掬水へんろ館目次前日翌日著者紹介
掬水へんろ館のらくら遍路日記〜土佐・修行道場篇 (本篇T)
北村 香織
「おわりに」にかえて

こうして私の遍路の旅土佐本篇第1弾は、怪我もなく、こころも身体も自然に立ち返らせてもらって終えることができました。改めてこの日記を読み返すと、また四国で様々なことを学び、考え、感じたなぁ…と、今現在の超多忙な日常にある自分を一瞬忘れて気持ちが和らぐ気がします。

実はこの文章はなんと2000年も暮れようかという年の瀬になって書いています。何人かの先達の方には、この日記を根気強くお待ちいただいているというメッセージも頂き、とても励みに且つ嬉しく思いつつ、ちょこちょこ書き溜めてはおりましたが、ここまで遅れるとはさすがに自分でも情けなく、待って下さっていた方々には申し訳なく思っています。

こうして延び延びにしている間に1つ残念な話が耳に入ってきました。詳しいことは申し上げられませんが、お遍路さんたちのモラルに関することです。私自身えらそうに言える問題ではありませんが、以下に私の考えを簡単に述べさせていただき、今回の日記を締めたいと思います。


このところマナーの悪いお遍路さんの話をよく耳にします。宿の予約に関する常識の無さとか、言い方は悪いけど"タダなこと"に異様に敏感で、善根宿や地元の方の好意に"たかる"ような感じの遍路とか。私も今回はテント野宿も経験したので、"タダなこと"はもちろん有難かったし、実際とても助かりました。そしてこのような現象自体は今に始まったことではないと思うのです。実際、巡礼とは聖俗背中合わせなもので、殊に四国遍路の場合、江戸後期あたり頃から戦前までは俗>聖という図式が一般的な見方だったという歴史があります。

しかし、最近のお遍路さんモラル事情に関しては、確かに何か今までの現象とは違う気がします。以前はモラルの無い遍路というのは少数派で、ぱっと何となく雰囲気で分かるような感じだったのが、今はどうも区別がつきにくいと言おうか、私の印象では、もともと日常の世界で常識やモラルの欠けた人が、そのまんまの姿勢で非日常の世界をまわっている、という感じです。つまり四国をまわっているうちに、だんだん日常の自分から無意識のうちに脱皮していく(時間軸的にも空間軸的にも次元の深い旅)…というのが一般的だとすると、その人たちは日常の自分のまま、ただ場所が四国というだけのきわめて浅い旅をしているということが言えると思います。もちろんそれが悪いとか良いとかではなく、それは旅をする人それぞれの考えや好みによります。でも、私が危惧するのはこうした現象が実際のところ与える影響です。現実に、ずっとお接待をしていた方が最近の遍路のあまりのふるまいにお接待をやめてしまったり、遍路宿でもそのようなことから宿を閉めてしまったりするところがあります。善根宿をされている方々も好意からとはいえ、実際毎日毎日何人もの遍路に食事や水や電気や気持ちを振る舞うのは、経済的にも精神的にもとても大変なことです。それでも続けておられるのは、きっとその中に心から感謝してくれる遍路さんがいるからではないでしょうか。

私は遍路によるこころの変容について研究していますが、その変容を促す大きな柱のひとつが地元の人々のお接待だと考えています。こんな(受け手送り手の)双方の心の交流がこの現代には特に絶対に必要なことであるのに、自分のことしか考えない一部の遍路によって、1000年以上も連綿と続いてきたお接待が今、大袈裟じゃなく危機に瀕しつつあると思います。この問題をどうしたらいいのか。とてもひとりやふたりで何とかできる問題ではありません。今、私にできることは、このように問題を提起して、読んで下さった方ひとりひとりにこの問題を考えていただく以外にないと思います。もちろん私自身にもこれは新たな課題として、今後も考えていきたいと思います。また何か思うことが出てきたら、この日記の続きで取り上げるつもりです。


のらくら遍路日記〜土佐・修行道場篇(本篇T) おわり。

四国遍路目次前日翌日著者紹介