くしまひろし |
バスは、7時45分に高知駅前に到着した。定刻7時25分のところ20分遅れである。やはり、年末の渋滞が始まっているのであろう。バスを降りると、加藤記者が「なかなか着かないので心配しました」と駆け寄って来た。カメラマンの岡本さんを紹介される。近くの店で朝食用のサンドイッチを買い(東京新聞の奢りである)、今回の起点となる高岡バス停まで、3人一緒にタクシーで直行する。車中で朝食を済ませる。彼らは昨日のうちに高知入りし、今日歩く予定のところを車で下見しておいたという。「大変ですね」というと、「こうした特集取材は他社に抜かれる心配はないし、紛争地の取材のような生命の危険もないので、楽な方です」という。
8:40 高岡出発。高知駅から路線バスで来るのと比べると、30分ぐらいは時間が節約できた。今回の計画では、初日の今日が35キロで一番行程が長く、宿に入るのが20時近くになる可能性がある。少しでも前倒しができたのはありがたかった。
加藤記者と 右の写真は、高岡バス停の近くで出発前に、岡本カメラマンに僕のコンパクトカメラで撮ってもらったものである。安物カメラでも、プロにシャッターを押してもらうと、さすがに違うものですね…と言いたいところだが、自分の影まで入れ込むとは計算のうちなのかな。
10分ほど仁淀川の方に戻ってから喜久屋旅館のところを右折する。ここに石の道標があった。
古い道標 「右 清瀧寺、左 青龍寺」
こう並べて書くと35番と36番のお寺の名前は奇異な組み合わせである。35番清瀧寺からさんずいを取り去ると36番青龍寺になる。では兄弟寺なのかというと、歴史的には、この二つのお寺の成立には特に関連はないようだ。清瀧寺は、弘法大師が生まれるはるか以前の723年に、行基菩薩によって開かれたのに対し、青龍寺は、弘法大師が長安で恵果の教えを受けた青龍寺にあやかって805年ごろ建立したものという。でもこのように名前を並べてみると、歴史的解説には納得できないものを感じる。
加藤記者は私と一緒に歩き、岡本カメラマンは先程のタクシーで先回りしている。加藤記者が「あすこに何か石の柱がありますね」と注意を促す。おっと、野尻の分岐点を見逃すところだった。このまま真っ直ぐいくと遠回りの車道に入ってしまう。前日下見したという加藤記者と一緒に歩いているので、僕の方は道順に対する注意がおろそかになっているようだ。
一人で軽自動車を運転して遍路中のご婦人が、わざわざ車を止めて私と加藤記者に缶コーヒーのお接待をして下さった。きちんとした遍路姿であり、あちこち巡拝されているようだが、今年は今日でお終いという。お接待を受けたら納札(おさめふだ)を渡すのが決まりだが、今回は品切れのため、例の私用名刺を差し上げる。加藤記者は「車からお遍路さんが降りて来るので何事かと思いました」と、歩き始めて早々のお接待に驚いた様子。
1時間ほど歩いたところで小休止。暑くなって来たのでセーターを脱いだ。
この先から、標高200メートルの塚地(つかじ)峠を越える。ここには、塚地トンネルを建設中で、今年開通予定である。トンネル工事現場のところで、岡本カメラマンがタクシーとともに待ち構えていた。
先を急ぐ
岡本カメラマン登りにかかる。加藤記者は後ろから付いてくる。岡本カメラマンは忙しい。先回りしてシャッターを押したかと思えば、待ち構えて僕が通り過ぎるところを撮り、後ろからも撮って、また駆け足で先回りする。
気持ちのよい山道をゆっくり登る。汗が出てきて、息も切れる。大口を開けて喘いでしまうが、カメラを向けられるとやはり意識してしまう。何食わぬ顔をして、いわゆるカメラ目線にならないよう前を向いて歩く。
まもなく「四国のみち」の道標の立つ塚地峠に到着。荷物を下ろし、笠を脱いで休憩する。ザックからタオルを出して汗を拭う。休憩の間にも盛んにシャッターを切る岡本カメラマンであった。
下りに入ると、彼がどんなところで撮影しているのか観察する余裕が出てきた。やはり、無闇にシャッターを切っているわけではない。道がカーブしていて背景の景色が変化する地点とか、路傍に石仏が並んでいるところなど、きちんとポイントを選んで撮影しているようだ。
工事中のトンネルが開通すると、この峠越えをしなくても宇佐方面に抜けることができるようになる。しかし、車道を歩いてトンネルで抜けてしまってはもったいない。トンネル開通によってこの山道が荒廃することのないよう期待したい。
やがて、道は平坦となり宇佐の集落へ入る。目の前に湾岸沿いに走る県道が見えてきた。近所の人に道を尋ねて確認する。県道23号を1キロほど右へ行き、宇佐大橋を渡る。
宇佐大橋 青龍寺への道路脇にも石仏が多い。左手に広がる青い海、そして竜の浜をみながら、県道から分かれて旧道をゆるやかに青龍寺にむけて登る。
11時30分、36番青龍寺(しょうりゅうじ)到着。まず、納経所で納札を買う。長い階段を登って本堂の前まで行き、ザックを下ろして休憩。水を飲み、息を整えてから、今回最初の読経である。加藤記者や岡本カメラマンが聞いていると思うと何となく気恥ずかしい。
青龍寺 大師堂のお参りも終えて、再び階段下の納経所へ。納経をしているのは、若奥さんである。傍で3才位の女の子がテレビゲームをしている。納経帳は、必ずしもお坊さんが書いて下さるわけではないが、いくら書き慣れているとは言え、いずれも達筆である。しかも、納経帳は遍路にとっては、大事に携えて札所を巡ってきたかけがえのないものである。書き損じたり、墨をたらしたりしたら…と思うととても自分にはできない仕事だと思うが、納経所に座っている方々は、いとも気楽そうにサラサラと書いてしまうので感心する。
ここから次の37番岩本寺にいくには、自動車用の「横波スカイライン」と、浦ノ内湾沿いに行く古くからのコースとがあるが、僕は宇佐大橋を戻って県道23号に戻り、内湾沿いのコースを行くことにする。再び宇佐大橋を渡ってから、加藤記者たちと昼食をとることにする。
加藤記者が、同行二人の地図を見ながら「海平という食堂があるはず」というが、この季節、営業しているという保証はない。行ってみると案の定、閉店である。僕は多少の非常食(今回はバターピーナツとカロリーメイト)を携行しているので、食堂や店がないならないなりに歩きつづけることができる。幸い、しばらく歩いて土佐市から須崎市に入る直前のところにある「磯べえ」にて昼食にありついた。メニューを見て取りあえず四つ足は敬遠し、海老フライにした。ここも東京新聞の奢りである。今回は、最初のタクシーに始まり、朝食、昼食と東京新聞の世話になったが、取材協力へのお接待としてありがたくお受けした。
磯べえ 13時25分出発。また、加藤記者と岡本カメラマンは次の撮影ポイントに先回りするためタクシーに乗り込んだ。
今日は、朝から記者と一緒だったので、今日の宿の司旅館に確認の連絡を入れるのを忘れていた。司に電話してみると「まあ、まあ、連絡ないから心配してたがな。ごはん構えてまってるき」。
道路わきには、ところどころ大根を干してある。ここも前日のロケハンの結果、撮影ポイントになっているらしく、岡本カメラマンが待ち構えている。
横浪三里 湾内の静かな海沿いの県道の左側の歩道を歩いていくと、右手の車道上に自分の影が写る。笠をかぶり、大きな荷物を背負い、杖をついた姿は、日頃見慣れた自分の影とは異なる。加藤記者から「これまでの旅とつながったなと感じるのはどんなときですか」と尋ねられて、「ほら、この影はいつもの自分の影とは違う。前の旅のときもこの遍路姿の影とともに歩いた。自分の歩きとともに、すべるように地面を動いていくこの影を見て、過去の遍路旅の気分が蘇る」と答えたら、「なるほど。『地面の己が影に遍路たる自分を見る』というわけですね」と素早く返された。さすがに文章のプロは表現方法が違うのである。
最後の撮影ポイントは、浦の内トンネルであった。15時過ぎ、トンネル抜けた所で、記者達と別れる。二人はこのあと直ぐに東京の本社に戻り、夜中の2時までかかって写真の現像・整理をしたとのこと。岡本カメラマンは全部で400枚ぐらい撮ったという。このうち6枚が元旦の東京新聞に載った。
撤収する記者たち いよいよひとり旅の再開である。
快晴。低温なので歩き易い。日差しは低くきつい。太陽の方向に向かって歩くので眩しい。サングラスが欲しいぐらいである。
横波のバス停付近でふたたび道は分かれる。昔からの遍路コースである県道314号を行く。林立するビニールハウスと点在するぽんかんの木が印象的な道であった。
林立するビニールハウス 16時、ちょうど浦ノ内小学校の前を通過するころ、太陽が稜線に隠れた。まぶしくはなくなったが、だんだん夕闇が近づいてきて、急に寂しくなる。
畑から猫車を押して道路に出てきたおばさんに尋ねられた。
「おおごうさんに泊まるの?」(そんな名前の旅館はあったかな)
「JRの多ノ郷(おおのごう)駅の近くの旅館です」
「はあ、多ノ郷まで行くんか。ほなら、せんだして(精出して?)行かなあかんな」。よく考えたら「おおごうさん」と聞こえたのは「お不動さん」のことだったのだろう。この先に、佛坂不動尊という番外霊場があるのだ。
16時40分。今回、最初のアクシデント発生。ふと気づくと地図を持っていない。青くなった。いつも同行二人の地図の必要なページを切り取って持ち歩いている。雨に濡れたりしてくしゃくしゃになってしまうので、今回は当日分だけをビニールケースに入れているが、ごわごわしてポケットに入れにくいので、手に持ったままにしていたのがまずかった。
気持ちを落ち着けていつまで持っていたかを思い出す。そうだ。さっき道路脇で、人けのないのを確かめて臨時トイレを開設したときに違いない。悔しい思いを噛みしめながら後戻りする。
歩き遍路をしていると「戻る」というのは大変精神的に抵抗のある行為である。数メートルでも戻りたくない。だが、地図は必須だ。あれからどのくらい歩いただろうか。慎重に道路脇をチェックしながら戻る。これは、「地図に頼らずに行け」という弘法大師が僕に与えた試練なのか…。幸い、約3分戻ったところの、低い崖の上にそれはあった。早く気がついてよかった。
17時、不動尊に近づいたようだ。どーん、どーんと太鼓の音がしている。遍路道は県道から分かれて不動尊に向かう山道に入る。だがかなり急な下りである。地図でははっきりしないが、不動尊は谷間にあるのだろうか。そうだとすると再び登りがあることになる。暗くなってから山道を歩く危険は犯したくない。遠回りになるがそのまま車道を行くことにして引き返した。約0.8キロの遠回りである。
17時半、「須崎 4K」の遍路みちしるべがあった。遠くを走る列車の音に人里に近づいたことを知る。まだすっかり暗くなったわけではなく、進行方向は夕焼けの薄明かりである。自転車に乗った小学生の男の子が「おやすみなさい」と行って追い抜いていく。大体、遍路のコースの子供たちはお遍路さんにあいさつするように指導されているらしく、たいてい元気良く「こんにちは」と挨拶してくれる。でも、まだ6時前なのに「おやすみなさい」というのにはビックリした。さすがに暗くなってきていつもと勝手が違い、とっさに「今晩は」が出なかったのだろうなどと想像して微笑んでしまう。
完全に日が暮れる。踏切を渡り、懐中電灯を点けて線路沿いにしばらく行くと、町に入る。18時、司旅館到着。予定よりだいぶ早い。春や夏の経験から、休憩や食事も入れた上で時速3.3キロぐらいを想定し、20時ごろまでかかることを覚悟していたが、きょうは、ずいぶんペースが上がった。冬は意外に歩き易い。司旅館では、ご主人が一階を工事中。「おへんろさん、着いたよう」と奥さんを呼ぶ。ご主人の本業は電気工事で、民宿業は奥さんの担当のようだ。ここのおかみさんは遍路に親切にしてくれることで有名である。
司旅館のおかみさんの話
今まで向かいの集会所の駐車場を使わせてもらっていたけど、新しい車に買い換えたから屋根付きの駐車場を作ることにした。工事中なので、予め電話で予約のあった人しか泊めていない。他のお客は断っている。昨日も一人、前から電話もらっていた建築士の人だけ泊めた。工事のため配線を切ってあるので洗濯機が使えないのよ。ごめんなさい。早速、入浴して2階の客室でテレビをぼーっと見ていると、おかみさんが「お客さん、肉は食べる?」と聞きにくる。遍路は大体四つ足は食べないという決まりのようだが、材料の都合で肉しかないのかなと思い「え、いや気にしないから肉でもいいですよ」と答えた。ところが、出てきた食事を見てびっくり。たっぷりの刺し身、山盛りの甘エビ、そして牛肉の炒めもの、と大変なボリューム。汁物がポタージュスープというところが何ともユニークである。
司旅館の夕食 「これは、デザート用に早生みかん。すごく甘いからぜひ食べてみて。私からのお接待」
「あ、どうも」
「お客さん、お酒は飲まないの?」
「普段はつきあい程度には飲むが、遍路中は飲まないことにしています」
「でもね。これ一杯だけはお接待だから受けてもらわないといけないの。私が自分で作ったニンニクとヤマモモの手製のお酒」
「じゃ、一杯だけ。うん、ニンニクが臭いけど元気が出るような気がしますね」
「あ、そう? うれしいね。お客さんは、このへん歩くのは初めて? 明日のお昼はどうする積もり? ちょうど久礼(くれ)あたりで昼になると思うけど、あのへんは食べるところないのよ」
「じゃあ、お弁当作ってもらえますか?」
「はいはい。それじゃあ、私がお接待でおにぎりを作っておきましょう」と、お接待3連発である。さすが、名物おかみである。
食事を終え、寝る前に部屋を出て洗面所に行きかけると、階段のところで「キャッ」と声。何と、おかみさんが風呂からあがってきたところ。下着姿で立ちすくんでいる。風呂上がりとはいっても、上下とも長いメリヤスの下着で、特にセミヌードというわけでもないのだから、そんなにあわてなくてもいいのに。家庭的な民宿ならではのハプニングであった。
9時前には、夜汽車の音を聞きながら眠りについた。
51,470歩、34.9キロ。