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掬水へんろ館

11日目 1999年7月5日  晴れ、時々曇り

 7時05分、朝食を食べてからホテルを出た。寝不足で頭が重いが、この時間は空気がさわやかで気持ちがいい。土佐山田は遍路コースから外れているので遍路シールなどもなく、29番へは地図を頼りに歩いた。オリエンテーリングを長くやってきたので、地図を読みながら進むのが楽しい。通勤時間の車の多い道路を避け、なるべく田園の道を選んだ。勢いのある水が流れる用水路沿いは、涼しくて特に気持ちが良かった。

 7時55分、29番国分寺に着いた。本堂では、丸刈りの身体の小さい若者遍路が読経をしていた。疲れたような姿勢と大きな荷物と薄汚れた白衣からみると野宿の遍路のようだ。読経の後、合掌したまま動かなくなった。僕の読経が済んでもそのままである。眠ってしまったのではないかと心配になり、よく見ると、唇がかすかに動いている。こんなに長く、何を一心に願っているのだろうか? 野宿遍路の遍路行の重さを感じずにはいられなかった。静かな静かな境内によく似合う姿だった。

 30番へは高知医大を通るコースを選んだ。一本道になると地図が必要でなくなり、歩く面白さも激減してしまう。それに、左の脚も右足のマメも調子がよくない。昨日、土佐山田で買った万歩計をのぞいた。もう5km以上は歩いているはずだのに、歩数はまだ3000歩。7000歩を越えていてもおかしくないのに。万歩計のセンサー感度のスイッチを中から高に切り替えた。バネのない疲れた歩き方になっているのだろうか。

 30番善楽寺では、また大将と顔を合わせた。昨夜は都築さんの無料接待所に泊めてもらったそうだ。脚を痛めている間にずっと先に行ってしまったと思っていたが、それほどのロスになっていないようで安心した。いつもは口数の少ない大将だが、今日は話しが弾んだ。天気が良いせいかもしれない。

 大将がお寺を先に出た。長身のオジイサンと大将が話しているのが見える。オジイサンが腕を上げて指さしているところをみると、大将に道を教えているようだ。しかし、方角がどうもおかしい。オジイサンは僕にも寄ってきた。 「31番はあっちじゃ」 「僕は郵便局へ寄りますので」 「郵便局はあそこの家の向こうじゃ」と、民家が建ち並ぶ道を指さす。郵便局がないことは歴然としているが、お礼を言ってからその道を進んだ。

 大将が頭をひねりながら戻ってきた。またオジイサンと話しているようだ。僕は急いでオジイサンの守備範囲から離れることにした。オジイサンの前で、「このオジイサンは親切だけど、少し恍惚に近い人だ」と大将に言うわけにはいかない。 「大将、早く気がついて。 自分でいいと思う道を選んで」と念じるだけだった。

 31番へまっすぐ進むサンピア近くの道ではなく、郵便局に寄るためにもっと東の道を進んだ。そこから、31番竹林寺の西側にある車用の参道に向かう2車線の道を歩いていると、 「違う、違う」という声が聞こえた。別の人への声だと思ってさらに進もうとすると、「お遍路さん。その道は違う。こっちじゃ」と自転車に乗った小柄なオジイサンが後ろから現れた。そして、手招きしながら、歩道橋だけで横断歩道がない交差点を強引に突っ切っていく。オジイサンの顔を立てるためには、着いていくしかない。車の運転手ににらまれながら・・・。

 「あのなー。五台山(竹林寺)の本尊は文殊さんで、文殊道ちゅう遍路道はこっちじゃ」 と自転車を押して僕の前を歩いてくれた。遍路シールも現れてきた。文殊道は、戦争中の防空壕設置やその後の宅地開発で、少しずつ変わってきたことや、オジイサンが遍路をしたころの昔話をいろいろ聞かせてくれる。民家の間の細い路地を通り文殊道の坂の入口に着いた。

 「ここまで来たら間違いないじゃろ。この坂はワシもよう登らんし」と100円玉を出してお接待してくれる。初めての現金のお接待だったが、自然に受け取ることができた。 「どうもありがとうございます。おじいちゃんはまるでお大師さんみたいや」と思ったままを口にすると、とてもいい笑顔を返してくれた。なにか幸せな気分になったせいか、文殊道の坂は苦しくなかった。

 14時15分、32番禅師峯寺の急坂を登りきる。海を見下ろすベンチには20才台の女性遍路が座っていた。白い手っ甲脚絆に白い靴の正装スタイルである。 「これから34番まで行こうと思うんですが、大丈夫でしょうか?」 「難しいでしょうね。もし納経時間に間に合わなければ、近くに宿がないので明日の朝が大変になりますよ」 今日高知に着いて、区切り打ちの続きを始めたばかりだという。33番前の、今日僕が泊まる高知屋さんを紹介した。

 途中の小学校の下校時間と重なった。2年生の一団と一緒に歩く。 「ねえねえ、笠貸して、杖貸して」と馴れ馴れしい。でも、若い女性より子どもを相手にするのは得意だ。 「ねえ、なんで杖に鈴がついてないの?」 「腹が減ったので食べてしまった」 「げーーっ。 リュックには何が入ってるの?」 「着替えのパンツに・・、トイレットペーパーに・・」 「げげげげ」 大の人気者になってしまった。子ども達は、魔女のホウキのように、杖を足の間にはさんで駆け回っている。そのうち、家に近づいた子どもが一人ずつ減っていき、最後に一人が残った。 「おうちはまだ先なの?」 「んーん。じゃーね、さよなら」と来た道をダッシュして戻っていった。普通なら「知らないおじさん」に着いていっちゃいけないと言われているはずなのに、遍路は特別なのだろうか? 遍路がみんな善人だとは限らないのに。

 フェリー乗り場で船を待っていると、さっきの女性遍路が追いついてきた。 「子どもに、もてますねえ」 これは皮肉であろうか? いや、ほめ言葉として受け取っておこう。フェリーから降りると疲れがどっと来た。マメの痛みが追い打ちをかける。負けるはずがないと思っていたが、女性遍路に全然追いつかなかった。

  16時40分、33番雪蹊寺のお参りを済ませ、門前の高知屋に入った。洗濯のお接待をするから、風呂で脱衣したら着ていたものを窓から全部投げ出せという。それはありがたいことだが、本当に全部でいいのだろうか。最後まで迷ったが、思い切ってパンツも一緒に投げ出した。 「よろしく、お願いしまーす」

 11日目 →32km、↑320m、54000歩、7:05〜17:00、33番前「高知屋」

<一般遍路の服装>

 上から下まできちんとした正装遍路は、彼女が初めてでした。が、全体に男性に比べて女性のほうが、それも若い人のほうがきちんとしているようです。ファッション的なものもあると思いますが、それ以上に遍路の正装が女性らしさを包み込む役目をしているからだと思います。確かに正装している人には、一種の宗教的オーラを感じました。

 僕が歩いたのは夏でしたので、遍路の服装もある程度崩れるのもしようがないかと思います。杖と笠を持っている歩き遍路は、大まかにいって次のような格好をしていました。

 杖と笠だけで、それ以外は適当な遍路、10%以下。(僕がこれに該当します。が、僕のように暑いと半ズボンと袖無しシャツになるような遍路はもちろん1%もありません) 杖・笠に白衣の上衣、約90%。これらのうち、白ズボンの人が3分の1強で、輪袈裟を着けている人は約半分、納め札箱を持っている人は少数でした。

  バスや車での遍路は、真っ白な上衣を着ている人が多かったようです。涼しい車内では、汗をかくこともないし汚れることもありませんので白さが目立ちました。歩き遍路の上衣は薄汚れていますが、汚れこそが歩き遍路の勲章ではないでしょうか。それにしても、すぐ近くの駐車場からお寺まで歩く車遍路に杖は必要なのでしょうか。これにはとても違和感を感じました。

  夏でしたので、多くの人がタオルをすぐ使えるように用意していました。腰にぶら下げる人や、ザックに引っかける人、首に巻き付ける人、笠の中にはさんで置く人など、いろいろでした。僕の場合はタオルの端をザックの上に結んでおき、肩越しに身体の前にぶらさげて歩きました。歩きながら手も顔も拭えるようにという工夫です。


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