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掬水へんろ館

17日目 1999年7月11日  晴れ、のち曇り

 4時20分に目が覚めた。起床は今まで腕時計のアラームに頼っていたが、今朝はアラームが鳴る前に気持ちよく起きられた。足のマメも昨日でほとんど固まってしまったし、左太股の筋肉痛も気にならなくなった。高知の終わりになってやっと歩きに身体が慣れたということだろう。いや、歩きが日常になったと言うべきかもしれない。

 6時10分に宿を出る。空は晴れており風も涼しい。今日はいい一日になるような予感がする。三原村に続く川沿いの静かな道路を進んだ。気持ちの良い時は、いつものように鼻歌が出てくる。歌とともに、数々の思い出が頭に浮かんでくる。

 そういえば、20年以上も前に、東海自然歩道を重い荷物を背負って仲間と歩いたことがあった。どこか今朝と共通する感じがある。そうだ。太陽を背中から浴びながら歩いたことだ。ということは、北に向かって歩き始めたことを意味している。南端の足摺から離れるのだから当たり前だが、四国の東側と南側を歩き終わった、つまり約半分を歩いたことになる。明日は愛媛県だ。いい気持ちが一層ハイになってきた。

 「Sun-shine on my shoulder makes me happy 〜〜」 東海自然歩道で仲間と歩きながら歌ったジョン・デンヴァーの曲が頭を支配しはじめた。そして、今歩いている道路や風景、僕の気持ちにピッタリした彼の「Take me home, Country road」という曲が湧いてきた。

 鼻歌は、いつのまにか大きな声に変わっていった。曲に合わせて、足もリズミカルに動く。続けて30回も歌っただろうか。ふと気がつくと、歌詞がいつのまにか変わっていた。    ♪ Almost heaven, West シコク,      イシヅチ mountain, シマントー River

 10時20分、下の加江から約4時間で三原村の役場に着いた。この4時間で出会った車は20台くらい。最後は少し飽きが来たが、本当に気持ちの良い道路だった。しかし、こんなにハイペースでいいのだろうか? 「いいんです、調子のいいときはそれで」 今日は39番前に宿泊しようと思っていたが、その先の宿毛まで楽勝で行けそうだ。さっそく、宿毛の宿に電話することにした。

 三原村の中心地を抜けると、道路は下りになってきた。晴れていた空には雲が広がりはじめ、涼しさも増してきた。いよいよ快調。となるはずだったが、午前のツケが全身に回ってきた。足が伸びない。トンネルの先のダム湖の休憩所にへたりこんだ。役場前で早い昼飯を食べてから、まだ1時間あまりしか過ぎていないのに、腹も減ってきた。

 「やあ、こんにちは」 元気な声の同年輩のオジサンが現れた。地元の人で、休日には近くの山を歩いているという。そういえば、今日は日曜日なのか。39番や宿毛の道を教えてくれた後、「じゃー、元気で」と言い残して、サッサと歩いていった。あわてて後を追おうとしたが、オジサンとの距離はドンドン広がるばかりだった。

 13時30分、39番延光寺にお参りし山門から出ようとすると、3台の観光バスの団体が参道を歩いてきた。一人対百人が参道で対面した。負けるものか、参道の中央を突破してやると意気込んだが、僕の存在は完全に無視されてしまった。参道いっぱいに広がったオバチャン達は、おかまいなしにズンズン進んでくる。多勢に無勢とはこのことか、参道の端によけるだけでは足りず、参道脇の畑の中まで追いやられてしまった。 「おそるべし、オバチャンパワー」

 宿毛に向かう。やはり今日も午後はヘロヘロ。どうも、その日の最後のお寺にお参りした後にパワーが落ちる。目標に向かっている時は元気なのに・・・。 時間の余裕もあるので、喫茶店に飛び込んで遅昼の焼きそばを食べた。一人前ではもの足りないが、なんとかパワーアップの足しにはなるだろう。

 15時40分、宿毛の宿に着いた。風呂と洗濯を済ませて、夕食のために表に出る。近くを一回りしたが適当なお店がないので、僕には似合わないが少し上品なお店に入った。「鯖の姿ずし」という張り紙が目に入る。鯖、鰺、鰯などの光り物には目がないので迷わず注文した。 デカーイ! 普通の大きさの鯖が一匹丸ごと大きな皿に盛られていた。もちろん、鯖の中にはシャリが詰められている。 「んー、負けるものか」 苦しかった。でも食べた。食べて食べて食べきった。この気合いがあれば、明日からも元気に歩けるにちがいない。

 毎夜、携行ノートに簡単な遍路記録(メモ)を書いているのだが、今日で積算距離が600kmを越えた。全行程が1200kmと言われているので、半分を歩いたことになる。そして、これが高知県の最後の宿で、明日の朝に愛媛県に入る。 「もう半分も来たのか」と「まだ半分なのか」が、複雑に交錯した。今日は17日目、単純に2倍すると34日で結願できることになる。

 しかし、1200kmは88番までの距離なのか、40km先の1番までの距離なのか、はっきりしたことは判らない。が、今日までの調子で進めれば、期限内に結願できることは確かだ。とはいっても、アクシデントが起きないという確証は何もない。余裕を持つためには、少し日程的な貯金が必要にも思える。 いずれにしても、「明日からも、ただ黙々と休まずに歩く以外にない」というのが結論だった。

 17日目 →38km、↑200m、51000歩、6:10〜15:40、宿毛市「BH桂月」

<応援者>

 四国には遍路の応援者がたくさんいます。遍路相手の商売をしている人はもちろんですが、一般の人達が応援してくれているような気が、いつもしていました。もちろん、「フレー、フレー、遍路」なんていうエールはありませんが、ちょっとした言葉や仕草にも、それを感じるものがありました。

 僕にとって一番の応援になったのは、小学生、中学生、高校生からの挨拶です。道で出会っただけなのに、「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」と声を掛けられました。彼らにしてみれば、そういう躾をされており当然で機械的なものかもしれませんが、遍路からみれば、自分は認められているという気分になりました。そして「彼らの尊敬の念を裏切ってはいけない。結願までやり遂げるのだ」という意欲が湧いてきました。

 大人の人達からも「お気をつけて」とか「ようお参り」という言葉を何度かいただきました。こちらは好きで歩いているだけで、宗教心がそれほどあるわけではないのですが、遍路に対する四国の人々の特別な気持ちが現れているようで、やはり、その気持ちに応える責任を感じずにはいられませんでした。

 「頑張って」という応援も何度かいただきました。が、この応援は時によっては逆効果にもなるようです。本当にヘバッてギリギリの状態でいる時は「頑張って」がつらいのです。フルマラソンの終盤でも同じような気持ちになりました。頑張って頑張っているのに、もっと頑張れとは・・・。

 以前、登山の途中で完全にヘバッた看護婦さんを援助したことがあります。彼女は「回りの人に頑張ってと言われるのがつらかった。ターミナルケア(終末医療)の現場では患者に対して頑張ってという言葉が禁句になっているが、その意味を実際に自分の身体で体験した」と言っていました。身体的にヘバッた時以外でも、極端に追い込まれたときは「頑張って」が逆効果になるのでしょう。

 言葉かけだけが応援ではありません。若者時代の無銭旅行の経験から言えば、日本では都市から離れるほど、よそ者に対する目が険しくなるのが普通でした。しかし、四国では都会を離れても、以前に経験したよそ者に対する険しい目は感じられませんでした。それ以上に、笑顔や黙礼という無言の応援が多かったように思います。

 四国の人は、ただ遍路に慣れているからなのかもしれません。が、老若男女を問わず遍路には特別の配慮をしてくれているように感じます。きっとその背景には宗教心という文化が根付いているからだと思わざるを得ません。この意味で、四国の人が応援者なのではなく、四国全体が遍路を応援していると解釈したほうが良さそうです。


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