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掬水へんろ館

平成4年『遍路への旅立ち』
【7日目】 4月21日  (火) [ 晴れ ]

 失礼な添乗員は、昨夜の非礼を詫びるでもなく、何事もなかったように、朝、団体さんを連れて(連れられて?)出ていった。(何にも覚えてませんって感じだ)
 私も、過去にかまってはいられない。いよいよ山越えなのだ。「根性入れて歩きましょ」と元気に宿坊を出発した。

同業者 現る

 でも私の元気は2時間くらいでいったんダメになる。ダメになってヘロヘロ歩いているところへ、うしろから「こんにちわ」と、大きな声がかかった。あたしゃヨレヨレなんや、誰や、えらい元気な人やなあと振り返ると、同業者(遍路)だった。
 大きなバックパックを背負った、ひとり歩き遍路のお兄さん。追いこして行くものと思っていたのに、ヨロヨロしてる私がよっぽど憐れだったらしく、一緒に歩いて下さることになった。
 かねがね、他人と歩くと気を使うし、自分のペースもくずれて疲れるからヤだ、と思っていたのに、疲れきっている時にはかえって気がまぎれるようで、話に夢中で、いつもより楽に山を登れたようだ。

 この人は東京から来ている西村さんという人で、私より一日遅く歩きはじめたのだそうだ。「まさか前を歩いてる人に追いつくとは思わなかった」だって。私ってやっぱりカメなのね。
 20年勤めた旅行会社をやめて、とりあえず40日ほど、この旅をするとおっしゃる。けっこうおしゃべりな方で、会社の話、山の話、友人の話を次々聞かせて下さった。でも話し相手がいたのは、私にとっても励みになったようだ。それに西村さん、女の子を連れて山へ登るのに慣れてるらしく、何かと気を使いながら、スローペースで登って下さる。私がお地蔵さまごとに止まって手を合わせている間もじっと待ってて下さった。

冷や汗

 昼頃、第20番札所「鶴林寺」に到着。焼山寺の坂を思えば何でもない。次も山越えなのでいったんここに泊まってもいいのだが、あまりにも早くてもったいない。次の21番までは歩けるだろう。ゆっくりゴハンを食べたり、写真を撮りにきてる遍路おじいさんのモデルになって遊んでいるうちに、西村さんも、座禅をすませて食事を終えられたので、また一緒に歩くことにした。でも、とりあえず宿の予約を・・・、あれ? 次の21番「太龍寺」には宿坊はなかったんだ、忘れてた、イカンイカン。しかし21番のふもとに、宿が2軒ある。電話した。
 1軒目坂口屋。「すいません、今日はいっぱいなんですよ。龍山荘さんダメかしら、電話してみましょうか、え、知ってる? それじゃ聞いてみて下さいね、ホントにごめんなさいねェ」 びっくり、断わられちゃった。でも大丈夫、もう一軒ある。気を取り直して、2軒目 龍山荘。「あらー、今日はいっぱいなんですよぉ、ごめんなさい。坂口さんとこどうかしら。あらダメだったの、まあ、ごめんなさい」・・・ちょっと冷や汗。でも、宿がたった2軒しかないってことないだろう、なんぼなんでも。納経所へ行って聞いてみる。
「坂口さんも龍山荘さんも空いてなかった? うーん、ほんなら無いなあ」「え、他に一軒も無いんですか、何にも?」「ないなあ」・・・だいぶ冷や汗。「もういっぺん電話してみ」と言われたけれど、あれだけ丁寧に断わられたのに、もうでけへん!
「あとはもう、うちに泊まるか、やね」と鶴林寺のお坊さまは言って下さったけれど、夜には天気も崩れそうだし、今前へ進んでおかないと辛い。ここで、いつもの「なんとかなるやろー病」がでて、やっぱり行くことにした。西村さんは、「他にお客さんがいないから、お休みにするんじゃない? 行ってみたら、きっと女の子一人追い返したりしないよ、泊めてくれるよ、きっと」と言って下さったが、「うーん、でも一度拒否されたところは、縁がなかったのだ、そこには泊まりたくない!」と心の中で思っていた。

女はトク

 「どこもなかったら、太龍寺のお堂の中に入りこんで眠りたいなあ」 前へ進むごとにそう思った。
 アスファルトも辛いが、山もやっぱり辛い。足も痛く、太龍寺の最後の登りは、かなりこたえた。車で回る遍路も、この太龍寺は、自分の足で、急な坂を登り切らなければならない。(今はロープウェイができている) そうやって少しでも歩くと、「歩き遍路」の辛さがわかるらしく、山から出てきた私たちを見て、口々にエライエライとほめて下さった。同じように歩いていても、ほめられるのは私の方ばかり。「やっぱり女の子はトクだなあ」西村さんが、「誰もボクをほめてくれない」とひがまれるので、私がほめてあげた。
「エライぞ、西村さん!」

 第21番札所「太龍寺」に登ると、遥か向こうの山に、今出てきた鶴林寺が見える。その遠い遠い小さな屋根を見て気が遠くなりそうだった。「目の前の2つ半の山を、もう一度越えさせる」、なんて言われたら、何でも白状しそうだ。ほんとによくがんばったんだ、私たち。

 山門を入ってからも、まだ本堂まで急階段が続いており、「ちょっとやそっとじゃ、お詣りさせてあげない」と言われているようだった。それだけに、とても有り難みがあり、お詣りにも熱が入る。
 足はもうダメだし、やっぱり、なんとかここに泊まりたいと思って、山門で寝てもいいかと、納経所で聞いてみたら、あっさり「拒否」された。それでも「泊まる所がない!」と泣きつくと、旅館を2つ紹介して下さった。それは坂口屋や龍山荘よりまだ遠く、22番寺に近い所にあるらしい。(坂口や龍山でさえ、ここから3.5キロもあるのよ!)
「ひえーん、ひえーん」 ・・・泣いてもしゃーない。とにかく電話だ。
 まず一つ目のエモト。「あらー、いっぱいなんです」・・・再び冷や汗。これは真剣にヤバイかもしれない。ダイヤルする指がわなわなしてきた。最後の頼みの綱、2つ目の清水屋。「ひとりですか?」「はい」「・・・・・」この間(ま)がこわい。祈った。「ああ、お大師さま!」 祈りは通じた! 「ええ、いいですよ。お待ちしてますから、どうぞ」 「よかったー、よかったー、よかったー!」 躍り出しそうだった。
 受話器を置くと、奥から若いお坊さんの声、「とれましたか?」(心配して下さってたようだ)「どうなの?」とかわいい顔が聞いていたので、「なんとか泊めていただけるようです、ありがとうございました」と答えた。「よかったですね」と他人事ながらホッとしたという表情、さすがお坊さんだ。 で、「その旅館、遠いですか?」と聞くと、困ったような顔をしておっしゃった。「かなり遠いです」
 ・・・まためまいが。

長い道

 すっかり力の抜けた足をひきずり、待ってて下さった西村さんに報告、また一緒に歩て下さることになった。
 太龍寺から3.5キロほど下ると、坂口屋と龍山荘が見えた。かなり大きな宿だ。でっかい観光バスが何台も停まっている。やはり「満室」なのだ。お休みするから泊めないんじゃないか、なんて疑ってごめんなさい。それからも、何台も何台も、マイクロバスやタクシーに乗った遍路たちとすれ違う。あとで気づいたことだが、今日は21日、「弘法大師の日」だったのだ。(皆がお詣りに来る日なのだ)
 それにしても、まだ歩くんだろうか、今日は山を2つも越えた、途中何度も石ころにつまずいてヨロけたから、余分な力も使っている、「私は疲れてるんだぞー、もうイヤだー」 と、叫ぶだけでも叫びたかったが、同行者が大師だけじゃないから、あまり弱音は吐けない。でも、西村さんがいなかったら、本当に泣き出していたかもしれない。(西村さんも、私のあとすぐに電話を入れて、同じ宿に泊まることになった)

 夕暮れになっても、まだ歩いていた。暗くなりかけた頃、チャリンコに乗ったおねえさんに道を聞いたら、申し訳なさそうに、遥か向こうの灯りを指さして「まだもうちょっとかかりますねえ」と教えて下さった。ああ、試練の日。

 どっぷり暗くなった頃、ようやく「清水旅館」にたどり着いた。今日は12時間も歩いたのだった。もうダメ。
 ヨレヨレのキタナイお遍路2人。きっと旅館の人、ヤな顔するだろーなぁと思っていたのに、迎えてくれたオバサンは、「大変だったでしょう」と、それはやさしいねぎらいの言葉をかけ、わざわざ私たちの杖を洗っても下さった。でも、部屋が2階ときいてくじけそうになる。そして、急階段を這うように上がって案内された部屋は、・・・かなり年季が入っていた。
 なにを贅沢な、泊めていただけるだけでも有り難いのだ。おなかは空いてる、足は超イタイで、ご飯とお風呂がやっと。他のことは何もできず、筋肉スプレーを大量に噴射して眠る。

ご褒美の味

 今日一日で、37キロも歩いた。(神戸じゃ2キロも歩けない私が!) しかも、500メートルの山を2つも越えたので、1000メートルの山を登ったことになる、と西村さんがおっしゃった。よくわからんけど、がんばったんだ、私たち。あんまりよくがんばったので、その労をねぎらい、食事の時、2人してビールを飲んだ。せめて遍路の間は、飲まずにいよう、と漠然と思っていたが、「こんなにがんばったんだし、そんなに大層に、『これはイカン』とか考えなくてもいいじゃん」という西村さんの甘い誘惑に負けて(人のせいにしてはそれこそ『イカン』か?)、とにかくエラかったから、ごほうびごほうび、と乾杯した。でも、あまり美味しくなかった。
 まだ私の旅は終わっていない。「おいしい」と思えるのは、もっと後なのかな。うまく言えないけど、今あまり、「満足感」を味わいたくないのかもしれない・・・。

 足が痛い、肩も痛い。明日、歩けるのだろうか。ドシャ降りだったら、一日ここで過ごそう、そうしよう。

 「さぼりたい病」の発病を感じる。

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