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掬水へんろ館のらくら遍路日記〜伊予(後)・讃岐/完結編篇
北村 香織
第2日
8月4日(土)晴れ (北条〜56番泰山寺)

 4時起床。なんだかんだして結局5時15分頃にYHを出た。宣言通りオーナーはまだお休み中だったけど、お手伝いのおばちゃんときょんが玄関口でお見送りしてくれた。なんだかすごい霧で、ものすごい気だるさ。これが凪なのね。海も空もにび色で、なにもかもが停滞している。

 鎌大師までやって来ると、どうしても昨日のお礼を一言申し上げたくてお堂に行ってみる。妙絹さんはお勤め中。細いけれどしっかりとしたお声でお経を上げておられる。背後でお礼と妙絹さんのお幸せを心の中で念じて、境内を散策。お勤めが終わったところで、簡単なご挨拶だけさせていただいた。ザックを背負って歩き出そうかという時に、お勤めに参加されていたご婦人の一人がお財布を取り出し、メモ用紙に千円札を包んで差し出された。<いえ、そんなにたくさん結構です…>という私に、そのご婦人は「お接待なんだから受け取らなダメ」と決して強引ではなく、でも毅然として差し出され、私は合掌していただいた。歩き出す私を、また妙絹さんがうつくしい合掌でお見送りくださる。ご婦人お二人も合掌され、数歩歩いて振り返った私をまだそのままの姿勢で3人とも静かに、そしてまっすぐに…。胸がつまって眼の端がうるうるきて、慌てて私は前を向き、もう振り返らず歩んだ。朝日がすっかり顔を出し、今日も暑くなりそうだ。国道に出るまでもジリジリ暑さがしみてきていたが、でも遥か向こうに白く照りかえる海、頭上には蝉の大合唱で気分よく蜜柑畑の小山を下る。大合唱が何となく遠くで朗々と響く読経の声のようにも感じられる。

 国道196号線に出てしばらく行くと、また海沿いに出て左にずーっと青緑の海が続く。浅海の線路脇で、道路を渡ってきた手押し車のおばあにお接待をいただく。がま口を開けて、ありったけの小銭(167円)を私の左手に乗せてくれた。前回と同じく、細かいお金は気になる道端の野仏さんや祠に納めさせていただく。こんな“気になる”直感もご縁。お接待いただくものは、言葉は悪いかもしれないけど「天下の回りもの」。そういう見えないご縁に託してもいいのだと思う。戴いたお心さえしっかりと自分の中に刻めるなら―――。これは寄書きのマツさんに会って以来思うようになったこと。だから海を見ながらの休憩中に桃売りのおじさんに戴いた桃は、結果的に遍照院のご本尊様にお供えさせていただいた。すごく香りがよくて、ずっと手に持って時折嗅いでは胸いっぱいに甘さを味わい(それだけでも元気をいただいた嬉しいお接待)、でも「どうしても自分が食べたい」とは思えないまま歩いていた。どなたか地元民でもお遍路さんでも欲しい方があれば、と思っていたのだがその機会もなく、売店のおばあに言うと本堂にとのこと。野宿やお参りの方にお役に立てるのなら、その方がいいかと思って。そのおばあには牛乳をお接待いただいて、少しお話もした。菊間瓦のこととか凪の話とか。お礼を言って横の門から出ようとすると、傍らに碑があった。思わず眼が釘付けになる。「ひたすらに生き 雨の日も 風の日も」 蚊なんとかと言う人のことばだと思うけど、達筆すぎて読めなかった。でもこのことばは、今の私にそれこそ岩に染み入る清水のように、じわっとゆっくり滴り落ちてきた。そうだ、生きなきゃ、雨の日も 風の日も。実習先の病院でお会いしている患者さんAさんとBさんのことを想う。しんどくても、理不尽な人生でも、生きなくちゃ。

 菊間の街中に入って海が遠くなると、歩きながら眠たくてしょうがない感覚に陥った。結局2夜連続平均睡眠時間が4時間ぐらいなんだから当然か。朝ご飯も大して食べていないし、喫茶店でブランチ兼休憩する。最初は冷房が気持ちよかったのだが、段々寒く感じてしまった。でも炎天下を歩き出すと、またすぐクーラーにあたりたくなる…。

 大西町に入ってからもアスファルトの道が続き、うんざり〜となる。古い街道に入って涼しげな大木が塀の向こうに聳えていたのに惹かれ、ふらふらと入って休憩。うらびれた社跡か何か? 家に電話して気を紛らせる。54番延命寺へは1時半ぐらいに到着。どこかいい宿はないかとお茶をいただいた売店のおっちゃん・おばちゃんに聞いてみると、56番泰山寺に通夜堂があるという。妙絹さんが私の前にYHを紹介したという14歳の男の子が、きのうここで同じことを聞いたので教えてあげたとはおばちゃんの言。私もこのご縁を頼ろうと思う。14歳君とは丸まる1日の差が縮まらないみたい。まるで私は彼の影のようにずーっと同じ距離を毎日追っているんだ…。どこかで会いたいな。さっきの店のみんなが口々に教えてくれた道を意気揚々と歩む。が、どこでどう間違えたのか、なんかおかしい。高速道路の下に出てしまった。あちゃー。14歳君も3回戻ってきて店の人に聞いたって言ってたな…。戻る勇気もなくとりあえず進むと、高速道路の高架下で車中でくつろぐおっちゃんを発見。聞くと、車道コースになるけど何とかわかった。が、が、暑さにやられているのか、以降車道を歩く足が思うように進まない。ちょっと遠回りになっても55番へは4kmやそこらなのに異様に遠い…。体温がすっかり上がって茹ダコ状態。今治の中心部の果物屋さんで本気でスイカを買おうと思ったりもしたが、ひとりで半分も無理だし、もうお寺も近いはずなので我慢。

 やーっと55番南光坊に到着ー! あれ、何かくらくらするぞ?ちょっとまずい? もうお参りもそこそこに納経してもらい、住職さんに宿坊のことをさり気なく聞いてみた。「あ、そう」とアッサリした返事だけいただいて、だめだこりゃ。大師堂のベンチに、格好悪いけどダラ〜ッと横になってしばし休憩。こうなったら泰山寺まで行かないと。でもこの調子であと1時間以内に着けるんだろうか。やはり寝不足が原因?はっきりいってかなり不安…。と、お寺の人なのか掃除のおっちゃんが声をかけてくれ、喋っているとチャリンコのおじいが現れた。掃除のおっちゃんとも顔見知りの様子で、私達にアズキバーのお接待。前かごに入れたクーラーボックスから出てきたので、すでに溶けかけており急いで必死に食べたのに、最後はアイスの方から力尽きて地面に落ちて行ってしまった。すかさずおじいはもう1本取り出し、私にくれる。辞退したが、結局また必死で食べることになった。おじいが「自転車に乗っけて送ってやる」と言ってくれ、うれしかったが、折角ここまで歩いてきたのでこれは辞退申し上げた。<さっきお大師さんに、もう少しだけ歩かせて下さいって頼んだとこやから>「だからワシが来たのかもしれんぞ?乗ってけって。自転車ぐらい乗ったって構わん」 いい加減腰を上げないと納経時間までに間に合わない。皆さんに挨拶してUP。するとおじいがチャリで追ってきて、私に追いつくとチャリを押して歩き始めた。<えーなんで?!> このお接待が趣味で朝から夕方まで今治の札所を回っているおじいは、歩くことに頑固な私をどうしても先導してくれるつもりらしい。また手品のように扇子を取り出し、渡してくれた。貸してくれたものと思い込んでいたら、これもお接待品だった。もうびっくり。おじい(以下センドウさんとする)は結構ごーいん’ぐ(強引そしてGoing my way)なおじいで、話を聞いてるのか無視してるのか、気の向いた質問には答えてくれるのだが、あとは自分主導で会話を推し進めて行く。でもお陰で体調も気にならず、あっという間に泰山寺に着いたような錯覚さえする。5時15分前に到着し、通夜堂に泊めていただけることに。実はセンドウさんは1kmほど手前で私に「先に行っちょけ、後で追いつく」と言ってチャリで消え、私がお参りしているところに再登場。それがなんとマグロとトロの上にぎりパックのお接待。歩きながら今夜の食事を心配した私が、センドウさんに門前に何かあるか聞いたから…。そんな素振りを毛ほども見せないこの振る舞い。ものすごく有り難かったのだが、この時は<やってくれるやんセンドウさん!カッコイイー>と思わず唸ってしまった。これもセンドウ・キャラゆえか?

 さて通夜堂は、きれいなトイレの隣の扉。2段ベッドがあってちょっと圧迫感のある空間に小窓がひとつ。すごい蒸し暑さで、正直眠れるか不安…。いやいや、雨風(そんな気配むしろ欲しいくらいだけど。)凌げてしかもベッド!ありがたく一晩お世話にならないと。お寺の奥さんから近くに温泉があると聞いたので、ゴムサンダルをお借りして出かける。ところが―――。歩いても歩いても歩いても全然それらしきものが見えない。泰山寺に着いた瞬間から足がカクカクだったのを、一所懸命両足をなだめすかして歩いてるのに、何処なのー。不安になって聞いた方角へ路地を入ったりしているうちに見えた。最後の気力を振り絞ってからもかなりあった気がするが、清正乃湯とうちゃく〜。今冷静になって考えても1.5kmはあったと思う。この温泉はプールも併設のかなり大きなところで、食堂などの設備も完備。お遍路さんグッズなどを身につけていれば、受付の人に言うと「お遍路さん割引」でなんと半額250円で入浴できる。車のお遍路さんもけっこう来ている様子でオススメです。(場所は遍路地図の龍泉寺を曲がらずにずっとまっすぐ行けば、そのうち右手に看板が見えます。)

 水泳教室等の関係もあって送迎バスが各地区へ出ているらしい。折角サッパリしたのに汗だくで帰るのは嫌だったので聞いてみると、30分後の便がOKとのこと。ロッカーで隣になったおばちゃんに石鹸と洗顔剤をお接待でいただいて(今回の旅での外湯はみんな石鹸、シャンプー持ち込みonlyでした。いいシステムだけど、遍路中は痛い)、いつもよりは早めに上がる。バスは水泳帰りの子どもたちでいっぱいだった。ご褒美なのか、ほとんど全員が同じスナック菓子を食べている。運ちゃんに泰山寺前で降ろしてもらえるよう念のため言っておいたが、近くになってもスピードが緩まず、道が広めの所までかな?と思って様子を見ていると、お寺を通り越してもさらに停まる気配がない。慌てて運ちゃんに言うと「忘れてた」んだそうだ。結局200mほど歩いて戻った。このぐらいは歩けってことだったのかも。

 陽が落ちてその残照が山の端に残る頃になると暑さも少しやわらぎ、納経所のお軸乾かし台で夕ご飯。豪勢すぎる、いいんだろうか。センドウさん有り難くいただきます。野球部か何かの合宿なのかお兄ちゃん達が十数人到着し、挨拶など交わして宿坊(と思う)に入っていく。昼前にクロワッサンサンドを食べたきりなので、食欲も出てきた。が、食べきれず、半分はどうしても口に入らなくて、とりあえずいただいた氷水でパックを固めておく。今夜こそは早く寝よう。とベッドに転がってみるも、あまりの暑さにサウナ状態。部屋の扉全開でもベッドの上は特に暑くて、しかたなく外で涼むが、ふと<そうだ、センドウさんに戴いた扇子であおごう>と荷物を探る。が、ない…。どこにも見当たらない。うっそー、どっかで落とした? どこでなくしたのか見当もつかない。ここ泰山寺は山門もなく、境内も必要なお堂と建物の他は松の木?が真ん中にあるだけで、あとはきれいサッパリ視界良好。くまなく探してみたがどこにも見当たらず、どことなくグランドを思わせるような地面に思わずしゃがみこんでしまった。以前お不動さんから戴いた石笛をお守りに持ってきており、月あかりの下で吹いてみるが、またこれが息の音が虚しく響くだけ。絶句……。<お大師さーん>思わず立像に泣きつくも、立像の大師も黙ってじっと厳しい眼で見下ろすだけだ。暇つぶしに電話でもしようにも携帯のバッテリが切れかけており、コンセントがないので充電もできない。明日はまたお不動さんに連絡を入れる手筈になっているので、電源を切って少しでも温存させないと…。通夜堂もトイレにも明かりもなく、地図すら読めないので、とりあえず宿坊の入口のベンチにいると、入口がうっすらと開いている。覗いてみると正面に自販機とソファがあるじゃーないですか…。そこには電気もあり、覗いた隙間の部分だけ冷房の涼しい空気が鼻をくすぐる。つい≪せめて門限、いや10分でもいいからソファでいさせてもらえへんやろか≫と思い、入口を開けて一歩踏み入れた瞬間。夕方ここのお嬢ちゃんと散歩していた小犬が凄まじい声をあげた。慌てて玄関を出るとピタッと鳴きやむ。賢すぎる…。何だかとってもやましいことをした気分になって、すっかり落ち込み、途方に暮れて下の神社の入口の外灯の下で侘びしく遍路地図をながめて過ごした。<今夜は徹底的に修行せぇっちゅーことね。> でもいつまでもここにいる訳にもいかず、とうとう腹を決めてベッドに戻り、横になった。無理に眠ろうとせず、ダメならそれでもいいさ。そうあるがままに…。そう思ったら、いつのまにか眠りに落ちていった。

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