掬水へんろ館遍路日記第6期前日翌日談話室
掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 第6期くしまひろし

第3日(5月1日)

お嬢様と歩く讃岐路

6時50分出発。

埼玉のご夫婦と淡路の男性は先に出発しており、僕はマツキさん、サチコさんと同時の出発となった。県道に出たところで、80番国分寺に向かうマツキさんと別れて、サチコさんと二人で、83番一宮寺に向かう。

香東川
香東川

「同行二人」の地図は昔の遍路道をたどるようにジグザグを繰り返していくルートだが、幸荘の奥さんのお勧めは、直線的に移動して、香東川沿いの車の通らない道を一直線に南下するコースである。この方が分かりやすいという。道順を書いた地図をコピーしてくれたので、それを頼りに、サチコさんとおしゃべりしながらのんびり歩く。

サチコさんの話

去年も同じ季節、3月中頃から歩いた。梅に始まり、桜など花の美しい季節。檀家のおばあさんが同行してくれて、徳島一国参りのつもりで歩きはじめた。ところが、どうしても続けて歩きたい気持ちになった。同行のおばあさんからは「お嬢さんを預かって来たのだから、どうか一緒に帰ってくれ」と言われたが「ごめん、ずっと行く」と振り切って歩き続けてしまった。高知県から先は、ほとんどひとり歩きで連れはなかった。

今回は対照的に、最初の宿の寿食堂でたまたま相部屋となったマツキさんと、その後ほとんど同宿しながら歩いている。別格の慈眼寺の下りで筋を痛め、その場でマツキさんに湿布と包帯で手当てをしてもらった。でもそんな状態になっても歩けるものですね。

僕も、20番鶴林寺で捻挫した足に湿布をして23番薬王寺まで歩いたときのことを話す。

歩き遍路同士は、よく宿談義に盛り上がる。宿選びは博打のようなものだ。「同行二人」の巻末に掲載されている宿泊施設一覧表だけがほとんど唯一の情報源だ。そこがどんな宿なのかを判断するには、名前から推測し、予約の電話をしたときの応対から想像し、そして、他の遍路の評判を頼りにするしかない。

昨夜同宿となった埼玉・淡路組、マツキさん、サチコさん、それに昨夜はいなかったがもう一人の青年も、前後しながら同じような行程で歩いているそうだ。今治では、たまたまみんな別々の宿に泊まることになり、翌日顔を合わせたら、全員が「自分の泊まった宿は最悪」。80番の近辺でもバラバラだったが、みんなハズレだったという。

「きょうは八栗寺近くの岡田屋に泊まる」と言ったら、「えっ? 岡田屋さん、やってはるんですか?」という。心配になって「電話してあるから大丈夫のはずだけど、どうして?」と尋ねると、「前に通ったとき、とても営業しているようには見えなかった。…いや…でも電話してあるんなら…大丈夫でしょう。」という。「そんなにボロボロだった?」「いや…そういうわけでも…まあ…行ってみたら分かりますよ。楽しみにして行かはったら…」とニヤニヤしている。

結願寺である88番大窪寺へのコースは車道を行くコースと、女体山を越えて行くコースがある。山越えコースは「絶景・感動のコース」と言われているが、最後の難所でもある。そんなに険しいのかと尋ねてみた。

「うん。あそこは大変。岩をこぉうやってよじ登る」
「へぇ。景色もいいし、ぜひ登るべきだけど、雨の時はやめた方がいいと聞いた。そんなにすごいところ?」
「そうですね…いや…まあ…でもそれほどでもないかな」
「どっちなの」
「いや…ね…あんまりすごいすごいと言って、実際行ってみたら何だこんなもんかと言われたら困るからなぁ。まあ、行ってみてのお楽しみということで」

どうも、色々と気を揉む僕は、からかわれているようである。

僕みたいなお気楽へんろと違って、悲壮な感じで歩いている人もいるね…という話になって、「あなたも、マツキさんも、陽気でほがらかだけど、実は悲壮な思いを胸の奥底に秘めているのかも…」と言ったら、「え? 分かりますう? やっぱりぃ? 実わぁ」とへらへらしている。

お寺の娘さんで、歩き遍路をしていて、しかも2度もしているだけあって、人柄の奥が深いのだ……。

吹田の修験者

83番一宮寺にて
83番一宮寺にて

8時15分、83番一宮寺(いちのみやじ)到着。

先発の埼玉・淡路組がいた。本堂の前で記念撮影。一緒に出発したが、他のみんなは84番屋島寺のふもとに泊まる予定なのに対し、僕は85番八栗寺まで行く計画なので、先を急ぐ。

高松の中心部にさしかかると、道順が分かりにくい。太い道路が微妙な角度で交錯している。地図と磁石を引っ張りだしてそろそろ行くと、やはり磁石と相談中の体格のよい遍路姿の男性に追いついた。吹田から来たハナイさんである。

ハナイさんの話

基本的に野宿。3年ぐらい前から区切り打ちで回っている。58歳。今回は71番弥谷寺から始めて3日目。昨夜は香西寺(82番根香寺の近くの番外札所)の近くで野宿した。
鬼無付近から一宮寺までの道は「同行二人」の地図の通りジグザグに来たが、曲がり角を見逃さないように神経を使って疲れた。そら、川沿いに真っ直ぐ来る道の方がええわ。
自分自身や、家族、病床にある親戚の健康に願をかけて、修験道の行として回っている。初めの頃は、休みが残っていても疲れたらさっさと帰っていたが、ようやく今回で結願やで。

八百屋でハナイさんがトマトを買うといい、僕も買うことにする。

ハナイさんと二人で心強くなって、協力して目印を確認しながら歩いて行くと、国道11号に出るところで、前方のサチコさんに追いついた。どこで抜かれたのだろう。サチコさんは讃岐別院に寄ると言って直進、ハナイさんと僕は右折して国道11号を屋島へ向かう。

サンクスがあったので、封筒を探すためハナイさんと別れる。でもここにも手紙用の封筒しかなかった。しばらく行くと文具・事務用品店。ここならあるだろう。ようやくクッション入りのB5版の封筒を入手。初日に秋山さんからもらった資料や、撮影済のフィルムなどを入れ、次にあったローソンで宅配便にて、自宅に発送。今日は土曜日なので郵便局は閉まっているが、多少高くてもコンビニからいつでも荷物が送れるのは便利だ。ローソンのカウンタで伝票に記入していると、外を埼玉・淡路組が追い抜いて行くのが見えた。屋島への登りを前にして、これで少し身軽になった。

11時、国道沿いの活魚小松という和食レストランにて昼食。広々とした店内。造り定食850円に大満足。一口では食べきれないほど大きなカンパチの刺身3切れに、とろけるようなイカ。後から入ってきた中年夫婦は、同じメニューにさらにタイ造りを追加していたが、目の前の大きな生け簀からバタバタ暴れる鯛をすくい上げて素早く造り、これで一人前650円とは安過ぎる。11時20分発。

屋島
屋島

11時30分、新春日川橋を渡る。橋の上から屋島が大きく眼前に広がっている。

新川大橋を渡ったすぐ先で屋島に向けて左折するのであるが、ゼネラル石油のスタンドを目印にした「同行二人」の地図は不正確だ。実際は、橋を渡ってすぐ、宮脇書店の手前の道を入る。

小学校が近くにあり、せまい歩道をぞろぞろと下校中の小学生が下りてくる。このあたりの子供は「こんにちは」と声をかけても、けげんな顔をしてみつめるばかりだ。

千日遍路

屋島への登りにかかったところで、ハナイさんが階段に腰掛けて昼食中だった。荷物はふもとの酒屋に預けてきたという。僕も、近くの草むらにザックをおき、納経帳など最低限の荷物をもって登り始めた。

二人で前後しながら登っていくと、前方から、くねくねした枝振りの錫杖をついた髭の老人が下りて来た。77歳、幸月(こうげつ)さんである。

幸月さんの話

千日遍路の幸月さん
千日遍路の幸月さん

3年間(1000日)、逆打ち、野宿で歩く。今日で191日、5巡目に入った。この間、ふとんで寝たのは3日のみ。そのうちの1回は、岩屋寺で通夜堂をお願いしたら近くの民宿に頼んでくれて、宿泊料をお接待してくれたもの。

荷物は幅40センチの台車に積んで運んでいる。下の小学校に置いてきた。60キロ以上あるだろう。一度ひっくり返ると起こすのが大変。トンネルの側溝のふたなど幅が狭いので苦労する。

長く続けようと思えば、新鮮な食料を食べないといけない。野菜とか肉とか。石油コンロで自分で調理している。寒いときなど酒も大事だ。

へんろ道ではなく国道や県道を歩く。その方が分かりやすい。山道では台車が押せない。

食料を買うお金はすべてお接待でまかなっていて、托鉢はしないという。自作の俳句を書いた冊子を何冊も持っていた。

石畳のジグザグ道を登っていく。「同行二人」の地図にある『食わずの梨』と『御加持水』は位置が逆である。同じページの中で二つ目の誤りだ。でも、『食わずの梨』を過ぎて、まだまだ先は長いと思っていたら、思いがけず山門に着いてしまい、これはこれでうれしい。12時55分、84番屋島寺に到着。

84番屋島寺
84番 屋島寺

ハナイさんは修験行者である。本堂、大師堂でそれぞれ印を組んで、僕には分からない呪文を唱えている。屋島寺の境内は広々として砂利がしきつめられていて、この気候では暑苦しい。日陰のベンチも見当たらず、あまり長居をしたい雰囲気ではない。早々に下りる。

下りに入り、サチコさんが登ってくるのとすれ違う。「ずいぶん遅いね」「おじさんと話し込んでいたから」。幸月さんのことだ。12番焼山寺でも出会ったそうだ。初めは怖かったという。確かに、一見、奇矯人を思わせるあの風貌ではちょっと近寄り難い。だが、話は論理的で明瞭だ。

ザックをおいた所まで戻り、階段に腰を下ろして、今朝買ったトマトをかじっていると、女性の二人連れが通り掛かって、一人が話しかけてきた。

「明日結願ですか」
「今日八栗寺のお参りができれば、明日結願ですね。間に合わなければ、明日は88番の近くに泊まって、結願はあさっての朝になります」
「今から、十分間に合いますよ。私も11番から12番は歩いたことがあります。66番へは四国のみちのコースで登ってみようと思ってるんです。60番も行きました。そこは車だったけど」

彼女はもっと遍路話をしたそうだったが、連れの方が、「なに変なおじさんと話してんの?」てな顔をして先に行きかけたので、渋々立ち去った。

真念の墓

小学校の近くまで戻り、85番への道に悩んでいると、「にいちゃん、どこ行くの?」と老人から声をかけられた。40代後半の男をつかまえて「にいちゃん」はないだろうと思うが、先にも書いたように、菅笠をかぶると僕は若返るのであるから仕方ない。ていねいに道を教えてもらう。そのあと出会ったおばさんも、親切に教えてくれた。

はるか前方には、八栗寺のある、3つのピークが特徴的な五剣山が見えている。あれを目指していけばいいのだ。ところが、角度の微妙な交差点に差しかかった。尋ねる人もいない。そのとき判断を間違えたらしく、道がだんだん北にそれていく。心配になって足取りも遅くなってきたころ、ようやく通りがかった男性に尋ねてみた。やはり間違っていた。

教えてもらった方向に戻りかけて、ふとみると、小さなお寺の入り口に「四国遍路の父 真念の墓」と看板が出ている。遍路地図にも出ていない旧跡である。道に迷った末に、偶然にもこのような邂逅があるとは…。心ひかれるものを感じながら、しかし、僕はそのお寺に足を止めることもなく、歩き続けてしまったのだ。自分でもそのときの心理は分からない。

真念というのは江戸時代の人だ。二十数回の遍路経験を元に、四国遍路のコースを整理して、道しるべを立て、善根宿の情報も集めて「四国遍路道指南(みちしるべ)」というガイドブックを出版した。それまでも日記形式の書物はあったが、ハウツー物を出版したのはこの人が最初であり、四国遍路の大衆化に大いに寄与したのである。この人のもう一つの著作「四国偏礼功徳記」(偏は正しくはぎょうにんべん)については、浅川泰宏さんのホームページ 『四国遍路研究』に解説と現代語訳が掲載されている。

四国遍路に出る気持ちになることを「お大師様に呼ばれる」と表現するが、このとき、僕は「真念に呼ばれた」のだろうか。今思えば、何かの引き合わせだったのか。歩き遍路をしていると、人や物との偶然の出会いや再会に奇妙な符合を感じ、過剰な解釈を与えようとしてしまう。このときも、何か大いなるものが投げてくれたストライクを見逃してしまったような気がした。

さて、教えられた道を登っていくと、やがてケーブルの駅に到着した。通りかかった小学生の男の子二人が、「おへんろしゃん、どこいくん?」ときく。「八栗寺」「ぼく、歩いて登ったことあるよ。全然疲れへんかったよ。ついて行ってもいい?」と、杖をついて歩くまねをする。誘拐犯に間違われたら困るから「ダメ。ごめんね」。

85番への登り道。売店のおばさんに、呼び止められた。

売店のおばさんの話

今日は志度まで行くん? 岡田屋さん? 予約してあるん? 泊まれるやろ思て、泊まれんかったら何キロも先まで行かなあかんから、そらもうえらいことやし。志度まで行こ思たら2時間はかかるやろ。または、高松まで戻ったりせんならん。
ほんで、岡田屋さんはいくらやて? 6000円くらいか? こう、おかず6品ぐらい付いて?

若い頃は美人で、水商売でもしていたのだろうという感じのはっきりした顔だちのおばさんだった。話しているうちに、下から初老の男性が通り掛かり、おばさんの視線がふっと次のお客をつかまえる構えになったので、早々に立ち去ることにした。ザックかついで、ふうふう歩いて登る人に何か買ってもらおうとしても無理だよん。下りならともかく。

登りに疲れて、小さなお堂の前の石段で休みトマトをかじっていると、ハナイさんが追いついてきた。前後しながらゆっくり登り、ほとんど同時に85番八栗寺(やくりじ)に到着。15時35分。

山門の手前の売店に「岡田屋旅館」の電話番号を記した看板が出ていたが、売店自体は営業していない。あの看板は単なる広告なのか、それともあの売店自体が、岡田屋旅館なのか、サチコさんの話があったので少し不安になる。だが、ともかくお参りが先だ。

16時、八栗寺出発。ハナイさんは次の志度寺近くまで行って野宿するという。「同行二人」の地図では、岡田屋旅館は、八栗寺の300メートル手前ということになっていたが、例の売店はむしろ30メートル手前というところだ。それ以前には旅館らしいものは見当たらなかった。

ともかく、その売店に戻り、ガラス戸から中をのぞくと、テレビを見ながら寝ころんでいる人影が見えた。左時枝に似た奥さんがあわてて起き上がって出迎えてくれた。おお、やっぱりここだったのだ。

学び続ける紳士

岡田屋旅館
岡田屋旅館

まず「お部屋はこちらです」と言われて、トントンと階段を下りていく。「え? まさか地下室?」と思ったら、この建物自体が急斜面に建っていて、客室の窓を開ければ、木立の隙間から眼下に遠くの町が望める。入浴後、客室で、ウグイスのさえずりを聞きながらくつろいだ。6畳間2間の境のふすまを取り払った12畳の角部屋に、涼しい風が吹き抜ける。

食事は、もう一人の遍路客と一緒に頂く。「どちらから?」というお決まりの会話から、僕と同じ横浜の人とわかり、さらに、戸塚区だというので、僕の住む港南区とは隣同士のご近所さんであった。缶ビール1本をゆっくり明けながら、実に楽しそうに話す、68歳の恰幅のよい紳士である。

紳士の話

定年後も少し仕事をしていたが、昨年の6月にすっかりリタイアした。6年前から、いつもこの季節にのんびり歩いている。

去年は終始雨に降られた。レインコート上下とザックカバーを使ったが、どこから漏れたものかザックの中がすっかり濡れてしまい、往生した。納経帳だけは、別にビニール包んであったので助かった。

過去5回は妻と一緒に歩いてきたが、今回は妻が体調を崩したので自分一人で来た。四国が終わったら、奈良、京都、滋賀などのお寺も回ってみたい。

雑誌「プレジデント」で東京国際仏教塾のことを読み、早速入塾して勉強している。「葬儀の社会的意義について述べよ」などといったテーマでレポートを書いて提出する。声明(しょうみょう)の試験もある。修行する宗派は自分で選択できるし、希望すれば在家得度も受けられる。

お四国では、酒なんか飲めないだろうと思っていた。ところが、最初に1番霊山寺の宿坊に泊まったら、「ビールは実費を頂きます。般若湯はご自由にどうぞ」と言って、日本酒の入ったやかんがテープルにどんとおいてあった。そういうわけで結局、その後ずっと飲み続けることになってしまった。

大窪寺へのコースは、女体山を登るかどうか迷っている。日頃スポーツといっても下手なゴルフをやるぐらいで自信がない。遍路を始めた62歳の頃と比べると、足が弱くなったと感じている。

これまでで、一番険しいと思ったのは、須崎の手前、岩不動におりるところ。ロープをつたって下りた。きょうの81番から82番のコースはよかったね。あと良かったのは柏坂。

プレジデント、ゴルフ、などの言葉、そしてその人当たりのよい語り口から、ビジネスマンだったことを感じさせる。68歳にして、なお、仏教塾の門をたたき、学び続けようという意欲に敬服した。

部屋に戻ってテレビをつけると、今日から正式開通した瀬戸内しまなみ海道のニュース一色である。混雑してのろのろ運転の橋の上で早速事故があったとか、トラックの運転手には、依然としてフェリーの方が人気(中で寝られるから)だとか色々言っている。

岡田屋旅館の箸袋

明日は女体山越え、最後の難所である。早立ちしたいので、朝食は抜きにしておにぎりを頼んだ。左時枝に似た感じの奥さんは終始親切で、ご主人も、明日の道順をていねいに教えてくれた。サチコさんの懸念とは裏腹に、この岡田屋旅館は、遍路に慣れて手際よくていねいで、上質の宿であった。

40,016歩、29.3キロ。

掬水へんろ館遍路日記第6期前日翌日談話室