掬水へんろ館遍路日記第2期前日翌日談話室
掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 第2期くしまひろし

第4日(7月30日) 26番〜浜吉屋

朝の最御崎寺

5:30から本堂で団体の方々のお勤めに参加させてもらうため宿坊を出ると、奥さんが車で出掛けるところである。御詠歌の講習会の講師をするのだという。なるほど歌がうまいわけだ。それにしても、お寺の奥さんというのも、御詠歌を歌ったり、納経所で納経印の仕事をしたり、宿坊の経営をしたり、色々大変なんだと思う。とても素人では勤まらないだろう。月刊「へんろ」の平成9年8月号には、69番観音寺の前副住職の長男が20番鶴林寺の副住職に就任して、鶴林寺の住職の次女と結婚されたという記事が出ていた。やはり「業界内」縁組が多いのだろうか。

お勤めは、留守の住職に代わって、例の団体の先達の方が執り行った。僕は「お勤め」に参加するのは初めてだったが、案の定、20分間の正座で足がしびれてしまった。お勤めのあと、しばらく境内にベンチに座って朝の空気を吸ってみる。ま、僕には、弘法大師の「気」を感じる感受性は未だ育っていない(又はもう失われている)らしい。あきらめて、元教師のクボタさんや団体の方々と一緒に朝食をとる。コザキさんはまだ起きてこない。何とまだ5時半である。

クボタさんの話

コザキさん・クボタさん
コザキさんとクボタさん
横浜の中学の教師をしていたがもう定年退職した。遍路は6回目。初めの4回は250ccのバイクで回った。退職したら歩いて回ろうと思い、在職時代から電車に乗らずに歩くなどして足を鍛えた。歩きは2回目。前回は37日で歩いた。途中、車の接待を断り切れないで乗ってしまったのが悔やまれる。もちろん後で乗った所まで歩いて戻ったよ。あれがなければもっと短く回れたはず。

今回は7月21日に1番からスタートして今日で10日目。昨日は海部から50キロ歩いて来た。到着が5時をちょっと過ぎてしまったのでまだ納経していない。だから今朝は7時まで出発できないんだ。昨日無理言って納経してもらえばよかったなあ。

クボタさんから緑色の納札を頂いた。緑色は5回目以降であることを示す。 クボタさんと色々おしゃべりをしていると、7時過ぎになってコザキさんも朝食に出て来た。「学校の先生かお医者さんでしょう?」というと元学校の先生だったが今は無職とのこと。当たらずとも遠からず。僕も人を見る目が出できたということか。

7時半に、タクシーを呼んである。昨日乗った所まで戻るのである。宿泊料を支払い、お釣りを待っている間に、宿帳の記帳台みたいなところに雑記帳があるのをみつける。今までにここに泊まった人々の肉声があふれている。ゆうべ知っていたらじっくり読むことができたのに…と残念。コザキさんとももう少し話してみたいが、もうタクシーが来てしまう。

7:25 出発。タクシーで室戸市街まで戻り、歩き始める。昨日買った絵はがきを出したいのだが切手が手に入らない。まだ郵便局は開いていない。ボストのそばの食料品店が開いていたので「切手はありますか」と尋ねると、奥の方に座り込んでいたおばさんが「はい、いくらの?」と言いながらどっこいしょと出てきて引き出しを探してくれたが、「50円はないねぇ。すいません」とのことだった。

8:00 平等津橋を渡る。これで「ならしばし」と読む。「同行二人」の地図には「奈良師橋」と書いてある。

金剛頂寺

カワイさん
カワイさん
金剛頂寺
第26番 金剛頂寺
8時半ごろ、26番金剛頂寺へのアプローチにかかったところで、一昨日とくますで同宿したカワイさん[半ズボンの歩きの男性]が降りてくるのに会う。そろそろペースがずれてきているので、この先出会うかどうか分からない。納札を交換し記念撮影をした。もっとも、実際にはこの後も何度も出会うことになるのだが…。

舗装道路から分かれて遍路道を歩く。木々の枝にへんろ札がたくさん下がっており前回の遍路で色々な遍路道を歩いたときのことが思い出される。 8:57 26番着。またカタネさんに出会ったので、納札を交わす。

金剛頂寺は山上の気持ちのいい静かな寺である。僕は、境内の感じは最御崎寺よりこのお寺の方が好きだ。立派な宿坊があり泊まれなかったのがうらめしい。

9:20発。納経所では、元来た道を降りた方が近いと教えてくれたが、同じ道を歩くのはつまらないので、「同行二人」の地図にある裏道を下りてみる。田んぼの間を行く静かな気持ちのいい道であった。

休憩所あれこれ

キラメッセ室戸
キラメッセ室戸
傍士というところでへんろ道から国道に出る。「道の駅:キラメッセ室戸」という立派な建物があった。冷房が効いていて無料で休憩でき、トイレや売店もある。が残念ながら切手は売っていなかった。「道の駅」というのは、各地方建設局が国道沿いなどに設置しているもので、トイレや休憩所、場所によっては売店やレストランを併設した施設である。

もっとも、こんなに豪華な休憩所はめったにない。
バス停
休憩に最適のバス停

道路脇にある屋根付きのバス待合所は歩き遍路のオアシスである。停留所の時刻表を見ると、わずかに日に数本運行しているだけのようだ。待合所もクモの巣がはっていたりしてあまり利用されている形跡はない。でも、陽を遮る屋根があって腰掛けられるようになっているというのは大変ありがたい場所である。何度もお世話になった。
使用前 使用後
即席休憩所の作り方

国道を歩いていると木陰というものはほとんどない。屋根がなくても休憩したい場合というのはある。ちょっとした段差を利用して腰を下ろせば、そこが即席の休憩所となる。ただ、こうした丁度いい段差というのはなかなかないものだ。

炎天下の国道55号を、コザキさんやクボタさんのことを考えながら歩く。コザキさんは、遍路として始めた旅であったのに、空海の修行した室戸岬にふわっと吸い寄せられて、遍路としての行動様式にこだわることもなく、修行という形で自分自身の時間の過ごし方を模索している。クボタさんは、バイクで回っていた頃から、歩き遍路を志して、毎日足を鍛えて準備し、定年退職後になって、毎日何キロ歩くか、八十八ヵ所全体を歩きに徹して何日で歩き終えるかを目標に前へ前へと進んでいく。昨夜は、このような対照的な方々に出会うことができ、有意義な一夜であった。

それというのも、僕が室戸岬を見ようなどと衝動的に道を後戻りして、コザキさんに出会ったことから生じたのである。不思議な気持ちがする。

吉良川大橋を渡ってすぐの、ストアかたやまで買物。ポケットティッシュは、右足裏のマメの手当てのため。昼食用のパンはチョコドーナツとアンパン。四国を歩く場合、うまくパンを売っているお店があったとしても、置いてあるのは菓子パンだけである。サンドイッチとか惣菜パンなんていうのは見当たらない。

ストアかたやま 餅入りアンパン
ストアかたやま餅入りアンパン…休憩は裸足で
ところが、このアンパンは当たりであった。餅入りなのだ。これを食べて元気が出た。

休憩の時には、靴も靴下も脱ぐ。今回の遍路ではとにかく1時間歩いたら靴下を脱いで足を空気にさらすことに努めた。マメ防止に効き目があったと思う。そのためになるべくは着脱の容易な靴下を選んできた。もう4日目だが足指には目立ったマメはできていない。ただ例の足の裏は熱を持って痛み、化膿し始めたのではないかと恐れる。

アイスクリン

アイスクリン屋
アイスクリン屋さん
1時半、室戸市と奈半利町の境界の付近で、海岸周り道路の代わりに、1キロ強の中山越えという昔からある道を通るつもりであったが、いつの間にか元の国道に出てしまった。

あきらめてそのまま国道をいくと、アイスクリン屋さんが店を出していた。白髪のおぱさんが店番で、お友達らしいお客のおばちゃんとおしゃべりしている。1個100円。写真を撮らせてもらうと、「あんたも撮ってやるから」アイスクリン屋さんのセットを入れて撮ってくれる。「いつもこうやって撮ってやるんだ」と楽しいおばさんである。2日目に泊まった「とくます」に室戸のパンフレットがあって、アイスクリンとところてんを紹介していたので、ぜひトライしてみたかったのだ。道を間違えなければ、このアイスクリン屋さん出会うこともなかったわけなので、これもお大師様のお導きということか。次はところてんが頂きたい。

夕立

雨
アイスクリン屋さんを後にしてしばらくすると雨が降りだした。だんだん激しくなってくる。夕立だからいずれ止むだろうとも思うが、雨宿りなんかしていると遅くなる。雨具をつけてどんどん歩く。一応折畳み傘も持参しているが、普通の雨なら菅笠だけで十分である。

奈半利中心部に着いた頃は少し小降りになってきた。店や旅館がたくさんあって結構賑やかな街である。調剤薬局でバンドエイドを買う。マメの手当てに苦労していて、足りなくなってしまったのだ。バンドアイドなんて一箱丸ごと持ってくればいいじゃないかと思うかも知れないが、出発するときはとにかく荷物を減らすのに必死なのだ。前回も確かバンドエイドを買い足すはめになったことを思い出す。この薬局はギンギンに冷房していて、店の間口は狭いのに若い女の子が4人もいる。3人は薬剤師らしい。この町の処方箋を一手に引き受けているのだろうか。

薬局を出て1分ぐらいしてから、マメの薬を相談すれば良かったかなあと後悔する。若い子とのおしゃべりも楽しいしなあ。彼女たちも暇そうにしていたし…。でも戻る気持ちにはならない。

道路工事の人が、数人、歩道で作業していて、僕に道をあけてくれたので「こんにちは」とあいさつすると「どこから」「気をつけて」と声をかけてくれたので嬉しくなって元気が出る。

安田町に入って安田郵便局でやっと切手を手に入れた。外のボストを台にして絵はがきをなぐり書きして投函。

浜吉屋旅館

このころから、また、雨が降りだす。ようやく「東谷入口」のバス停まで来て、浜吉屋の案内板があり国道からそれる。案内板の通り来た積もりなのだがなかなかみつからない。雨はだんだん激しくなってくるのであせりがあり、距離の感覚が狂ったようだ。ようやく18:15 浜吉屋発見。外の扉はみんな閉まっていて、どこから入るのか分からない。あちこちガタビシやりながら「ごめん下さ〜い」と叫んでいるうちに「はいはい」と声がしてほっとした。

夕食
浜吉屋の夕食
カワイさんが着いている。

客室は2階で、大変古い建物だが、表の扉は別にして、内部のふすまや窓などの立て付けはしっかりしている。畳も本間サイズで広々としている。よく手入れされているという感じだ。

早速風呂に入り、食堂に下りていくと食事は3人前用意してあり。もう一人来る予定という。クボタさんだろうか。おかみさんに「名前聞いてないの?」と尋ねると「お遍路さんは信用しているから」。「雨が降るとは思わなかったから田んぼに水引いてあったんだが、ちょっと心配だから見てくる…」と雨の中を出て行った。カワイさんと僕は留守番である。

食事中に戸をガタピシさせてお客さん到着。やはりクボタさんだった。ずぶぬれで服を脱ぎ、そのままお風呂に直行。

へんろ宿の歴史

浜吉屋のおかみさんの話

終戦後すぐにこの宿を始めた。へんろ宿のやり方は何も知らなかったから、何から何までお客さんのお遍路さんから教わったものだ。始めたころは1汁1菜つきで1泊100円。ご飯は3合。お遍路さんは朝食べて残った分をおにぎりにしてもっていく。

当時は遍路を泊めると旅館の格が落ちるといって敬遠されていたものだ。昭和50年頃からお年寄りに年金が支給されるようになって、遍路が随分さかんになった。風呂と食事があればいいという時代でもなくなって、普通の旅館と比較されるようになってきた。丹前何十着自分で縫ったこともある。

最盛期はこの家だけでバス2台の団体を受け入れたこともあるよ。でもいつまでもいいことは続かないね。団体がたくさん来るようになったら、お寺さんも立派な宿坊を作るし、みんな車で来るようになって、少しぐらいお寺から離れていても新しい旅館やホテルの方が人気。ウチみたいなところは個人客ばかりになってしまった。しばらくはなじみの旅行社が団体を回してくれたりしたが、バブル以降は全般に低調。

浮き沈みは仕方ない。21番太龍寺のそばの竜山荘さんや坂口屋さんだって、ひところはだいぶ潤ったはずだけど、ロープウェーができてからはね…

自分自身では歩いて回ったことはないんだ。タクシーで区切り打ち、それも毎回細切れで1泊しかしない。だって、お客さんが困るからね。高野山に行ったときだけは小松島に2泊したけど。時間がないから、自分がお参りしている間にタクシーの運転手が納経してくれる。だから行った先のお寺の住職と話をしたりする時間はない。それが残念だよ。

41番に行ったときは、納経所で住職から「どこから?」と聞かれたので運転手が「27番のところから」と答えたら「27番の近くか? 浜吉屋のおかん元気か?」「おかん、今そこに来てるがな。ちょっと呼んでくる」なんてこともあった。そういうふうに言ってもらえるのはうれしいね。

ご主人に先立たれて一人でこの宿をやっているこのおかみさんは、「私はね。相部屋はしない主義。最近は団体が減って個人客が中心だから商売上は損なんだけど。満室になって、後から着いた人は『相部屋でもいいから』と言うけど先に入っている人はやっぱりいやだと思う。」という。遍路の「無財七施」の一に房舎施というのがあって、後続の遍路に相部屋を勧めなさいということになっているが、実のところ、このおかみさんは人の本音をつかんでサービス業の神髄を理解している方だとお見受けした。やはり「何から何までお客さんに教わった」というマーケットインの発想が良いのかもしれない。

おかみさんの尽きぬ話を聞いている間にも、一ヵ月先の予約の電話が入る。

歩数 39366・31キロ。

掬水へんろ館遍路日記第2期前日翌日談話室