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掬水へんろ館

平成4年『遍路への旅立ち』
【8日目】 4月22日(水)[ 雨のち晴れ ]

 早朝、雨の音で目が覚める。外はドシャ降り、「らっきー、今日はお休みかなぁ」
 とりあえず、朝食に下りる。この旅館の泊まり客は、長期滞在の工事関係者の人が多いらしく、宿のオバサンたちと家族的会話を楽しんでいた。「今日は雨でさっぱりあかんなぁ」と、工事責任者らしき人が言うと、「大丈夫、昼にはあがるじゃろ、仕事できるできる」とオバサン。他の男性たち(客は男性しかいないようだ)も、少し雨を心配しながらも、せっせと朝ゴハンを食べて、一人また一人と出て行った。
 雨は少し小降りになってきた。こりゃダメだ、やっぱり歩けということか、と心の準備をはじめる。

玄関で正座

 西村さんの出発の時間がきた。宿のおかーさんと2人で見送りにでる。カッパに遍路傘、バックパックにもカバーがかかって、完全装備で出発される。ビールは西村さんがお接待して下さったので、彼の支払いは6300円だった。私は5700円。今までで一番高い宿だが、きのうの状態で一泊二飯させてもらえただけでも感謝、なのだ。
 「じゃあ、追いつくことはないので、もう会えないと思いますけど、どうぞお元気で。きのうは本当にありがとうございました」と手を振った。

 西村さんは行ってしまったのに、宿のおかーさんは、玄関の絨毯の上に座り込んだまま話しかけてこられる。仕方ないので、私も絨毯に正座した。 客が来るわけでもない玄関口で、外の方を向いたまま正座して話す2人。(変な感じ)
 この宿にも時々私たちのような遍路が泊まるらしく、何度も来てくれるという看護婦さん遍路の話を聞いた。「看護婦さん」というだけで、心強く感じてしまうのが不思議だが、彼女自身は、どんなことを思って「遍路」をされているのだろう。会ってみたい気もする。
 宿のおかーさんも、車でいくつか回られたようで、自分でも「遍路」をするからこんなにやさしくして下さるんだ、と納得。やはり、「遍路の気持ちは遍路が一番よくわかる」んだ・・・。

 「おかーちゃん、電話かかっとる」という手伝いのオバサンの声で、ようやく玄関口から解放されて、部屋へ戻った。そうだ、出かけるにしても、やっぱり地図が必要、と思い立ち、すぐ近くの、田舎によくある「何でも売ってんのよ」という店へ行ってみた。でもここに「遍路用の地図」なんてあるハズもなく、単なる「地図」にさえもお目にかかれず、スゴスゴ退散。ここは桑野という駅の真ん前、繁華街のハズなのに、本屋は一軒もないのだそうだ。しゃあないなぁ。その「何でも売ってる」の店で、店員のオバサンたちに道を教えていただいた。パンとジュースを買い込んで、やっぱり出かける決心をする(この時までまだ迷っていた)。
 もう雨はずいぶん小降りになっていた。

向こうに行ったら向こうにつくけん

 とうとう出発。本当なら太龍寺から曲がっていく道を、いったん通り越しているので、反対まわりの遠い道になる。ビニールガッパと自分の蒸気のお陰(?)で、下着からうわっぱりまでぐしょぐしょになって、ようやく第22番札所「平等寺」に着いた。
 雨の中の平等寺は、ナカナカ落ち着きのあるお寺だった。1番の霊山寺で買った線香がすっかりなくなっていたので、ここで線香を買う。お詣りをすませ、お茶の接待所で休ませていただいた。カッパを脱ぐと、本当にひと雨打たれたように濡れていた。まるでサウナスーツだ。(痩せたい人にはぜったいお薦めだ) 朝買ったパンとジュースで昼食、いつものことだが、かなりのんびりさせていただく。その間に宿の予約。(昨日の一件で懲りているので、今日は絶対決めておこうと思った) 次の薬王寺近くのユースホステルに電話、即OK。もう「ふたがんばり」だ。
 出かける支度が整った時には、一度ぶり返していた雨も上がっていた。平等寺を出た所で会った、どこか近くの工場へ向かうらしい、白帽子・白ユニフォームのオバサン軍団が、とても親切に道を教えて下さった。
 田んぼを抜けてテクテク歩く。雨上がりの田園風景は、とても美しい。日本はいい国だ。しばらく歩いて、久しぶりに「人」に会ったので、そのおばあちゃんに道を訊ねた。「ああ、それやったら、ずーっと向こうに行くんよ。そしたら向こうに着くけん」と教えて下さった。「?」
 とにかくお礼を言って、指さした方向へ向かう。

月夜下

 歩き遍路で楽しいことの一つに、地名を知ることがある。途中、「月夜下」というバスの停留所を見つけ、ロマンティックな気持ちになった。このあたりは、月夜の晩がことのほか美しいのかしら、それとも、月夜の晩にここで愛を誓うと、必ず「二人は結ばれる」とか、そんなイワレでもあるのかしら・・・うふふ。足が痛いのにへらへらしてしまった。自分でも気持ち悪い。

 田舎道はすぐ終わってしまい、長くてタイクツな「国道沿い」を歩きだした。コンクリはとにかく足にくる。杖に頼りきって歩くので、大師もこんな道はお辛いだろうと、申し訳なくなる。たまに、クラクションを鳴らして励まして下さる車もある。
 白い車が停まった。こんな国道沿いで、しかも交通量の多い時に、わざわざ停まって下さるなんてと、おずおず近寄ると、遍路姿の若いお兄さんだった。「薬王寺まで乗りませんか」のご厚意を、今回も丁寧にお断わりした。なんで私はこんなにイコジなんだろう。他人からみると、バカみたいだろう。でも、一度歩きはじめると、もったいなくてやめられんのだ。(何がもったいないのかは、よくわからない)

星越茶屋への伝言

 2時間ほど歩くと、星越えトンネルを越えた所に「星越え茶屋」という古びた食堂があった。歩いてきた側と道路を隔てて反対側だし、おなかもそんなに空いてないのに、その名前に妙に惹かれて、フラフラと入ってしまった。オバサンと、若いきれいな女の子の2人が、店の人らしい。客は、工事関係の人らしきオジサンが一人。 「たらいうどん」を注文して、「ちと私にはカライぞ」と思いながら食べていると、「さっきも男の人が一人で歩いてて、2時間ほどしたら女の子が来ますから、がんばってって伝えて、ってゆーてたよ。その人もたらいうどん食べてくれはった」とオバサン。おお、西村さんだ。彼もここに寄ったのね。
 それにしても、「ガンバレ」の伝言を残して下さるなんて、うれしーじゃない! よく見ると食堂の正面の壁に、遍路の「納め札」がいっぱい貼ってあった。88カ所を50回以上まわらないと持てないという「金色の札」もあった。
 ここは「歩き遍路」の立ち寄る茶屋らしい。

生まれる前からダメなのに

 そのうちオバサンが、「あの子がコーヒー入れやったわ」と、店のもう一人の彼女が入れてくれたというコーヒーを持ってきて下さった。「私、コーヒー飲めないんです」とは言えず、ありがたく合掌していただく。あんなキレイな子が入れてくれたのに、断わったりできない。女だって、美人には弱いのだ。
 でも私のコーヒー嫌いは、コーヒー大好きの母親が、「妊娠中だけは、匂いを嗅ぐのさえいやだった」という、「生まれる前からダメなのよ、悪いわね」の、年季もの。過去に何回かトライしてみたが、必ず後で胃痛に苦しむ。
 そういえば、一度よりによって「コーヒーの日」のイベントの司会を頼まれたことがあって、「私、ゼンゼン飲めないんですよ」と言ってるのに、「スポンサーにさえ黙っててくれればいいから」と、一日中、「コーヒーを飲みましょう」とマイクで叫び続けたことがあった。自分では飲まず、人に飲ませる企画だったからできたけど、なんだか、大勢の人を騙してるみたいで、申し訳なかった。こんないい加減なことしてちゃイカン。でも、こんなこと序の口で、他にももっとヒドイ仕事をしたことが・・・、あ、そんな話じゃなかった。
 えーっと、そんなわけで、少し心配したけれど、「お接待コーヒー」の威力なのか、気合いなのか、おいしいとさえ感じたし、胃も無事だった。なにより人の情けのあたたかさがしみた。(ああ、演歌の世界)
 ここでも、元気でガンバレと励まされ、生き返って出発。またひたすら国道を行く。(司馬遼太郎さんの「街道を行く」ってのはあるけど、「国道を行く」じゃ、もひとつだ)

  やがて国道を離れ由岐峠を越えてゆく道に出た、ここには「へんろマーク」が2つついていた。由岐町の方をまわって静かな道を行ってもいいよー、でもこのまま国道沿いに歩いてもいいよー、どっちでも好きにするといいのさー、という標示だ。うーん、もう少し元気なら、なるべく車の通らない自然の多い道を選ぶんだけど、それって国道沿いより5キロほど遠い。今の私に、そんな力は残っていない。
 10秒ほど迷って、やはり体力温存コースを選んだ。

涙の薬王寺

 「平等寺」を出てから5時間以上もかけて、ようやく第23番札所、私の今回の終着地「薬王寺」に到着。もう夕暮れ、「ギリギリセーフか?」(もう少し遅くなると、納経所を閉められてしまう)
 感慨ひとしお気分で階段を上がりかけると、上から、見たよーな人が下りてきた。「西村さん? どーして?」
 今日は彼もこの地泊まりなので、いったん宿に入り、家から送ってもらった寝袋なんかを取りに郵便局へ行って、2時間もすれば来るだろう私を待ってて下さったとおっしゃる。うれしいような、でも最後はひとり感動にひたりたいような、とフクザツな気持ちだったが、やはり気をきかせて下さった。西村さんは、下の納経所で待ってて下さったのだ。お陰で私はゆっくりお詣り。ここまで無事に導いて下さったこと、貴重な体験をさせていただいたことへのお礼と、みんなの幸せを祈った。
 涙が、涙が出るのよ、あーた! だいたいが泣き虫なのだが、たかだか阿波一国、23ヵ寺まわったくらいで、鼻水まで出る。山を越えた時のことや、お接待していただいたことなど、イロイロ思い出してしまって・・・。出るのよ、涙が!
 つくづく大層な人間だ。でもけっこー感動したのよねぇ、うれしかったのよねぇ、よかったのよねぇ。

 本堂でカンドーしすぎて時間をくったので、大師堂はもう閉められてしまっていた。だいたいが扉は閉めてあるものだが、線香立てにフタまでしてある。最後なのに、「お線香くらいつけさせて!」と思った私は、めげずに線香をつけて、灯ろうの上に置いた。(ころがって火事にならないように、小石を置いて止めておいた)
 もううす暗くなりかけていたので、急いで納経所へ。納経を済ませながら、待ってて下さった西村さんと、宿の話をした。彼の今夜の宿は「国民宿舎うみがめ荘」。海の真ん前だわお風呂は大きいわ食事はけっこう豪華だわで、大満足だなのだそうだ。私が「日和佐ユースホステル」だと言うと、「とても気の毒」という顔をされた。(そんなにヒドイのかしら)
 2人で宿の話をしていると、納経所のお坊さまが2人して、「うちにも宿があるよ」とおっしゃる。最近新しくしたばかりでとてもキレイだし、今日は空いてるから「ぜひお泊まり」と言って下さった。ガイドブックにはまだ載っていないので、宣伝不足なのだそうだ。私だって宿坊に泊まりたいけど、もう予約してしまった後だし、裏切るわけにはいかない。
 残念だけど、宿坊はご辞退して、感動の薬王寺を後にした。あんまり足が痛いので、西村さんとは、薬局の前でお礼を言ってお別れした。

 薬局のオジサンと協議の結果、筋肉疲労用の、のびーるシップを買ってユースに向かう。少し歩くと、もう「日和佐ユースホステル」についた。確かに古い! 美しいとは決して言えない、いや、ほとんど壊れかけてるみたい。おまけに、玄関も閉まってて、呼べど叫べど、誰も出てこられない。公衆電話も見当たらないので、ユースの真向かいにある本屋さんに入った。「すいません、この辺にデンワありませんか?」
 背が高くて細身で、メガネがやさしさとオチャメさをかもしだしてる、35才前後の店主さん(だと思う)が、「どこにかけんの?」と聞いて下さるので、「向かいのユースに泊まる予定なんですが、どなたもおられなくて」。 するとご主人、「電話してもおらへんか、しゃーないなぁ、(いや、電話はまだしとらんのだけど)ちょっと待っとき」そう言って、何度も電話したり、ユースの人の行方を探して下さったりした。「親切だ!」 それにちょっと好みのタイプだから、よけい「いい人」に見えた。やがてユースの前に車が停まり、建物に電気がついたので、「大丈夫、来てるみたいだから、行っておいで」と送り出して下さった。ありがとうございました。

日和佐ユースホステル

 ユースに行ってみると、色の黒い、「今の今まで働いてました」風のオジサンが一人。「昼間 仕事してるから遅うなった」とニッコリ。今日の泊まり客は私一人なのだそうだ。
 予約の電話の時、夕食のことをお願いしておいたが、この方が作って下さるのだろうか。「あのー、夕食は・・・」(遍路の楽しみはお風呂と食事しかないのだ。それだけが気掛かりなのだ)と、おずおず訊いてみた。「え、ごはん? 作ろうか?」とオジサン、私に両手のひらを広げて見せる。まーっくろ、見事にまーっ黒! 墨みたい! しつこいけど、度胆を抜かれるほど黒かった。
 悪いが私、けっこうな潔癖症なのだ。電車の吊り革を持てるようになったのも、ハンバーガーを手づかみで食べられるようになったのも、ごく最近なのだ。それも、周囲の非難の声に負けて、「努力して」そうなったのだ!
 でも、オジサンの手は、私の許容範囲をかるーく超えてるじゃないか! もう、夕食なんてどうでもいい。「いいです。作らなくていいです。どこかで勝手に食べてきますから!」と叫んでいた。
 双方にとって、それが最善の道だと思ったのだ。
「農業やっとるけんなぁ」とすまなそうにオジサン。(いえいえ、こちらこそすみません)

 ユースホステル全盛の頃には、かなりたくさんの人で賑わったようで、中は広いし、部屋数も多い。でも最近ではほとんどお客さんもない様子で、すっかりさびれた感じだ。息子さんは引き継いでくれないし、オジサンも農業で忙しいのだそうだ。
 結局、朝食、夕食は無しということで、素泊まり2000円にしていただいた。安い。おまけに、オジサンがゴハンを食べに連れてって下さるというではないか。これは災い転じて福・・・か?
 とにかく部屋に荷物を入れて、着替えることにした。このユースの部屋には、日本の大学の名前がついていて、私の部屋は、このユースで一番いい部屋だという、「奈良教育大学」。四畳半ほどの小さな部屋にベッドが2つ。ベッドの枕元にはマンガ本が並んでいる。テレビで見る昔の大学生の下宿屋みたいだ。「ドアは重くてなかなか閉まらない、カギもかからない」けれど、ま、眠れればいいか。シーツは新しいのをもらったので、少々布団がしめってても平気だ。
 口に入るもの以外の潔癖症は、この旅でドンドン直ってきていた。

遍路の夜遊び

 神戸を出る時に着てきた、グリーンのジャンプスーツ(遍路着以外は、これしか持っていないが、これが、軽くてかさばらなくて大正解だった)に着替えて、オジサンと外出。オジサンのテリトリーだという、ヤキトリ屋さんへ。「お遍路がヤキトリ?」、かなり抵抗はあったけれど、なにせもう、23ヵ寺。私の予定は終了なのだ。遍路旅は終わってあとは帰るだけだし、「ま、いっかー」、とオジサンに素直について行く。
 地元の人しか行きませんという雰囲気の、ママさん一人でやっておられる、赤のれんのようなヤキトリ屋さんだった。ママの名前は、漢字まで私と同じ「典子さん」。ハデさはないが、静かなやさしい人だった。
 生まれて3ヵ月というシーズー犬が、ママの足もとでじゃれていて、7人も座ればいっぱいのカウンターには、地元の顔見知りさんばかり。私たちが入っていった時も、ユースのオジサンにみんなが挨拶をしていた。そのうち、オジサンが連れて来た、見慣れない女の子(私)にも声をかけ、お酒をついで下さるようになって、あとはワイワイガヤガヤ、全員参加の宴会になった。ユースのオジサンは森さん、郵便局のNさん、建設関係の人、水道工事関係の人、いろんな人がいて、とても楽しい。話が盛り上がって、今度はみんなで「バー」へ行くことになった。日和佐で一番オシャレなクラブ(らしい)「まりも」へなだれこむ。オジサンたちが自慢するだけあって、神戸、いや大阪の高級クラブにも負けない、アカ抜けた店だった。(ママ一人だけしかいない店だったけど)
 ところが、お酒も会話もただの「添えもの」。皆で、歌を唄うのが楽しいらしい。皆でマイクの取り合いなのだ。そこで次は「カラオケBOX」へ。私は、神戸でも大阪でも行ったことのない「カラオケBOX」を、なんと、遍路で訪れた「日和佐」の町で初体験することになった。「一番広い」という部屋に通される。マジで広い。小さなバーなら2軒くらい入りそうだ。これがカラオケBOXなるものかー、とキョロキョロしてしまう。
 「BOX」という、閉鎖されたイメージがないのは、ここが特別に広い部屋だからなんだろう。これなら、店のオネーチャンにボトルのお酒を飲み干される心配もないし、知らない人の歌に拍手する手間もいらないし、騒ぎすぎて叱られることもなさそうだ。 思わぬ見聞をひろめて、得した気分だった。しかしなにより、皆さんの歌のうまいのにビックリ。全員プロ並みなんだからすごい! 昔よくカラオケ大会の司会にも行ったが、ここ「日和佐のオジサンたち」のレベルの高さには、ただひたすら感心するばかりだった。
 さっきの店で、たった3曲しかないレパートリーのうちの2曲を消化した私は、ここで残りの1曲を唄った後は、ただただ「拍手要員」としてのお役目を果たすのみだった。

 シンデレラだって帰らなきゃいけない夜中の12時、やっと解放されて、ユースに戻る。オジサンは即、ペアレントの部屋で眠られたようだ。静かになったのを見計らって、風呂場へ。(しつこいようだが、遍路にはゴハンとお風呂がイノチなのだ) お風呂の沸いてるハズもなく、シャワーはぬるくて、少し寒かったけれど、汗を流せたので、スッとした。足にべったりシップを貼って、4時間ばかりの眠りにつく。

 それにしても、たった一夜泊まりの旅人を、これほど歓待して下さって、それも、どの方もやさしくて・・。日和佐はなんてあたたかい町なんだろう。 旅の終わりに、本当によくしていただいたと、仏さま、お大師さまに感謝した。

愛する水筒

 薬王寺に着くほんの数メートル手前で、背中にぶら下げていた水筒入れのヒモが切れた。ボコッという小さな音に気づいて振り返ると、この一週間あまり、苦楽を共にしてきた「愛しの水筒」が、道にころがっていた。長いあいだ背中で揺れていたので、摩擦で、ヒモが切れてしまったのだ。私を守りつづけて、最後にとうとう力つきた、そんな感じがして、愛しくて愛しくて仕方なかった。「物」に対してこんな感覚を持ったのは初めてだ。プラスティックのちゃちな水筒が、なんで、「いとしい」にまでなるんだろう?
 ただ、この「遍路旅」で、物を大切にするという精神が、少し養われてきたのではなかろうか、と思うのだ。それとも、「旅の終わり」という状況への、単なるセンチメンタリズム、なのか・・・。

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