県に点在する八十八力所の霊場を巡る。小学校はミッション系、大学では応用物理を専攻した串間さんは仏教とは無縁だった。
 「宗教的な理由で思い立ったのでなく、遍路という伝統的なシステムを利用した、私的旅行にすぎなかったのですけど……」
 きっかけは、入社二十年目にもらったリフレッシュ休暇だった。
 一年間の"有効期限"が終わりに近づいた平成八(一九九六)年春。「もったいない。何かしなくちや」「人と違った個性的なことがしてみたい」などと漠然と考えているうち、書店でふと目に止まったのが遍路旅を紹介したガイドブック。引き寄せられるように買い求め「歩き遍路なら」と思い立ったという。
 四国八十八力所(四国一周)を一度に果たしてしまうのを「通し打ち」、何回かに分けて行うのを「区切り打ち」という。「区切り打ちならば挑戦できるかもしれない」
 もともと歩くのは好きだった。五年前、心筋こうそくで倒れ、健康に気を使うようになったことも一因だった。気づいてみれぱ、すでに三度自の遍路旅。今回は往復の車中泊を含め八泊九日、土佐市から足摺岬を経由した高知県西部約二百キロの行程だ。

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 歩き始めて約四十分、市街地を抜けて、周囲にビニールハウスや畑の広がる農村地帯」入った。わきを通りすぎた車がU夕−ンしてそばに止まった。初老の女性が缶コーヒーを手に降りてきた。
 「ご苦労さまです。これからも気をつけて」
四国では遍路者に食べ物や賽銭(さいせん)を施す「お接待」の習慣が残る。初めて遍路に出てお接待を受けたときは戸惑ったが、今ではこだわりなく善意を受け入れられるようになった。

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 農村地帯を過ぎると、標高約三百メートルの小高い山にぶつかり、急な登りにかかった。この日、最大の難所だ。峠を越えるとカツ才漁で知られる同市宇佐町。車のない時代、山ツツジの咲くころになると、人々は新鮮さが命のカツオをヒノキの葉で包み、宇佐漁港から高知市などの町に、この道を使って夜を徹して運んだという。
 生活道としてはすっかり寂れてしまったこの道が、ハイキングコースや遍路道として生まれ変わった。細い山道沿いの木の枝に「遍路道」の札がかかる。杉や竹の林を黙々と抜け、標高約二百メートルの峠に着くと、眼下に宇佐の町が見えた。前日の雨で滑りがちの道を慎重に下る。

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 ほぼ団塊世代の串間さんは「僕は多趣味」と自任する。大学時代、留年して持て余し気味だった時間を活用して、「学ぶのが容易で変わった言語をコレクションに加えたい」と始めたエスペラントが病みつきになり、講習会の講師ができる資格を取得。百人一首に熱中し、地元の区の大会に家族で出て優勝もした。

非日常 癒し 出会い
見え始める何か…

 白宅マンションのパルコニーでは五年前から水稲を栽培、昨秋は約一キログラムの収穫があった。毎年、残ったわらでしめ縄も作っている。さらにインターネット上にホームページも開いている。そんな串間さんに遠路はるばる三度も四国まで足を運ばせる遍路の魅力とは−」

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 香ばしいにおいがするカツオ節の作業場を抜け、町に入った。土佐湾に面したのどかな漁港。カツ才漁船が港に静かに横たわる。太平洋の波が打ちつける海岸線沿いを過ぎると、この旅で最初の目的地、第三十六番札所、青龍寺が近づいた。
 百六十段以上もある石段を上がり、串間さんは本堂で静かに般若心経を唱える。
 最初は小声でしか唱えられなかった読経にも遍路を続けるうちに抵抗がなくなり「一気に異界に没入するような感覚」に陥るようにもなった。
 再び長い石段を下り、納経所で納経帳に墨書受印を頂いた。一つ目的を達し、また歩き始める。

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 四国をすでに十二周し、遍路道の保存に努める「へんろみち保存協力会」世話役代表の宮崎建樹さん(六二)は「遍路ほど間口が広く、取り組みやすい修行は珍しい」とう。難しい決まりはなく、車でも歩きでも、その人に応じた巡礼の仕方が許されている。宮崎さんも四十五歳の時、胆のう炎を患い、健康のために歩き始めた。「使利な世の中に不使や苦しみを感じながら歩くことで、感動や感謝、我慢をあらためて知り、満足が得られるのではないか。信仰心は後から付いてくる」


 歩き始めて数時間。西に傾いた日を受け、串間さんの影が路上に長く伸びる。
 「歩きながら自分の影を見ていると「ああ、非日常の中に身を置いているのだな」と実感しますね。ようやく前回の遍路旅と今回がつながったような気がします」
 回を重ねるごとに「もっと深く味わってみたい」という気持ちが強まった、という。
 「なぜこの年になってこんなことを」と自問することも。「単なる旅行で同じエネルギーを消費するなら、後まで心に残る何かをしたい。そんな気持ちが根幹にあるような気がします−」
 遍路旅を通じ、仕事関係ではあり得ない数多くの出会いを経験することもできた。
 「あまりレッテルは張りたくありませんが、あえて言うならば、「癒(いや)し」とか「自分探し」ということでしょうか」−−。
 (文・加藤行平 写真・岡本宏)

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 団塊世代の中心、昭和二十三(一九四八)年生まれが、今年、五十歳を迎える。戦後間もなく生まれ、高度成長とともに育ち、青春時代は学園紛争の主役。そして不況風が吹く今は、リストラのターゲットと、日本の戦後史そのもののような世代。この団塊世代にスポットを当てれば、普段は気づきにくい日本社会の"ひだ"の部分が見えるのでは。そして、この世代が、より重い責任を担う、二十一世紀の日本の姿も。

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 次回(三日付予定)は暮れに解雇通知を受けた山一証券の団塊世代の新年への思い。

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