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掬水へんろ館雨遍路コウシン

《蛍》

 食事を終えた。軽い酔いが心地よい。雨はまだ降り続いている。外に出てみたくなった。テントから這い出て、濡れたクツを素足にはき、ユッタリと歩み、戸を引いた。
 納屋の明かりが道路を射し雨粒が光って見えた。戸口にある蛍光灯のスイッチを切って外に出る。気持ちがいい。雨に濡れるが気にならない。車の往来は、いくらか減ったものの、相変わらず絶えない。
 そこにたたずみながら、今日一日の遍路を思い返した。平等寺横の食堂で食べたうどんのあたたかさ。国道55号に向かう山中の道に大きな池があったこと。なんとなく不気味に感じたけれど、カモのようなガチョウのような水鳥が一羽泳いでいて思わず笑ってしまったこと。国道を歩いていた時の苦しさと嫌悪感。そして・・・・・
 その時である。私は、目の先の中空、道路の向かい側のガードレールの上のあたりに、ポツンと光の点があることに気がついた。
 「なんだろう。」
 光は動かない。2秒3秒。
 「一体あの光はなんだろう。」
 私はまだ分からなかった。
 すると、光は右方向にスーッと一直線に動くではないか。
 「蛍だ・・・。」
 私はようやくその光が蛍であることに気がついた。その瞬間あたりが静まりかえったように感じられた。蛍は3メートル程ガードレールの上を移動すると、今度は道路の中央に向かって来たが、力が尽きたように次第に雨に濡れる路面に降りて光を消した。どうしたのだろうか。あの光の明るさは最期の命の輝きだったのか。
 「車が来るぞ。早く飛びたて。」
 私は心の中で路面の見えない蛍にそう声をかけた。すると、思いが届いたのかまた蛍は光となって飛び立った。
 「よかった。」
 喜んでいると、なんと蛍は私の方へ飛んでくるではないか。道路を横切り、そして今度は私の右手前方から左へスーッと通るではないか。それはまるで私を見るように、いや私に見てもらうようにと言うべきだろうか。蛍は私の前を飛んでいる。

 「そのようなことはない。」
 思ったそばから私は否定した。否定していながら、何かが私を支配していることを感じていた。その光は妙光。妙光という言葉と共にその姿を私は思い浮かべていた。
 蛍は私の前を過ぎると、納屋の裏にある林に向かって次第に高度を上げていった。私は蛍を見失わないように顔を向けながら、静かに身体の向きを変えた。やがて、蛍は木々のいただきに上がり、そして光を消した。その後は、もう輝くことはなかった。
 そんなことはない。妙光などと馬鹿げている。少し酔っていたので安っぽい感傷が私を支配しただけではないか。道路の向こう側は、その下に水田が広がっている。そこに蛍がいても不思議ではないだろう。車がその時に途絶えたのは偶然でしかない。回りの音が聞こえなくなり静寂が支配していたように感じられたのも、酔いと疲れでボーッとしていたからにちがいない。私は自分を徹底的に否定しながら、逃れるようにして納屋へ入った。寝袋にもぐりこみ、無理して目を閉じた。眠れないのはいつものことだ。今夜に限ったことではない。
 屋根のトタンが雨に打たれ音をたてている。車のライトが納屋の隙間から射してきてテントの中を明るくする。すぐに車の騒音が近づき一瞬大きくなり消えて行く。また、蛍のことを考えはじめた。そして、また打ち消した。
 雨音、車のライトと騒音、そして蛍のこと。それらは、くり返しくり返し私を襲い、悩ませ支配し、そして眠れぬ夜が明けた。
 次の日も雨だった。起きるとすぐにテントを撤収し、荷物をまとめる。ゴザとムシロを丁寧にたたみ、その上に納札を置いた。
 「ありがとうございました。ご親切は決して忘れません。」
 そう書いた。
 菅笠をかぶり、リュックを背負い、今まで使わなかったポンッチョをまとい、そして金剛杖を手にして納屋の戸を閉めた。
 道路に出てお接待をして下さった方の家はどこなのだろうと見まわしたがそれらしき家は見えない。四、五歩昨日来た道をもどってみた。すると、納屋の斜め後方200メートルほど先の高台に、山を背にした大きな農家があった。あの家だろう。それにしてもけっこう離れている。おバアさんはそこを2度も私のために、それも雨の中を往復してくれたのか。感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。道路に立ち、手を合わせ深く頭をさげお礼とお別れの挨拶をした。

 薬王寺までおよそ10キロの道程と昨日おバアさんが言っていた。とすれば、2時間ほどで到着するだろうと見当をつけて歩いた。
 歩き始めると、すぐにまた昨夜の蛍のことを考え始めていた。考えまい、思うまいとしても、どうしても頭を離れない。
 あの蛍は一体何であったのだろうか。本当にそのようなことがあるものなのだろうか。昨夜からの同じことのくり返しをまた始めていた。一人芝居の滑稽さと分かりながらも、それは続いた。
 国道はすぐに右に大きくカーブを描いていた。その道に沿って視線を移動させるとその先は急峻な山襞の端まで延びて、裏へと続いているようだ。右側を流れている川はいつしか谷底深くにその川幅を大きくしていた。
 やがて、ドライブインが増えてきた。人家も見えてきた。同じ雨の国道を歩いているのに早朝の道はこんなにも印象がちがうものなのか。昨夕のあの淋しく、そして嫌な思いが嘘のようだ。ブレードランナーだとかエイリアンなどと訳の分からない、大げさなことを考えたが、今更ながら恥ずかしい。
 道の左側に切り立っていた山裾が、次第に平地へと降り始め左前方が開けると、水田の広がりと共に遠くに人家がたくさん見えてきた。
 日和佐の町だ。

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