『希望音楽会』のこと

くしまひろし


その昔、東北放送のラジオ番組で『希望音楽会』というのがあった(というか、今もあるのかも知れないが…)。東北放送は仙台に本社をおく地方紙『河北新報』系の民間放送局で、しかも当時は宮城県内唯一の民間放送局だった。

『希望音楽会』は文字通り聴取者の希望に応じた音楽を放送するもので、今風にいえばリクエスト・アワーというところか。平日の朝10時からと夕方4時から、30分ずつもちろん生放送であるから別々の内容である。ジャンルを問わない内容で、たまにはクラシックもかかったりした。「ぶんちゃっちゃ,ぶんちゃっちゃ」というト長調のテーマソングにのって、曜日毎に決まった女性アナウンサーの司会でリクエストのあった曲が数曲がかかる。夕方4時からといえば土曜日など中学・高校生でも聞ける時間で、女性アナウンサは今でいえばDJであるからおもしろい話をする人は人気があるようだった。

そのアナウンサーの中にさとうゆうこさんという、非常にやわらかい丸い声をした人がいて、僕はさぞかし体格のよいソプラノ歌手のような人だろうと思っていた。この人は映画狂で、いつも映画の話ばかり、仙台で試写会とか自主上映とかがあると必ず顔を出しているようだった。あるとき僕も顔を見る機会があったが、全く想像に反して、真っ黒に日に焼けて、すらりとして、たぬき化粧をした人だったので、ラジオで聞く声から想像した姿とあまりに印象が違い、びっくりしてしまった。その頃からラジオ曲の楽屋裏なども番組で触れられたりするようになり、さとうゆうこさんのアダ名は「八木山のカラス」というのだそうだった。(東北放送のスタジオやアンテナは八木山の頂上にある)

1960年代の後半になって東北放送ラジオでも深夜放送がはじまった。AMOというリクエスト葉書の中心番組があった。午前0時から始まるのでAMOなのだそうだ。仙台という地方都市で深夜放送を聞く人というのは限定されているので、リクエスト葉書で組織票の力を発揮させるというのは簡単なことだった。あるとき、AMOでで森山良子の当時のヒット曲「恋人」が一位をしばらくキープしたとき、たまたま森山良子のコンサートがあった。そのせいか、誰が組織したわけではないのに、バーチャルな悪のり組織が出来上がった。皆が示し合わせたように「恋人」のリクエスト葉書を出しつづけた。そのおかげで、「恋人」は全国的には順位が落ちてしまってからもAMOに限っては何ヵ月もの間、一位を続けた。東北放送のAMOの係の人は困っていたことと思う。

しかし何といっても良かったのは東北放送のアナウンサや東北新社のタレント(名門宮城学院の現役女子大生ケイコさんもいた)のDJである。ここでもさとうゆうこさんは真夜中のスクリーンミュージックという番組を受け持って個性を発揮していた。

このような東北放送独自の番組が続いたのはごく数年で、その後はオールナイトニッポンなど東京発の番組の中継に変わってしまった。それでもその頃の深夜放送というのはきわめて開放区的な雰囲気があった。日本の資本主義社会を支えていた某製鉄会社提供で、日曜日の夜中1時から「25時の討論会」という2時間に及ぶ反体制的な内容のティーチ・インがあったりして、よく睡眠不足になったものだ。

最近は、じっくりAMラジオを聞くということもなくなってしまったが、何かのおりに,あのぶんちゃっちゃ、ぶんちゃっちゃを思い出す。それはなぜか床屋さんのいすの上で顔をそってもらっているときに部屋のすみにあるラジオから聞こえていたそのぶんちゃっちゃなのである。そして提供はもちろん仙台の誇る三色最中と笹蒲鉾なのだった。


©1979 くしまひろし

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