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掬水へんろ館

7日目 1999年7月1日  薄曇り

 昨日は半日の休みを取ったので、今日は距離を伸ばそうと暗いうちに起きた。顔を洗うために洗面所に行くと、ちょうどトイレで元校長が用をたしていた。昨日までのお礼と別れの挨拶をする。元校長は高知市までの区切り打ちだが、一日の行程は10km程ちがうので、今後お会いする機会はおそらくないだろう。今朝お会いできたのも何かの縁かと思う。

 5時10分。宿を出て、国道55号を歩く。国道には室戸市までの距離を表示したキロ標示板があって、これを利用すると歩行スピードを計算することができる。昨日はおおよそ12分/1kmくらいで時速5kmであった。国道に出て最初のキロ標示板で時計を確認し、気持ちよく歩く。 「あれ?、もう次の標示板か。マメもずいぶん固まったし、昨日は休んで身体も軽くなったし・・・。快調快調!」 時計を見ると3分も過ぎていない。計算すると時速20〜30kmのペースだ。 「なっ、なにーーーっ?」 これはどういうことだろうか?

 いくつかの可能性を考えてみた。
 1. 時計を見間違えた、
 2. 時計が壊れている、
 3. まだ寝ぼけている、
 4. 計算を間違えた、
 5. 標示板がおかしい、
 6. 本当に20km以上で歩いている・・・。
  きっと、1‐4の時計がおかしいのか僕がおかしいのだろう。確認するために次の標示板からもう一度測ってみることにした。11分17秒、時速5.3km。これは僕のペースだ。時計も僕もおかしくない。

 では、標示板がおかしいのだろうか? 建設省が間違えることってあるのだろうか? そうならば55号の総延長距離は間違っているのだろうか? わけがわからなくなってきた。謎をそのまま残すのは嫌だから一度戻ってみようか、と歩き遍路らしからぬアイデアも出てくる。しばらくすると遍路道は国道を離れ浅川港の方へ向かったので、この謎はウヤムヤになってしまった。
 (2000年12月にここを歩いたところ、標示板の間の時間はやはり2分30秒くらいでした。本当の距離はおそらく300m足らずではないかと思います。謎が解け、僕の間違いではないことでホッとしましたが、建設省もこんな間違いをするのかと驚いたり、人間らしさに安心したりしました)

 8時前、水床トンネルを通って高知県に入った。バス停では女子高生が元気そうに話しをしていたが、なにか自分とは全然関係のない異星人のように感じられた。しかし、高校生でも小学生でも若い人の声を聞くと、なにか元気が湧いてくる。それだけ僕が・・・・。   明言するのは避けよう。僕を見て、「40才前でしょう」と言ってくれる人も、信じてくれる人もいるのだから。

 8時30分、白浜海岸の公園で途中のコンビニで買った弁当を食べる。回りはとても静かで、ベンチに座って海と海鳥とを見ていると、いつまにか眠ってしまいそうだ。心が、とても優しくなっているような気がする。海と同じように心の波も凪いでいるのだろうか。セッセセッセと歩いている時も同じような心でありたいものだ。運動を始めるとすぐに心が燃えてくる体育会系には、無理な注文なのかもしれない。

 野根を通り過ぎ、いよいよ修行の地・土佐での初難関と言われる淀ケ磯に入る。ゴロゴロ休憩所に座って地図を開き、今日の目的地の尾崎を同定しようとするが、幾重にも岬が重なりあってどうにもわからない。今日も、ただただ前に歩を進める以外になさそうだ。さて出発だと腰を上げようとすると、休憩所に軽四輪が止まり、年輩の人が僕を目がけて歩いてきた。

 どこから来た? から始まる例の質問を一通りすませたあと、突然のお叱り説教になった。 「杖は何の意味か知ってるか?」 「いいえ」 「杖は途中で死んだときに墓の代わりに立てるもんじゃ。まだ死んでもいないのに梵字を見せているのはけしからん。杖には帽子をかぶせなきゃいかん。この梵字の意味は知ってるか?」 「いいえ」 「あんたに説明してもわからんやろう。それで輪袈裟はどうした。遍路は輪袈裟をしなきゃならん。持ってるのか?」 「いいえ」 お叱り説教はまだまだ続く。杖や梵字などの遍路に関する基礎的な知識についてはある程度理解しているつもりだったが、相手の話し方や態度が気に入らなかったので、すべて、「いいえ」と「わかりません」で通した。僕なりの拒否姿勢である。

 おそらく遍路に関して造詣が深く、日常では信心深い人だと思われる。そして、僕にお説教をしたのは、おそらく親切心からであろう。でも、「〜〜したほうがいいよ」「それが本式だよ」という言い方でなく、「遍路は〜〜しなければならない」と決めつけられては、こちらも立つ瀬がない。それに僕の買った一番安価な杖は最初から帽子などついていなかった。つまり公認のものだと思う。話しを続けているうちに少し切れかかってきた。どう撃退したらいいのだろうか。遍路は怒ってはいけないらしいし・・・。

 「ワシが言うような格好をしておらんのは遍路じゃなくて観光旅行じゃ」 決めつけてきた。 「僕は半分観光旅行ですから・・・」と言ってしまった。僕は純粋遍路とは到底いえないが、観光などに重きを置いてはいない遍路の端くれだとは思っている。半分観光という言葉は、勢いみたいなものである。だが、効き目はあった。年輩のオヤジは、失望と軽蔑のまなざしを残して、軽四輪を急発進させて去って行った。僕の気持ちと同調するように、磯の波はノタノタとだるそうに打ち寄せていた。

 黙々と淀ケ磯を歩き、尾崎まで10kmの所まで来た。まだ、昼の12時だ。ここまで30kmをカメさんで来たのだから、ウサギさんになってもいいだろうと思う。海辺の防波堤で横になった。海風が気持ちよく汗を持ち去ってくれる。同時に脚の筋肉がゆるんでいく。いつのまにか意識がなくなっていった。

 7日目 →40km、↑220m、52000歩、5:10〜15:30、室戸市尾崎「ロッジ尾崎」

<僕の遍路ルール>

 宗教的な関心ではなく、野外活動的な関心で遍路を目指したわけですが、遍路をする以上は、それなりの「きまり」に従うべきだとは思っていました。しかし宗教者ではありませんので、あまり仏教的な細部の礼式まではこだわらないでおこうとも思っていました。それに、「形から入る」という考え方は、体育会の経験から幻滅を感じたことも多かったので、今回は「僕なりの遍路ルール」を決めていました。

 遍路の行程では、88カ寺をすべて回ることは当然として、4つの「僕のルール」は守ろうと思っていました。
 1. 全行程を歩き通す
 2. 1番から必ず番号順に回る
 3. 荷物を預けない。荷物を置いてのピストンもしない
 4. 煙草を吸わない
  煙草を吸わないは、4日目で挫折してしまいましたが、あとの3つは最後まで守れました。身体的負荷の部分は体育会系らしくクリアできたことになります。

 お寺のお参りは、母が書いた写経を納めることを中心にすると決めていました。事前に、書き終えた写経を貰いたいと母に電話すると、3千枚全部を持っていってもいいよと冗談交じりに話していましたが、僕のために、出発までの短い間に新たに2百枚書いてくれたようです。85才を越えているのに、まだまだ意欲と行動力があるのが不思議です。体育会系DNAの源だからでしょうか。

 出発間近まで、写経をお寺に納めることを「納経」と言うのだと思いこんでいましたので、納経はこれで十分と思っていました。その後、読経することを納経と言い、その証明として納経料を支払って納経帳に印をいただくことを知りましたが、日程的に朝早くまたは夕方遅くお寺を通過することも多いと思いましたので、納経帳は用意しませんでした。お寺巡拝の証拠は残りませんが、お天道さまとお大師さんが間違いなく見ていてくれると思っていました。納経料をケチっているのではないかという批判も考えられますので、それなりのお賽銭を用意することにしました。したがって、お寺では本堂と大師堂で母の写経を読んで納めるだけでしたので、普通の人に比べて短時間で出発できました。

 服装等は、すでに書きましたように、杖と笠以外は遍路らしくない格好で通しました。白衣はそれなりに心を惹かれるものがありましたが、真夏に歩くということを考えると非効率的だと思い、購入しませんでした。ロウソクなども持ちませんでした。35日前後で歩き通すことがまず一番で、歩き通すことに障害がありそうな、非効率的なものや重くなるものは、なるべく避けようというのが基本的な考えです。したがって、食事もバテないことを主眼にして一切コントロールしないことにしました。

 最後まで迷ったのは、実利的で重さに関係しない、それに宗教的にも意味がありそうな高校時代以来の丸刈りです。(決して剃るのではありません) 迷いに迷った結果、必要性を感じたら途中で床屋に行く、と決めましたが、床屋に行くような時間的、精神的余裕がないままに結願してしまいました。


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