掬水へんろ館体験的・遍路百科談話室メール
掬水へんろ館お礼参り (おれいまいり)

お礼参り

四国遍路の基本部分は八十八ヶ所の札所をお参りすることですが、付加的な要素として「お礼参り」ということが行われています。ただ厳密な定義があるわけではなく、混乱もありますので現状を整理してみました。「お礼参り」という言葉自体は一般的な表現であるだけに、人によってその意味するところは一様ではありません。

打ち始めのお寺に参る

八十八ヵ所を巡り終えた後、無事結願の報告と感謝を込めて、最初にお参りしたお寺などに再度お参りする習わしがあります。徳島県の1番霊山寺から遍路をはじめる人が多いので、88番で結願の後、お礼参りは1番に向かうことになります。ただし、自宅から便利な場所から打ち始めて構わないので、例えば51番から打ち始めた人は50番で結願となり、お礼参りは51番となります。

納経帳
「満願御礼」のページのある納経帳

へんろみち保存協力会『四国遍路ひとり歩き同行二人』でもこの意味で「お礼参り」を紹介しています。しかし、「結願後に1番に戻る」という習わしが一般化したのは戦後のことのようです。現在でも、88番で結願して、道中使用した菅笠や金剛杖を奉納し、そのまま帰宅の途につく人は少なくありません。

1番霊山寺で販売されている納経帳には、88番大窪寺の次に「満願御礼参拝 最初に参った寺」というページがあり、このようなお礼参りを認知した形になっています。

88番から1番へは40キロ前後あり、お礼参りをするなら1〜2日余計にかかります。ポピュラーなコースは、10番切幡寺に立ち寄り、そこから「逆打ち」の形をとって1番に向かうものです。僕も1巡目はそのように歩きました。最初に回った札所を1つ1つ逆上って巡っていくと、お遍路の最初の部分を巻き戻し再生して復習しているような心持ちになります。道の向こうから真新しい白装束に身を包んで緊張した面持ちで歩いてくる新米遍路は、まさしく打ち始めの自分自身の姿のようでもあり、僕は、感慨深い締めくくりだと感じました。

打ち始めのお寺へのお礼参りが一般化したから納経帳にもそれが反映されたのか、納経帳の巧妙な構成が、こうした習わしを普及させたのか、真相は不明です。この「最初に参った寺へのお礼参り」へのお礼参りについては、「1番霊山寺の納経帳の構成は、納経料を2倍稼ぐ策略であって、そのようなお礼参りはまったく意味がない」と主張する札所関係者もあるということです。確かに、歴史的・宗教的な根拠は明確ではなく、必須な行為ではないのかも知れません。しかし、歩き遍路にとってはなかなか味のある趣向だと思います。遍路習俗は、寺院が定めてきたものではなく、遍路と地元の方々とが作り上げてきたものです。僕は遍路の一人として「ぜひに」と勧めたいです。

高野山に参る

四国遍路は弘法大師の足跡を辿る旅でもあるので、結願後に高野山に詣でる人も少なくありません。無事八十八ヵ所を巡り終えたことの報告と感謝お礼という意味で、これを「お礼参り」と呼ぶのも自然でしょう。

町石道
高野山 町石道

ところが、旅立ちの前に高野山に詣でるのが正式の作法だともいわれています。高野山に参り、弘法大師にご挨拶し、一体となって四国に渡るからこそ、「お大師様との同行二人の旅」という理屈です。確かに、納経帳を開くと、一番初めに高野山のページがあるので、これが本来の姿かもしれません。

そうは言っても、四国遍路に旅立つときの心構えの強さにもよるでしょうが、歩き遍路の多くは1番から歩き始めることがまず念頭にあって、回り続ける間に「仕上げも念入りにしたい」という思いから「結願したあとは高野山へ」という気持ちになるのではないかとも思います。結願後の仕上げとしてならば、前項の「打ち始めのお寺に参る」と両方を選択することもできるので、心理的にも無理がありません。

88番から、あるいは1番から交通機関を使ってその日のうちに高野山に回る方も多いようです。しかし、四国から高野山への行程も歩きに徹する人もあります。1番霊山寺から徳島港まで歩き、船で和歌山港へ渡り、高野山まで歩きます。南海高野線・九度山駅近くの女人高野といわれる慈尊院から、町石道(ちょういしみち)という昔の遍路道が残っていて、よく整備された24キロの道を歩いて登ることができます。

もう一度回る

実は、四国八十八ヶ所霊場会によると、上のふたつは「お礼参り」としては正しくありません。「一度お参りをしておかげを受けた人が2度目以降に回ることを『お礼参り』と呼ぶ」というのが公式解釈です(四国八十八ヶ所霊場会『四国遍路 〜 今を生きる“道しるべ”』より)。

しかし、信仰心の厚い人もそうでない人も、現代の歩き遍路の中には、単純に現世利益を求めている人は少ないように思います。1巡目が「願い」、2巡目が「感謝」という単純な図式は当てはまりません。1巡目であっても「感謝」の心でいっぱいになってしまうのが通例ではないでしょうか。僕の遍路日記もそうですが、1巡目の記録が「ありがとう」の連呼で終わる体験記は少なくありません。

その意味では、2巡目も、3巡目も、ますます「おかげを受ける」ばかりで、「お礼」が済んだ気持ちになれません。したがって、この「霊場会公式解釈」には、現代歩き遍路派(?)の僕としては、あまりリアリティが感じられないというのが率直な感想です。

検証

第一の説について寺院関係者の中には「1番にお礼参りをするという風潮はここ数年のこと」という主張もあるようですが、これは事実に反します。

1956年刊行の『岩波写真文庫176 四国遍路』に、既に次のような記述があります。(p.62)

第八十八番大窪寺(中略)結願したお遍路さんも金剛杖を納めるのが建前だが、再び順行((ママ))する心あらば記念に持ち帰るも可。また無事結願したことを悦び、第一番霊山寺に御礼参りし、高野山に参拝、最後の結願するも可である。

また、1970年〜1972年の区切り打ちを記した伊藤延一『四國へんろ記』は次のように述べています。(p.162)

長い遍路の旅もここで終りをつげる。昔から、結願すると十番切幡寺(阿波国)へ出て、一番の霊山寺へお礼まいりといって逆打ちし、高野山に参拝するならわしである。

ちなみに、この著者自身は一番へのお礼参りは実行していませんが、「昔から」という表現から、少なくとも遍路たちの間にはそのようなチョイスが存在し、ある程度実行されていたと推定されます。

この2年後、1974年に歩き遍路をされた喜代吉榮徳さんも、88番結願後、10番切幡寺を経由して1番霊山寺、そして高野山に参っておられます。(独行庵 遍路学事始め > 辺路独行)

さらに時代を下って、1988年の遍路旅を語った田崎笙子『娘遍路』でも、結願後、ごく自然に1番霊山寺へのお礼参りと高野山参りに向かっています。

一方、霊場会公式解釈の「2巡目」を「お礼参り」と称する例もないわけではありません。1961年の歩き遍路日記である鍵田忠三郎『遍路日記 乞食行脚三百里』では、88番大窪寺で結願後、直ちに車で帰宅しています。しかし、医者から「二ヶ月しか保たない」と見放された身体が、歩き遍路のおかげで健康を回復したのに感謝し、「その後、お礼詣りの八十八ケ所巡拝もさせていただき、」(p.1)とあります。

以上のように、上述の3種類の「お礼参り」が少なくともここ数十年にわたって受け継がれていることは確かです。

戦前はどうでしょうか。1931年発行の安田寛明『四國遍路のすすめ』は、「御四國詣りは京都東寺を打ち始めにして、高野山を打ち終わりとするが順当」(p.37)と述べています。ただし、東京からのモデルプランとしては、東京から汽車で大阪港に直行するコースを解説していますから、「京都東寺」にはこだわっていないようです。88番結願後の心得を述べた部分(p.75〜76)では「亦高野山へ参る人は」とあり、高野山は選択肢の一つという扱いです。1番へのお礼参りについては言及がありません。

これだけから推論するのは乱暴ですが、戦前には「最初に参った寺へのお礼参り」という概念はなかったと想像されます。ただし、1950年代には広く受け入れられるものとなり、連綿と現在に至っているというべきです。決して、「数年前から始まったもの」ではありません。

結論

正統性の議論はともかくとして、言葉の使い方の実態として、四国遍路における「お礼参り」には、上記のように多義性があります。誤解を避けるには「打ち始めのお寺にお礼に行く」「高野山にお参りする」「お礼のためにもう一度回る」と表現したほうがいいのかもしれません。寺院間の嫉妬に巻き込まれるのは、遍路にとって無意味です。

上記の3つのスタイルのどれも、それぞれに意味のあることだと思います。「お礼参り」という言葉につられて、必須科目のようにとらえる必要はありません。自分にとってしっくりくると思えば、そうすればよいし、1番から88番までをお参りして、おしまいにしてしまっても、何ら差し支えないと思います。高野山参りにしても、遍路を終えてから数ヶ月後にあらためて出かける方もありますし、「最初に参った寺」ではなく心に残った別の寺にお参りに行く方もあります。

いつも同じ結論で申し訳ありませんが、これも「人それぞれ」ということにしておきたいと思います。

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