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掬水へんろ館

平成9年『出会いの日々』
5月11日(日)[ 晴れ ]

 出発前から目が重く疲れている。充血もひどくなっているようで、目薬を点してもなかなか効かない。2時間ごとに目が覚めて、やっと気持ちよく眠れそうになってきたなと思った午前6時過ぎ、船が今治に到着。船内アナウンスや、人の降りる気配で、また夢から引き戻された。
 山崎さんは、時々イビキなどもかきながら、ぐっすり眠っておられるようだ。よかった。

タヌキと忍耐

 午前7時。顔を洗って部屋に戻り、化粧をはじめたところで、「待ってました」とばかりに、山崎さんがにじり寄ってこられた。
ああ・・・また長い話のはじまり。今朝は、彼女の「趣味のお話」の巻。
 民謡・三味線(これは皮がはがれてやめたらしい)・踊り(演歌に合わせて、勝手に創作して踊るのだそうだ)・俳句・エトセトラ・・・。
とにかく話が止まらない。アイシャドウ塗ってる間も話しかけてこられるので、「そうですねぇ」などと返事をしなければならず、手元がくるってタヌキみたいな顔になってしまった。ま、仕事じゃないんだし、少々ブスでもよかろう。
 しかし、トイレと洗顔以外、一歩も外へ出ることは許されず、話聞き役「一人相づち隊」の私は、起きてから下船までの1時間半、けっこうな忍耐を経験したのだった。(母にも彼にも、電話すらできなかった)
 もう、修行ははじまっている。

 いよいよ下船という時、山崎さんが「お接待に」とお金をくださった。(紙に包んであったが、あとで1000円と判明) 辞退しても聞き入れられそうになく、「このお金で、必ずお母様の供養をしておきますね」と言うと、なんでしょう、涙をぽろぽろ流されて、「うれしい、うれしい。貴女に会えてよかった」とおっしゃるではないか。その言葉と涙で、ゆうべからの忍耐が一気に報われたような気がした。
 やはり、山崎さんの亡くなったお母様が、「娘が寂しくないように」と、私を道連れに選ばれたんだな、と思わずにはいられない。

 伊予電鉄で松山市へ。伊予鉄高浜駅まで、港からバスが出ているが、山崎さんに付き添っていたら、乗りそびれてしまい、駅まで歩くことになった。「いきなりの試練か」と思ったが、たいした距離ではなかった。

マクドで朝食を

 松山へ出て、いよいよ「お別れ」のはずが、「下着を忘れてきたので、買いたい」とおっしゃるので、おつきあいすることにした。
 午前10時前で、まだ商店街が開いていない。腹ぺこの2人、マクドナルドで朝食をとる。(そこしか開いてなかった)
 マクド(関西ではマックではなくマクドという)初体験の山崎さんは大喜びだ。朝食メニューしかないので、彼女には「ソーセージエッグマフィンセット」、私は肉をさけて「フィレオフィッシュセット」を注文した。
 食事の間も、山崎さんの講釈は続く。今度は、「いけず(いじわる)な人が多くて、京都の人間はどうも好きじゃない」というお話。私も少しは思ったりするけど(京都の友人諸君、ゴメン。一般論だからね。・・・もっと悪い?)、大きく相づちを打つわけにもいかず、ハッシュドポテトをくわえたまま、「あがあが」言うばかりだった。
 「一人暮らしは気が変になる」とおっしゃっていたが、確かに、話し相手がいないから、たまに人に会うとおしゃべりになるのは、無理もない。でも話を聞くばかりの立場は、やはり少し疲れた。普段自分が、どれだけ人を疲れさせていたかわかったような気がして、ちょっと反省。
 その後、大型スーパーで無事「下着」を買って、また駅に戻った。
(「疲れた」なんて言ってるけど、別に山崎さんが、「ついてきて」とおっしゃったわけではない、自分で勝手にくっついて行ったのだ。彼女には何の罪もないのに、つくづく身勝手だ、私は)

 駅でお別れする時、少し切なくなった。7月からは、正式に松山のホームで暮らすことになる彼女。
「いくら自分が気に入った場所だからって、何も好きこのんでホームに行くわけじゃない。やっぱり辛いのよ」と、はじめてマジな顔で、ポツリ。
 どんな事情があるのかはわかりませんが、新しい人生だと思って、楽しく生きてくださいな、と一生懸命思った。どうか、山崎さんに「幸せ」がたくさん訪れますように。お母様の「供養のお札」必ず持っていきます。
 ホントにありがとうございました。

放浪者

 ホント! 本当に「ありがとうございました」だったのだ、これが!
 山崎さんと別れて、自分の行き先「久万方面」へのバス乗り場へ行ってみてびっくり。現在午前10時45分なのに、次のバスは12時05分までないのだ。もう切符も買っちゃったのに・・・。一瞬、「もう少し早く来てたら乗れたかも」とも思ったが、なんと「久万方面行きバス」は一日に4本しかなかった。これより前のバスは、8時00分発! そんなの、まだ船の中だった。どんなにがんばっても乗れるハズないがない。どっちにしても12時05分に乗るしかないのだ。もしあのまますぐに山崎さんとお別れしていたら、一人でどれだけ待たなきゃいけなかったことだろう、ホントに。

 荷物を持ってウロウロするわけにもいかず、1時間20分程の時間を、このバス乗り場でじっと過ごすことにした。時々、人に道を訊かれたりしながらも(私に道のわかるハズもなく、頭をかくばかりだったけど)、人間観察などしていると、けっこう時間がつぶれる。
 何人もの人が現れて、すぐ目の前から、違う所へ行くバスに乗って去っていく。すぐ、ポツンと一人になる。
 なんだか、一人「行く先」の違う「人生の放浪者」みたいなわびしさを感じて、満足していた。

動物園と山奥の寺

 その矢先、ゲッ、遠足の団体! しかも、「(バス)12時に来るわー」とか言ってる。「えー! 久万へ行くの? あなたたちも?」と心で叫ぶ。
5才〜18才くらいの少年少女と引率の大人、全部で30名ほどもいたろうか。
 同じバスに乗るのー? ほんとにー? 田舎のバスは座席が少ないのよ。私、神戸からだし、荷物も多いし、きのうロクに寝てないし、もうすでに疲れてんの。でも、遍路だから、席ゆずらなきゃなんないんじゃないの? ひどい。それに、子どもってうるさいし。ああ、これから私の「孤高の旅」がはじまるって時に、ムードぶち壊しじゃないの。あんまりだわ。と内心おだやかではいられない。
 12時前になると、「子供会のみんなは、もう並んでおきましょー」などと言って、今まで待ってた他の人たちを無視して、長い列を作りだした。
 「ここで負けたくないぞー、1時間20分も待ったんだぞー」の思いで、私も荷物を持って必死で並んだ。バスの乗降口位置付近、なるべく前に陣取る。でも、「子供会の列」からははみ出していたので、心臓はバクバクしていた。(この小心者!)
 しかし、バスが着いたとたん、私は自分のあさはかさとあさましさに、殴り倒されたような気持ちになった。

 子どもたちが待っていたバスは、「とべ動物園行き」。私が乗る「久万行き」ではなかったのだ。
 子どもたちはどーぶつえんへ行くの、私は寺へ行くの。考えりゃわかるじゃないか。なんで5才の子ども連れて、帰りのバスもロクにないような山奥の寺へ、わざわざ「子供会」が行くんだ!

 子どもに対抗して、必死で立ち上がり、意気込んで並んでいた私は、扉が開いて、一人一人バスの中へ吸い込まれていく人波とは逆に、うしろへうしろへと、後ずさっていくのだった(恥ずかしすぎる)。
「とべ動物園」行きが走り去ったすぐあとに、私の「久万行き」が待っていた。
もちろん、座席はガラガラ。(とほほ) ひたすら反省した。
 自分の「あさましい考え」と「醜い姿」に、気絶しそうだ、と思っていたら、席についてそのまま眠ってしまった。(本当に、反省しているのか!)

走る運転手さん

 久万の営業所までは1時間10分。次は、運良く5分の待ち合わせで、「岩屋行き」に乗り換えることができた。
 ここのバスの営業所の皆さんも、運転手さんも、ムチャクチャやさしかった。
運転手さんなんて、このバスに「乗るかもしれない」と言っていたおじいちゃんが、遠くへ歩いて行ってしまっていたので、自ら田んぼを越えて、走って出発を知らせに行ったのだ。で、また走って戻ってきて、「次のに乗るんやて」だって。ヤな顔ひとつせず、私たち乗客に(3人しかいなかったけど)、大きな声で、「お待たせしましたー!」と言って出発。気持ちいーい。

 田舎のバスらしく、おばあちゃんの都合のいい所(停留所じゃない所)で降ろしてあげたり、私が降りる時も、次の帰りのバスは○時、岩屋寺へはこの道をまっすぐ登るんだよと、親切に教えて下さった。おじさん、ほんとにありがとう!

供養の箱

 「門田屋さん」に到着。宿のおかあさんのなつかしい顔。私のことも覚えてて下さったようで、うれしかった。白装束に着替えて、早速45番「岩屋寺」さんへ登る。やっぱり登りはキツイ。ゼーゼーハーハー息の上がること。団体遍路のじーちゃまばーちゃまでも自力で登ってらっしゃるのに、何というてーたらくだろう。明日からが思いやられる。

 一通りお詣りを済ませて、山崎さんのお母様の供養を、と思ったら、お名前を書いたメモを宿に忘れてきたことに気づいた。(何てこった)
 引き返してまた登ってくる「根性」なんて、カケラも残っちゃいないので、公衆電話から「松寿園」に電話してみた。山崎さんを呼び出していただき、また「お母様のお名前」をお訊きする。ぶさいくなことで、面目ない。で、岩屋寺の境内にある「岩穴」の真っ暗な中に入って行って、いよいよ「名前を書いたご供養の札」に、水をかけようと・・・、あれ? 「水」はどこ?
ヒシャクはあれど、水の出どころがわからない。暗闇の中で、一人「水・水・みずー!」と右往左往。これかな、と思って何かの入れ物にヒシャクを突っ込んだら、「納め札入れ」だった。紙の音がガサゴソ。何をやってんだ、私は。
 ひとしきり、(動物園の柵の中のオオカミよろしく)うろうろうろうろを繰り返したが、とうとう観念して穴から出てきた。・・・出た所に、水桶が。
 ♪私バカよねー、おバカさんよねー、うしろ指うしろ指さされぇても〜♪ なんて歌っちゃう。(皆、遍路にはやさしいので、誰も「うしろ指」さしたり笑ったりしないだろうけど)
 結局、その水桶の水をすくって、また暗い洞穴に入り、今度は、教えられたとおり、キチンとお水をかけて出てきた。ホッ。
 でも何で「水」かけなきゃいけないんだろう? 
宗教の作法も知らないまま「お詣り」しても、効果はあるのだろうか・・・。

遍路とアマゴ

 宿に帰って、私より先に着いておられた、岐阜からの「自転車遍路のおじさん」に、これからの「難所」を教えていただいた。(彼は「おすすめコース」と言う)
やっぱり、今回登る60番横峰寺さんは、「けっこうなもの」らしい。(何がけっこうなんだ) 恐い!

 早くお風呂に入りたいなぁ、早く夕食食べたいなぁ、と思いながら部屋に入ると、もう一人の泊まり客、西宮市(兵庫県)からの女性遍路さんがおられ、話しかけてこられた。先月16日から一人で88カ所まいりをされているそうだ。5月いっぱいかけて、全部まわる予定とか。長い距離はバスに乗るけれど、あとは「歩いて」なのだそうだ。
たぶん(宿のおかあさんの話では)昭和3年生まれくらいなのに、そのお歳で、一人でとは、まったく頭が下がる。がんばってください。私もがんばります。

 夕食まで、宿の近くを散歩してみた。
前回は気がつかなかったけれど、この辺って、ものすごーーくキレイな所なんだわ。そびえ立つ緑深い山、その山あいの小さな集落。間に流れる深緑色の川。
「あー、ぜったい天然のアマゴなんかがいるぞ」って感じ。日曜日なのに、釣り人の一人もいないのはさすがだ。(なにがだ?) 
 今度、糸をたらしてみたい、と密かに思った。

門田屋の夜、再び

 宿に帰ると、「一人足りない!」と、夕食のために私を捜しに、おかあさんが出てきたところだった。(お待たせしました)
 夕食は、イサキの煮付け(アマゴではなかった)・たけのこの煮物・にゅうめん・酢の物・肉じゃが、そしてデザートは、ポンカン、甘夏、オレンジの小型みたいのといったミカンオンパレード。
 遍路3人におかあさんも加わって、ワイワイぎゃーぎゃー、酒抜き大宴会になった。私以外の遍路さん2人は、「人としゃべらない日々」が続いていたようで、人間と話すのがうれしくて仕方ないといった様子。皆で、ひとしきりディナーを楽しんだ。

 まだまだ盛り上がってる3人を残し、今回もまた一番にお風呂に入れていただき、ふかふかのお布団へ。すぐにでも眠れそうだ。

 夕方、母に電話を入れた。今日は「母の日」だったのに、何にもしてあげなくてゴメンね。でも、元気そうで安心しました。
 私も、明日からまたがんばります。

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