掬水へんろ館第6期前日談話室メール
掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 第6期くしまひろし

あとがき

結願に際して、感極まって涙を流す人もあるというのに、僕の遍路の終わりは至極平穏だった。「リフレッシュ休暇を個性的にすごしてみたい」などという全く不真面目な発想から出発した不真面目遍路だから、当然と言えば当然かもしれない。また、区切り打ちのため、お四国でたまった思いを、少しずつ小刻みに自分の中で消化してしまったということも一因としてあるように思う。

だが、その達成感と満足感は、じわじわと心の中に染み渡っていく。

一週間だけのお遊びのつもりだったのが、6回の区切り打ちによって満願にまで来れたのは、四国の人々や他の遍路たちとの出会いの喜びのためである。

例え遊び半分の遍路であっても、一笠一杖に身を託して歩けば、四国の人々は等しく遍路として遇してくれる。どうしてそんなに親切にしてくれるのか。そのやさしさはどこから来るのか。僕はそんな待遇に値する人間ではないのに…。そう考えて歩いていると、僕自身に信心はなくても、四国の人々から預かった信心は大切に扱わねばならないと感じる。

また、道中の様々な出会いは、それぞれ鮮明な印象を残す。ただ1度出会っただけなのに、文通の続いている方も多い。

手紙

1996年5月中旬、第1回目の区切り打ちの初日に霊山寺近くの民宿阿波で同宿となった、区切り打ちのKさんことキタムラさん(奈良)は、まだ遍路中である。1998年4月に歩いている途中、水分不足から痛風の発作に苦しんだりしながらも、治療に努められ、今年5月には64番まで歩かれたとのことである。

1997年7月末、第2回目に出発するとき羽田空港で出会い、日和佐までご一緒したコクブさん(東京)は、1998年7月の夏休みで結願して、その足で1番に御礼参り、8月には結願お礼とお盆のお参りを兼ねて高野山に参られたという。

日和佐を出発してまもなく国道55号で出会い、1週間の間、前後しながら歩いて、結局羽田まで一緒に帰って来た母娘連れのカタネさん(東京)とは、その後出会うこともなかったが、文通が続き、区切り打ちのたびにお互いの体験を交換してきた。何となく、ずっと一緒に遍路をしてきたような気持ちである。今年3月30日に、深々と雪の降る中、結願したという。そして、出会った当時中学2年生だった絢子さんは今年4月から女子高生。お母さまのお便りには「この2年間で随分と成長し、時には私の方が頼る事さえありました」とある。

最御崎寺の宿坊で同宿となり、浜吉屋でも同宿となった元中学教師クボタさん(東京)は、その後もシーズン毎に何度も通し打ちをされている。私の区切り打ちに合わせて、宿の情報や道案内を詳細にワープロで打って送って下さった。ベテラン遍路の心配りに感謝している。1999年3月20日からは逆打ちに出発、40日間で結願・高野山参りを済まされたとのことだ。クボタさんは在職時代にはバイク遍路をされており、貴重な手作りの遍路日記も頂いた。

半ズボンのカワイさん(三重)とは、鯖大師の先で初めて出会い、民宿食堂とくますなどで何度も同宿となった、通し打ちで結願、8月30日に霊山寺にお礼参りをされた。その後もしばらく放浪、9月中旬にようやく家族の元に戻られたとのことだ。ところが、家に落ち着く間もなく、その後も、中国、ヨーロッパ、中近東、インド、ネパール、台湾などに旅をされたとのこと。翌1998年7月に頂いたお手紙では、「これからは少し家に落ち着いて今までの旅をふり返ってみようか」とある。遍路前に70キロあった体重が58キロになったそうだ。

最御崎寺に連泊して求聞持法を修めていた謎の修行者、コザキさん(東京)からも遍路日記を頂いた。そのお便りで、コザキさんは、僕と出会う前の徳島県内では、上記のカワイさんと何度も同宿になっていたことを知り、出会いの不思議な連鎖を感じる。最近は「心の中で旅をして歌など作っている」とのことだ。

1997年末から1998年年始にかけての第3回目は、東京新聞特報部の加藤記者の取材で始まった。1998年元日に記事が見開き2面に渡って掲載されたほか、半月後には読者からの反響、そして同年12月末には続報が掲載された。この間、記事のホームページ掲載許可の手続きなどで加藤記者には終始お世話になった。また区切り打ちの度にメールを下さり「無事な旅を」と気にかけて頂いた。現在では、特報部から社会部に移り、労働省を担当、忙しい毎日を送っておられる。

逆打ちのミヤモトさん(広島)は、僕が出会った日の前日には、母娘遍路のカタネさんとも出会っているが、そのカタネさんが、3カ月後に、愛媛県内で、ミヤモトさんと再会したという。終わりなき遍路を続けておられるらしい。

足摺岬に向かう途中で出会った自転車遍路のコンドウさん(岡山)とは、何と、翌年5月、大洲市の先で、偶然にも再会した。岡山県在住、35番からスタートして区切り打ちしており、帰宅するときは途中の札所に自転車を預けているそうだ。1999年の年賀状には年末年始に17番まで、その後、1〜2回で結願の予定と書かれていたが、もう成就されたのではないだろうか。

おしどり遍路のアツウラさん夫妻(東京)も僕と同じような区切り打ちだ。金剛福寺と安宿旅館で同宿となり、その後もお互い前後しながらの区切り打ちで、手紙で情報交換をしてきた。途中、かなり足を痛めて、一時挫折の危機もあったようだ。でも、今年正月には無事結願、高野山にも参られたという。

1998年5月の第4回目、2日目に観自在寺などで何度も出会った夫婦遍路とは翌日以降会うことがなく、納札も交換しなかった。ところが、翌年7月に何とTVの画面で再会できた。NHKの「四国八十八カ所」で56番泰山寺が放送されたとき、あの夫婦遍路が番組の「旅する人」山口崇と会話しているところが放送されたのだ。毎年5月に区切り打ちをしているらしい。早速NHKに手紙を出してみたが、「インタビューした相手の連絡先などは控えていない」とのことで、縁を結ぶことはかなわなかった。おそらく2000年には結願されたものと想像している。

納経所でコーヒーをごちそうになった、新居浜市内別格6番龍光院のご住職、大國様からは達筆のお手紙を頂いた。僕のことを「広島カープの衣笠選手のお声に大変良く似ておられました」と書かれ、「お声」のところに傍点がついていた。妻は、「それは実は『お声』ではなく『頭髪』と書きたかったんだろう」とニヤニヤしている。

十夜ヵ橋の先で出会った野宿遍路の海老原さん(広島)は区切り打ちで1999年1月に結願された。5月には、80歳のお母様と1番から17番まで区切り打ちで歩いたそうだ。柳水庵に泊めてもらい、焼山寺の遍路ころがしもなんとか無事に越えたとのこと。

震災遍路さん(鹿児島)からは、6月に遍路日記のお礼の電話がかかってきた。僕と出会ったあとも遍路を続け、6月初めに無事回り終えて九州の実家に帰られたとのことだ。行政から支援金も支給されることになり、仕事も見つかって何とか生活をたて直すことができそうだと明るい声であった。

三坂峠で出会った逆打ちの青年遍路僧(福島)は、108霊場参詣、高野山奥の院までの徒歩参詣を45日間で無事終えたとのことだ。1日1食で歩いたため、空腹に耐え、また山道や大雨に苦しんだという。お便りには「お大師様をにくんだこともありました。しかし、終わってみれば、これほど貴重で、おもしろかったことは外にありません」とある。

第5回目は、1998年8月、酷暑も終わり、夏遍路のピークも過ぎた時期だった。

飲み物や宅急便のお接待を頂いたクリーニング店の矢野さんは、「春になったら川崎に住む息子を訪ねるので、お会いしてお遍路話などできれば…」とのことであったが、お便りでは、体調がすぐれず、秋と春には入院されていたとのことだ。「元気になれば是非歩き遍路でお参りしたい」と書かれている。一日も早いご快癒を祈っている。

3年間野宿を続ける村上さん(福岡)の消息は聞こえて来ない。「札掛大師復興記」に「協力者(手伝い4日)」として村上さんの名前があるのが、足跡と言えば足跡である。今回出会った1000日逆打ちの幸月さんも心当たりがないようだった。

キャリーを引いた野宿遍路の藤田さん(愛知)は、1999年の春に結願の予定というお便りを頂いたが、今回の遍路で見た札がその結願の旅のしるしなのであろうか。

この回の遍路日記では、女性のことばかり書いて遍路らしからぬと一部顰蹙をかったが、色々と教えて下さるお便りもあった。三角寺の和顔施美人は、やはり三角寺の奥様だそうだ。また、椿堂の乙女は、実は3児の母で、野宿遍路中に世話になった若い僧たちの間で人気No.1だという。

民宿岡田で同宿となった婚前旅行のお二人(長野)は、その後めでたく結婚された。この春もご一緒に回られ、民宿幸荘にも、僕が泊まった翌日に泊まられたそうだ。

そして、最後の旅、第6回目は1999年4月末〜5月。

初日に出会い、翌日民宿幸荘で同宿となったマツキさん(東京)は、別格札所も回っており、僕より3日後の5月8日に帰京したとのことである。今回の遍路は2度目ということもあって「子供の頃のように何でも好奇心を持ち続けて、楽しく歩くことが出来た」と、お便りにある。

同じく民宿幸荘で同宿となり、翌朝、一宮寺までご一緒したサチコさん(兵庫)は、僕の1日後の5月3日に結願し、徳島市内に宿泊、翌日、高野山にてお大師様に御報告したとのこと。蚊も殺さず不殺生だけは守ったのに、良縁来たらず、あったはずの見合い話まで消えてしまったと嘆いている。6月には信徒さんを案内してバス遍路にも同行しているとのことだ。

根香寺の手前で待ち構えていた露口さん(愛媛)は、休みの日に遍路道のハイキングを楽しんでおられる。「空海修行の地である西日本最高峰石鎚山頂を極めて下さい。アスファルトの国道はバスに乗ってでも、ここを歩いた方がきっと満足度が高いと思いますよ」とのこと。僕も、次回の遍路ではぜひ足を伸ばしたいと思う。

82番根香寺ふもとの民宿幸荘の奥様からは、流れるような達筆のお葉書を頂いた。お世話になった翌朝、マツキさん、サチコさんと一緒に玄関の前でデジカメで撮って頂いた写真がプリントされていて大切な記念である。

1番お礼参りを終えて、車のお接待を頂いた宮田さん(徳島)は、「掬水へんろ館」に「空海の道を歩く、新緑の焼山寺越え」というコース案内を投稿していただいた。美しい写真や地図・高低図など入った力作である。「掬水へんろ館」の充実を支援して下さるありがたい協力者だ。

10番から9番に向かう途中、一言交わしただけの若者いくりんさんは、その後「談話室」に登場して下さった。6月初めには18番恩山寺から22番平等寺まで歩かれたという。

もちろん、実際に出会った方々以外にも、「掬水へんろ館」を介して、メールや談話室でご縁を持たせて頂いた方は、数えきれない。「おへんろ出会い旅」の著者おかざききょうこさんは「実際の旅は終っても、こんなふうに出会いは続くんですねぇ…」という言葉を寄せて下さった。

僕が遍路を始めた1996年ごろから、歩き遍路が増えだしたという。遍路の動機やスタイルは人それぞれだが、遍路の結果得るものは予想以上に大きい。しかし、古来の遍路と違って、現代では、歩き遍路の絶対数は、地元の方より首都圏、関西からの人が多い。四国の人々のお大師様信仰と、こうした外来者たる歩き遍路の行動とがうまく調和して、新しい歩き遍路文化が形作られ定着していくことを念願している。

今や、「お遍路」は僕という人間を説明するキーワードの一つである。「リフレッシュ休暇を自分の今後のライフスタイルの構成要素となるような何かに使ってみたい」という、僕の当初の目論見は、確かに実現したと言えるだろう。

単なる思いつきだった「歩き遍路」を実践する大事なキッカケとなった『四国八十八ヵ所めぐり』の執筆者の一人である高田京子さん、四国遍路ひとり歩き同行二人の出版や道標整備に尽力されているへんろみち保存協力会の宮崎建樹さん、そして、四国の皆さん、「掬水へんろ館」の読者の皆さん、歩き遍路の仲間たち…

みんなみんな、ありがとう!!

1999.6.20 完

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