掬水へんろ館体験的・遍路百科談話室メール
掬水へんろ館お接待 (おせったい)

「お接待」とは

遍路をしている人に地元の方々が食べ物やお賽銭を差し出します。これを「お接待」と言います。昔の遍路は何十日もかかって、自動販売機も何もないところを歩きつづけたわけですから、遍路にとっては大変ありがたい風習だったのだと思います。遍路は、こうしたお接待を受けたら、断ってはいけないことになっているそうです。

一般社会で企業が顧客に対して行う、いわゆる「接待」には何らかの見返りの期待がこめられているわけですが、四国遍路における「お接待」は基本的に無償の行為です。

現代に残る「お接待」

実際に歩いて四国遍路をしてみて一番驚くことは、この「お接待」という風習が、現代も生き残っているということです。白装束に身を包み、あるいは金剛杖を手にして「お遍路」として四国を歩くと、行く先々で様々なお接待を受けます。僕も何度か、果物やお菓子やお賽銭の接待を受けました。このように、道すがら偶然出会った方からうけるお接待もあれば、「善根宿」といって、自分の家に遍路を泊めて食事を供するというかたちもあります。また休憩や宿泊のための接待所を設けておられる方もあります。

現代的な感覚でとらえると、何のつきあいもない、何の利害関係もない他人から、何かをもらったり、泊めてもらったりというのは、日常考えられないことです。それも、ちょっとしたお菓子とか、余った果物などというならまだ理解の範囲内ですが、時には「現金」を差し出されます。初めは驚き、戸惑いますが、それが四国の風習なのですから、素直に受けるのが自然な姿勢だと思います。

岡豊接待所
岡豊接待所

右の写真は、高知県の石材店の社長さんが建てた接待所です。社長さんは、「この接待所はお遍路さんのために建てたのではない。お遍路さんにお接待するということを自分の修行として実行している。だから自分のためなのだ」とおっしゃっています。

僕が初めてお接待に接したのは、10番切幡寺から11番藤井寺に向かう途中でした。道に迷ってしまい、農家の庭先にいたおばあさんに尋ねると、道を教えてくれたあとで「お茶でもあがって行きなさい」といいます。僕は道に迷ってあせっていたので「あ、いや結構です」と断りました。そうするとおばあさんは「じゃ、米を持っていくか。それともゼニの方がええか」と言ったのです。「お接待」というものについてのある程度の知識はありましたが、そのときの僕の反射的な思考は「僕は乞食じゃない」。動転した僕は、逃げるようにその場をあとにしてしまったのです。どうしてあそこで、縁側にかけてお茶の一杯も頂いて来なかったのか、今思っても悔いの残る行動でした。

ところで、お接待をして下さるのは高齢の女性が多いようです。今、「お接待」を自然な行為としている世代の方々が高齢化していくにつれて、しだいに廃れていくのかもしれません。

「お接待」の二重の意味

行き暮れた旅人や、きつい修行に取り組む人に対して「援助」をする、「支援」をするというのは、人間同士が助け合うという基本的な姿のように思えます。しかし、「遍路」というものの歴史的な経緯を調べてみると、「お接待」には二重の意味があるようです。

一つは、「弱者」に対する支援であって、言ってみれば助け合いの延長にある「施し」です。もう一つは、「自分自身の代わりにお大師様にお参りしてほしい」という意味での賽銭の寄託です。また、苦難の道を歩んで来訪する遍路は弘法大師の化身とも解釈されるため、上の二つの気持ちの混じり合った形として、弘法大師へのお布施として差し出すという意味づけもあるように感じます。

現在でも、自己資金ゼロで、お接待や托鉢のみに頼って四国を歩き続けている遍路もあります。しかし、歩き遍路と言っても、あらかじめ旅行資金を貯め、電車や飛行機などで四国に乗り込み、毎晩数千円の宿に泊まりながら歩く僕のようなサラリーマン遍路は、経済的な面ではお接待に支えられているわけではありません。食べ物にせよ、現金にせよ、僕たちはそれを自分が頂いたのではなく、「お大師様」という信仰の対象に対する、また、四国を歩く多くの様々な遍路たち全体に対する「お接待」として受け止めるべきだと思います。

自分が必要としないものであっても、断ってはなりません。それは、「お接待」をしようとする方の信仰に対して失礼な行為というべきです。

「お接待」を受けたら

お接待を頂いたら合掌して「南無大師遍照金剛」を3回唱え、自分の納札を1枚差し上げます。これがとっさになかなか出来ないものです。納札は、札所に納めるもの以外に多少の余分をもって、取り出し易いところに入れておく必要があります。

「お接待」とは無償の行為で、本来、代金を払う筋合いのものではありません。しかし、善根宿や接待所でお世話になってありがたいと感じ、それが今後も長く続いて後続の遍路たちにも役立つことを願うならば、多少の金銭的な寄付を残すことは考慮したいものです。

僕の賽銭袋
僕の賽銭袋
(13番大日寺前の旅館かどやで頂いたもの)

ところで、現金のお接待を受けるとどうしても金額が気になってしまいます。お接待や托鉢だけで歩いている遍路の中には、集まったお接待の金額を自慢げに話す人もいます。そうでなくても、10円だったら「はい。お気持ちですから頂いときます」、非常に多額だと、「ええっ? 私はそんなに尊敬されるほどの者じゃありません」などと、どうしても相手の方に対する気持ちが影響を受けるような気がします。僕は、そんな自分の心の動きがどうしてもいやになったので、ある時から、現金のお接待は、金額を見ないことにしました。手で受け取るのでなく、賽銭袋の口を開いて差し出し、その中に入れてもらうようにしたのです。ようやく、こうして初めて、現金のお接待という非日常的な行為を平静に受け止めることができるようになりました。

「お接待」を断る?

自分にとって必要でないもの、重過ぎるもの、多額と思われる現金のお接待を受けたとき、こうした場合でも原則として断るべきではありません。それを受け取ることが、相手の方に対する礼儀です。そのうえで、それを必要とする他の方にお接待してもよいし、適当なお堂などにお供えすれば、後から来る遍路へのお接待になります。

歩き遍路として悩むのは、車接待です。国道をとぼとぼと歩いていると、「乗って行きませんか」と声をかけられることがあります。自然体で、乗せていただけるときは乗せて頂いて回るという方もありますが、「歩き通す」ことを主眼として遍路をしている者としては、乗せて頂くわけにいきません。そうかといって辞退すれば「お接待」を断ってはならないという原則に反することになります。

この問題について正解はありません。僕は「歩くことを修行としてますので」とお断りすることにしています。なるべく相手の方がお気持ちが傷つかないことを祈るばかりです。幸い、これまでひどくがっかりされた経験はありませんが、中には断りきれずに乗せて頂き、後から後悔される方もあります。最初に乗せて頂くときはよく考えた方がいいでしょう。

[体験的・遍路百科] 目次に戻るCopyright (C)1999-2000 くしまひろし