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掬水へんろ館

4日目 1999年6月28日 薄曇り

 今日は序盤の山場の一日と覚悟していた。誰もが序盤は距離を押さえるべきだとアドバイスするし、自分自身も同じように思う。しかし、日数が限られた遍路ではそうもいかない。徳島県内の宿泊プランをいろいろ事前に検討したが、ここを無理すればうまく序盤の日程が組める。また、僕の体力と疲労蓄積の確かめの日という意味合いもある。とにかく今日は黒河まで行くしかない。その先は、日和佐に着いてから考えよう。

 6時15分に出発する。晴れる様子はないが涼しく爽やかな朝だ。やっと雨具からは解放されたし、まだ車も少ない。また、昨夜バスルームで洗ったシューズもよく乾き、濡れていない靴下の感触が心地よい。気持ちよく地蔵橋駅の近くの旧道を進んだ。

 国道55号に出て、爽やかさが吹っ飛んだ。車の騒音、汚れた空気、そして車からの視線・・・。朝の通勤時間までの、つかのまの爽やかさだった。おまけに、足裏のマメの状態が望ましくないようだし、3日間の疲れが表に出てきた気配もある。午後の山道を考えると暗くなってしまいそうなので、何かを考えようとするが、全く集中しない。

 7時45分、18番恩山寺、8時40分、19番立江寺と打ち、20番に向かおうとするが、気持ちと体力が切れかかってきた。道沿いの中学校の門の外に座り込んだ。まず、朝コンビニで買った昼飯を食べる。多めに買ったつもりだったのに全部食べてしまった。そして、思い切ってシューズをスポーツサンダルに履き替え、服も着替える。とにかく気分転換になりそうなことは全部するつもりだった。が、一番気分転換になったのは、休み時間の中学生の元気な声だった。その声に押されるように重い腰を上げた。

 12時までには生名から登りの遍路道に入らなければと心は焦る。が、身体は重いままで、精神も集中しない。勝浦川沿いの道を進んでいると、2日前と同じように軽トラックが止まった。 「ワシ、鶴林寺まで行くんやけど、乗らんかい?」 「歩いていますので。ありがとうございます」 躊躇することなく間髪を入れずに答えていた。 『まだまだ気合いは抜けていない』 嬉しかった。でも反省もした。 『車からお接待の声がかかるのは、疲れたような歩き方をしているからだ』

 11時45分、ドラ焼きを食べてから20番鶴林寺への登りに入る。みかん畑用の急な舗装路がツラい。ふくらはぎの筋肉の張りのため足首の柔軟性がなくなっており、下手をすれば、登りなのに後ろにひっくり返る恐れさえある。水呑大師を過ぎ、やっと舗装路が終わったと思ったら、今度は階段攻撃にさらされる。 『もうどうにでもしてください。どんな攻撃が来ても、すべてを甘んじて受け入れます』 ヤケクソではないが、このように考え方を変えると、回りの樹木や鳥の声などに意識が向かうようになってきた。不思議だ。

 いつもなら、それほど苦にしないような標高差だったが、今日は苦しかった。12時40分、やっと山門手前の駐車場に到着すると、車遍路のご夫婦から冷たいジュースのお接待をいただいた。一気に飲み干すと生き返った気持ちがした。

 鶴林寺を打って、急な下りに入る。串間さんが捻挫した場所なのを思い出して、慎重に下る。しかし、いつもの下りのペースにならない。足の踏ん張りがいつもより弱いようだ。杖の使い方をいろいろ試行錯誤してみると、長く持って早め早めに下の方に突くのがよさそうだ。

 21番太龍寺への登りは・・・。途中に寂しい一軒家があったこと以外は、あまり覚えていない。止まっちゃダメ、止まっちゃダメと自分に言い聞かせながら、地面ばかり見て歩いていたような気がする。参道についてベンチに座り込んだ。 15時30分、山門を経て境内に入ったとき顎の疲れを感じた。文字とおり歯を食いしばって登ってきたからであろうか。  (この日の20→21番の所要時間は2時間30分。その後、嫁さんと二人で歩いたときが2時間10分。所要時間だけをみても、この日は相当疲れがたまっていたことが分かる)

 16時45分、龍山荘に着く。頑張った自分を報告したくて、すぐに嫁さんに電話をかけた。途中なんとなく、「煙草が吸いたいなー」と言ったら、「無理しなくても吸っちゃえば」と言う。家では「やめろ、やめろ」というくせに・・・。 外に出て道ばたに座り、缶ビールを飲みながら4日ぶりの煙草を吸う。ご主人が丹精こめたアジサイが美しい。太龍寺の山もきれいだ。煙草の罪悪感は少々あるが、それにもかかわらず、なんと幸せな気分なのだろう。頑張ったあとにしか味わえない充実感というのだろうか。

 階段の手すりに助けられながら食堂に降りる。同席は10才以上も年上の人。といっても身体は小さいながらカクシャクとしている。 「今日はどこから歩いてきた?」 「徳島市からです」 「おまえ、それは無茶だ。そんな無理をしたら途中でつぶれるぞ」 明るい声で叱られる。72才の元小学校校長で6回目の歩き遍路だという。食事をしながら会話を続けた、というより叱られ続けた。叱られながらも、どこか嬉しく楽しい気分になる絶妙のお説教だ。球拾いレベルの新人遍路の質問にも、決してベテランを鼻にかけず答えてくれる。こんな先生にぜひ習ってみたいと思った。また、こんな先輩が体育会にいたら後輩も楽しいに違いない。

 4日目 →38km、↑1020m、60000歩、6:15〜16:45、阿南市黒河「龍山荘」

<履き物>

 何を履いて遍路に出るか? 本当にいろいろ考えました。秋から春にかけての遍路なら、迷わずウォーキングシューズか軽登山靴に決めたと思います。なぜなら、両方とも「歩く」ことを目的としたシューズですので、長い歩行のためのノウハウが蓄積されているに違いないからです。

 僕の持っているシューズを数えてみると20種を越えています。なぜこんなに多いかと言うと、スポーツシューズはその用途で細分化され、その特有の動きにマッチするように設計されています。スポーツの数だけシューズがある、のではなく、ポジションや種目も考えられていますので、スポーツの数以上にシューズがあるのです。ですから、歩き遍路には「歩き」用に作られたシューズにまさるものはありません。

 なのに、僕はジョギングシューズとスポーツサンダル(踵にベルトのあるもの)で行くことに決めました。スポーツサンダルを持ったのは、ビジネスホテル泊まりが多くなると予想していましたので、宿に着いてから食事など外出するのに便利だと思ったからです。これは正解でした。軽いしかさばらないのもいい点です。

 ジョギングシューズにした一番大きな理由は、真夏の遍路では防水性を犠牲にしても、空気の流通性と濡らしたときの乾きの早さを重視しようと思ったからです。雨の多い遍路でしたが、足や靴下が濡れて冷たいと思ったことはありませんでしたし、足が蒸れたこともありませんでした。

 もうひとつの理由は、僕のウォーキングシューズと登山靴は、2.3日ならともかく1ヶ月の長丁場を考えると、まだどこか履き心地に違和感があり、完全には信頼できなかったからです。といって、新品を買って履き慣らす暇もありませんでした。

 マメはできる場所で2種類に分けることができます。ひとつは、船でいうところの船縁、つまり足の側面です。これは主として摩擦によるものですから、靴の形状が足に合わなかったり、履き慣れていない場合にできるものです。もうひとつは船底、つまり足裏です。これは摩擦もありますが、重力によるものも多く、荷物を加えた体重とソール(靴底)の堅さのバランスが原因ともなるようです。

 半年は履いて走ったジョギングシューズでしたが、足の側面はなんの問題もなかったのに、足裏がダメでした。ソールが柔らかすぎて、荷物を担いだ歩行には向かなかったようです。キックする時に力の入る指の付け根の部分にマメが何度もできました。遍路から帰った後に靴に手を入れてみると、インナーソールにはしっかりと5本の指の形が残っていました。
 荷物を背負ったときの、重心と姿勢の変化が影響していたのかもしれません。

 その後の嫁さんとの区切り打ちでは、履き慣らした軽登山靴を履きましたが、7日間でマメはひとつもできませんでした。また、ソールが堅いので石や凸凹に影響されず快適でした。ただし、その時出会った遍路の中には登山靴でマメをつくっていた人がいましたので、登山靴が万人に向くとまでは言い切れないような気がします。また、靴だけの問題ではなく、歩き慣れているとか歩き方の癖などの人間側の問題も考えに入れる必要があると思います。


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[期限付ヘロヘロ遍路旅] 目次に戻るCopyright (C)2001 橘 直隆