掬水へんろ館遍路日記第6期前日翌日談話室メール
掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 第6期くしまひろし

第6日(5月4日)

地蔵堂
地蔵堂

5時40分、出発。予報通り、雨だ。ザックから今回初めて雨具を出す。雨具は、カッパと雨ズボンを持参しているが、パラパラ雨のようだったのでカッパを着ただけにした。マント型で丈が膝まであるので、少しの雨なら十分しのげる。それに雨ズボンまで履くと蒸れて気持ち悪い。

だが、歩いていくと時々強く降り、ズボンも濡れるようになってきた。蒸れるのはいやだが、ズボンが濡れるのも困る。カッパにしろ、雨ズボンにしろ、着脱が面倒なので、その決断にエネルギーが要る。カッパはザックを下ろし、菅笠を脱がないといけないし、雨ズボンは靴ひもをほどいて靴を脱がないといけない。雨の降る路上では簡単にはできない作業だ。

そんなことをぐずぐず思いながら、10分程歩いただろうか。橋のたもと、道路の反対側に小さな地蔵堂があるのを見て、とうとう決意した。やはり雨ズボンも履こう。いや、決意したというよりも、心が決まったというところだ。こんなに都合よく、雨をしのげる場所があるというのが、「これもお大師様のはからい」と言いたくなるような絶妙の巡り合わせなのである。それに逆らってはならないだろう。

雨ズボンを履き、歩き出すと雨はますます強くなってきた。正しい選択をしたということだ。

6時55分、5番地蔵寺に到着。

鐘を撞き、本堂、大師堂にお参りしていると、締め切った売店から白衣の男性が出てきた。愛媛の人で野宿、民宿併用で逆打ち中だ。昨夜はこの売店を借りて泊まったという。野宿と言っても、言葉通り野原で寝るわけではなく、たいていお寺の通夜堂を借りたり、駅の待合室やトイレの軒下、無人の堂、バス停小屋を利用する人が多いようだ。僕の3年間にわたる区切り打ちの中で、四国在住の歩き遍路に出会ったのはこれが初めてだ。ちょっと竹中直人風の人だった。何度も遍路を繰り返しており、たみや旅館(8番下)や大鶴旅館(徳島市内)で親切にしてもらったといい、しばらく宿談義をする。

7時20分、5番出発。7時45分、4番着。ますます雨は激しいが、歩き遍路もほとんど終盤となり、まったく苦にならない。だが、境内でゆっくり休むという状態でもなく、そそくさとお参りを済ませて、8時発。

番外霊場の愛染院を経て、次の3番金泉寺に向かう道は、途中、ちょっとした山道を抜けたり、田園の中を歩く。今回最後の遍路道ともいうべき部分だ。3年前、最初にここを歩いたときは、県道から雰囲気の良い山道に入って、「これが遍路道というものか」と、心がはずんだことを覚えている。今回は、逆方向でうまく道筋をみつけられるかどうか不安だったが、何とか迷うこともなく、コースをたどることができた。9時、3番金泉寺着。

金泉寺を出発してしばらくすると、雨が小降りになり、空も明るくなってきた。

2番 極楽寺
2番 極楽寺

10時、2番極楽寺に到着。よく手入れされた庭園が雨に濡れて美しい。3年前は、初めての遍路で、庭園の美しさなど何も目に入っていなかった。だが、今、現場を目にして思い返せば、確かにここに来たのである。黒塗りのタクシーで乗り付けた立派なみなりのご婦人が、門前で、木魚を叩きながら一心にお経をあげていたのを思い出す。そんなことは、自分の遍路日記にも書いていないし、すっかり忘れていたが、今この場所に立つと、あの日の光景が記憶の奥底から浮かび上がってくる。

2番 極楽寺にて(14秒)
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ベテラン団体の集団読経に、いまさらながら聞きほれる。前にも書いたように、集団読経には斉唱型と不協和音型がある。今日の団体は不協和音型だ。なかなか味がある。

お礼参りの完結に向けて、札所の間隔がしだいにせばまり、3年前の記憶と今現在の体験とが、ずれた画像が重なるように、次第次第に焦点を結んでいく。「魔法を解く」どころか、「お四国」の風景と感触が、ますます自分の中にしっかりと根を下ろすように…。

10時35分、極楽寺発。3年前と同じ5月の桃畑沿いに県道を1番霊山寺へと歩む。昨日とは一転して、歩き遍路には出会わない。今日は連休最終日であるし、天気も悪いからだろう。

霊山寺のすぐ前にある、文字通り「門前一番街」という遍路用品・みやげもの店で絵はがき数枚を買ってから、11時、1番霊山寺に到着。お参りを済ませて、納経所に入る。

満願

1番お礼参りの納経
1番お礼参りの納経

納経所にて「満願御礼参拝」のページを開いて差し出すと、納経所員のおじさんは、ページの中央にゆっくり筆を運んで「願行成圓」と大きく、そして右側には「平成十一年五月四日」と日付を入れてくれた。四国遍路中の各札所の納経では日付がないのが寂しかったが、最後になってここでこうして日付を入れてもらえて本当にうれしい。

そのページから後は予備ページになっており、番外霊場の納経が続いている。すぐ隣の柳水庵の記載を見たおじさんが、顔を上げて「歩いてか」と聞く。「はい」と答えると、日付の上に「徒歩」と書き足してくれた。そして「ご苦労さま」と言って、納経帳を両手で威儀を正して返してくれた。これまでの納経の中で一番うれしかった。ちょっと感傷的になってる僕の思いのいくばくかを受け止めて、最大限の敬意を払ってとりあつかってくれたからだ。88番の2000円の証明書なんていらない。

かねて聞く徒歩遍路者用のノートに記入しようと、3年前に出発したことを話すと、もう一人のおじさんが「10年かかったちゅう人もおるで。3年いうたら、まあ前頭ちゅうところやな」。売店の女性がノートを探し出して来る。平成10年(1998)、平成11年(1999)のノートはそれぞれ1冊ずつだが、平成4年〜9年(1992〜1997)は合わせて1冊だ。最近歩き遍路が増えているということがこのことにも表れている。

1999年4月14日山陽新聞夕刊、1999年6月11日日本経済新聞夕刊の記事を総合すると、このノートに記入した歩き遍路は1996年頃から増えだし、800人台、900人台ときて、1998年は1300人になった。今年(1999)は5月末で早くも900人を超えたという。

出発時、このノートのことは知らず、納経所や売店の人も特に言ってくれなかったので、僕は記入しなかった。今見ると、壁に「徒歩巡拝者は申し出て下さい」と書いてある。そのとき僕は緊張していて、気がつかなかったのだろう。

ノートのページをめくって、平成8年5月の欄外に、出発の日付(5/11)、住所、氏名、電話番号を記入し、一番右側の「満願」の欄に今日の日付を記入した。満願の欄は空欄の人も多い。途中でやめてしまうのか、戻って来たとき記入しないだけなのか…。

ところで、ノートの「満願」の欄に、88番に着いた日付を書くのか、本日の日付を書くのか、最初戸惑ったが、おじさんは「88番で結願、1番に戻って満願」だという。「同行二人」の解説では「第八十八番大窪寺で満願となる」と記載があるので、上記のような定義は必ずしも定説ではないのかもしれない。だが、そっけない88番、うってかわって温かい1番を経験した僕としては、「結願が何ぞ。満願こそが大事だ」と納得したいところである。

売店の女性がお茶をお接待してくれる。おじさん二人と女性一人にニコニコと祝福されて、お茶を頂きながら、本当の満願の喜びをかみしめた。88番で終わりにせず、1番に戻って本当によかった。

納経所を出て、納経帳をしまっていると、これから巡拝に出発するというおじさんに道の様子を尋ねられた。去年順打ちをしたが、今年はこれから逆打ちをするとのこと。10番〜88番は県道が新しくなっていることなどを話す。僕の歩き遍路は、これでおしまいだ。今、また出発しようとしているこのおじさんに羨望を感じつつ、仁王門を出た。あのおじさんは、何年か後の僕自身であるかもしれない。

28,223歩、14.2キロ。

最後のお接待

11時45分に、門前で、徳島在住の宮田右延さんと落ち合う約束になっている。出発前に、電子メールで、「鳴門撫養(なるとむや)のバス停まで車で送って下さる」というお申し出があったのだ。歩き遍路中はもちろん車のお接待はお断りしている。だが、1番でお礼参りを済ませた今、僕はもう歩き遍路ではない。ありがたくそのご好意を受けることにしたのだ。宮田さんとは、「掬水へんろ館」を通じて電子メールでの文通はあるが、今日が初対面である。

宮田さんと
宮田さんと

少し時間があるので、近くのスーパーで昼食用のパンを買う。仁王門に戻り、ザックをおろしていると「くしまさんですか」と声をかけられた。宮田さんである。白衣を脱ぎ、宮田さんのエスティマに載せて頂く。「地元に住んでいるものとして、何か情報発信をしたい」とおっしゃる宮田さんだが、話しているうちに実は同業と分かった。業界話などしていると、あっと言う間に、鳴門撫養バス停に到着。

「お接待です」とA4版の資料を下さった。何かと思えば、僕が歩いている間にアップされたターキントン氏(遍路トピックス[99.5.22]参照)の日記をプリントアウトしたものだ。「帰りの電車ででも読んで下さい。退屈でしょう。食べ物なんかよりこの方がいいと思って…」という。思いがけず素晴らしい、また心憎いお接待である。2日目に出会った露口誠一さんが「談話室」に「くしまさん情報」を書き込んで下さったことも知る。

鳴門撫養12時25分発の高速バスは数分遅れて到着。連休の真っ最中とあって、高速道路は案の定、大渋滞である。バスは無線で交信しながら、高速と一般道を出たり入ったりしながら大阪へ向かった。だが、高速バスのダイヤというのはずいぶん余裕をみているようで、最後は超ノロノロ運転だったにもかかわらず、ほぼ定刻の14時40分に、梅田に到着した。

高野山へ

地下鉄でなんばへ、そして15時30分発の南海電車に乗る。橋本駅を過ぎると、ほとんどガラガラである。高野下から先は単線。待ち合わせが多い。1時間半ほどの車中、ターキントン氏の日記に読みふけり、退屈することはなかった。

電車の終点、極楽橋で下りると土砂降りだった。歩き遍路の旅装を解いたからには、菅笠をかぶるつもりはないので、駅の売店で600円の傘を買った。売店のおばさんがあきれたように僕を見る。「下、ふっとらんかんたん? 高野山は傘あらへんとあかんわ」

ケーブルに乗り換え、高野山に一気に登る。バスに乗り蓮華谷で下車すると、今晩の宿、三宝院は目の前だ。

案内されたのは、2階の6畳間。宿泊客の案内や世話は、「寺生」という実習生みたいな青年が行う。このお寺には2人いて、一人は高野山大学の4年生、もう一人は、卒業してさらに専修科で1年学び、そして今、1年間のお礼奉公中だという。2人とも礼儀正しく、さわやかな青年だ。

お礼奉公の寺生の話

隣の部屋のお客さんも歩き遍路で、きのうから泊まっている。
自分の友達が2人、ちょうど今歩いている。
このお礼奉公が終わったら自分も、テントをかついで歩き遍路をする。道具は、もう用意してある。杖とか笠とか。笠は父が昔使ったものを使う。

精進料理
精進料理

お寺の入り口にも、箸袋にも、「三宝院」という名前と並んで「高祖院」と記してあるので、不思議に思って尋ねてみた。「昔は女人堂の近くに高祖院があったが焼けてしまい、その名前だけ三宝院が受け継いでいる。もともと何千寺といわれた高野山に、今はお寺が50いくつしか残っておらず、それぞれが、なくなったお寺の名前を引き継いでいる。ただ、高祖院については、新たに本堂を再興しようという話も出ている」とのことだった。

食事は、寺生がお膳に乗せて部屋に持って来てくれる。精進料理だ。四国の宿坊の食事は精進料理ではない。たいてい刺身が出るし、鶏のから揚げが出たところもあるし、子供が泊まるからという理由でハンバーグを出すところもある。だから、僕の遍路旅で、精進料理はこれが初めてだ。好物のなすの田楽を味わいながら、満願祝いにと思い、遍路中の禁酒を終えてつけてもらったお銚子1本をじっくり頂く。高野山名物、ごま豆腐が出なかったのがちょっと残念。それに、民宿での食事のように、同宿の客とおしゃべりできず、一人黙々と頂いたのがちょっと残念。

三宝院の箸袋

TVもないので、夕食後は、静かな部屋で遍路の終わりの余韻にひたりながら、実家や友人あてに満願報告の絵ハガキを書いた。

寝る前に、びしょ濡れの靴のことを思い出し、寺務所で古新聞をもらった。靴につめておけば、キャラバンシューズも、明朝には乾燥しているだろう。

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