掬水へんろ館遍路日記第4期前日翌日談話室メール
掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 第4期くしまひろし

第5日(5月3日) ホテルオータ〜ふじや旅館(小田町町村)

国道56号
国道56号
7時30分出発。ホテルのフロントが「今日はどこまで歩かれますか」と声をかけてくれる。

雨は昨夜かなり降ったらしいが、もうすっかり上がっている。国道56号を歩いていると、向こうから走ってきた乗用車の40歳ぐらいの会社員風の男性が、わざわざ徐行して窓から首を出し「頑張ってください」と挨拶してくれた。きっとご自分でも遍路をされているのだろうと想像する。

十夜ヶ橋

十夜ヶ橋
十夜ヶ橋
8時10分、十夜ヶ橋。ここは、大洲を通りかかった弘法大師がどこでも宿を断られ、仕方なく、橋の下で夜を明かしたと伝えられる場所で、番外霊場別格8番札所となっている。国道に面しており、他の八十八札所と同様の賑わいをみせていた。お寺のそばの橋の下には横たわった大師像が祭られている。

寝袋を持った野宿の遍路がベンチで身支度をしていた。毎年区切り打ちをしており、今回は4月30日に40番から歩き始めたとのこと。昨夜は大洲の手前のお堂で寝たそうだ。雨に悩まされたようで「今日の天気はどうですかね」と気にしているので、ホテルのテレビで見た天気予報を頼りに「今日は回復するようですよ」と教えて差し上げた。

あるきおへんろさんへ
あるきおへんろさんへ
稲田橋の手前、国道沿いの車のショウルームの前に無人のお接待があった。

あるきおへんろさんへ
食べて下さい→
もう少しで44番のお寺ですね。
がんばって下さい。
と、子供らしい文字で書いてあり、女の子の名前が記してある。クーラーボックスの中には色々な飲物の缶が数本、そして手前のガラス瓶には飴が入っていた。「食べて下さい→」の下には何もなかったが、果物でも置いてあったのだろう。お接待は断ってはならないことになっているので、ジュースを1本頂くことにした。ガラス瓶の中には、先にここを通ったお遍路さんたちが入れた納札が見えている。僕もお接待のお返しに納札を入れておいた。

大きなガラス窓の室内には、四国の地図と納札や御影が掲示してある。国道歩きでは、なかなか人々との触れ合いがないので、この見知らぬ少女の心遣いがうれしかった。

内子

国道は五十崎(いかざき)町をかすめて内子(うちこ)町に入り、国道からそれて農道をたどっていく。うぐいすの鳴き声と、水田のカエルの声が賑やかだ。10時半ごろ、内子運動公園に到着。自動販売機で飲物を買い、事務所脇のベンチで靴を脱いで休憩していると、小型トラックから降りてきたおじさんが、「どこから来たの?」と話しかけてきた。

おじさんの話

横浜? 私の息子も横浜にいるんだ。もう一人は京都。四国では仕事がないらしい。四国は道路がよくなったが、かえって仕事がなくなった。もう長男が家業を継ぐという時代ではなくなった。
このへんの人はよく七ヶ寺参りというのに行く。繁多寺のあたりにかたまっているお寺を1日で回る。八十八ヵ所を全部回るのは大変だ。私のいた300戸ほどの部落でも、昔は遍路をするといったら1人か2人しかいなかった。無事帰ってきたら、村に供養塔をたてるぐらい大変なことだった。

話好きなおじさんで、30分も話していたろうか。おしゃべりも続くが、そろそろ出発しようと身支度をはじめたら「この先の内子の町もいろいろいいところがあるから見て行きんさい」と言って、またトラックを運転して去っていった。どうやら、僕と話をするためだけに車を止めて降りてきたようだ。

内子運動公園を出てしばらくすると、にぎやかな内子の町に入る。レストランや料理屋が並び、観光客らしい通行人も多い。内子町は、江戸時代から和紙と木蝋で栄えた町で、特に、八日市・護国(ようかいち・ごこく)地区という約600メートルにわたる通りには、当時の商家群が当時の面影を残していて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている……ということを僕はこのとき知らなかったので、残念ながら、その保存地区を通らずに町から出てしまった。この知識は、数日後に道後温泉観光センターでもらったパンフレットによって知ったのである。運動公園で出会ったおじさんがわざわざ「見て行きんさい」と言ってくれたのはこのことだったのだろう。

町を出て国道379号に入り、橋を渡ったところに道の駅「からり」があった。昼食用に蒸しパンと苺を買った。

野宿遍路と震災遍路

国道は小田川にそって北上する。道路脇の河原で、十夜ヵ橋で出会った野宿遍路が角材に腰を下ろし、お握りを頬張っているのが見えた。「ご一緒させて頂いてよろしいですか」と隣に腰を下ろした。野宿サンは、広島から来た58歳の男性である。

野宿遍路の話

毎年この季節に歩いている。1回目のときにたまたま一緒になった野宿の人と2回目、3回目も偶然一緒になって前後しながら歩いたが、去年は自分は都合があって来れなかった。彼はもう先に行っているだろうな。
1週間の遍路中は、宿には泊まらず野宿を通す。入浴や洗濯もしない。こんなむさ苦しい恰好では迷惑だと思うので食堂にも入らない。食事はパンやお握りを買っている。野宿の場所は、『同行二人』の地図で選ぶ。電車の駅やバス停は落ち着かないから好まない。お堂がいいね。
明日、ひわた峠を越え、44番、45番を打ち、バスで道後に出て1泊してから5日に帰る。帰りの服はもう道後のホテルに送ってある。来るときも、遍路の装備一式はあらかじめ40番に送っておいた。明日道後で飲むビールが楽しみだなあ。

野宿遍路と震災遍路
野宿遍路と震災遍路
一昨日、どうしても松尾トンネルの旧道が分からず、長いトンネルを30分近く歩いたという。地図よりも手前に入口があるのだと説明すると、「やっぱりね。変だと思った」と悔しがっていた。

野宿サンと並んで腰を下ろし、道の駅で買った蒸しパンを食べていると、真っ黒に日焼けした遍路が歩いてきた。頭には手拭いを巻き、ボストンバックをリュックのように背負っている。手にもった金剛杖でようやく遍路と知れる。野宿サンのほうは前にも会ったことがあるらしく「もう追いつかれたか、早いねえ」とビックリしている。「いや、途中で車に乗せてもらったんだ」というこの人は鹿児島出身の46歳の男性だ。神戸の地震で家を無くしたという。

震災遍路の話

神戸の地震で被害にあって、仮設住宅で朝から酒を飲む生活を続けていた。自分と同じように、働かないで「行政が何とかしろ」と言って、酒ばかり飲んでいる奴がいっぱいいるんだ。ついに肝臓を悪くして一旦鹿児島の実家に戻った。
「これではいかん、心を入れ替えてまじめに働こう、土方でも何でもやろう」と神戸に戻った。飯場に入ってみたが、これがさっぱり仕事がない。飯場では、仕事がない日でも宿泊・食事代で1日3千円かかる。結局赤字になる。
そうなると親方が金を貸してくれるんだが、そんなことを続けていると結局そこから抜けられなくなる。女郎屋と同じ仕組みだ。
それで、遍路でもすれば運命変わるかと思って、四国に来た。野宿で歩きながら、車に乗せてくれる人があれば乗せてもらって、ここまで来た。昨夜は大洲の駅で寝た。大体、駅やバス停で寝ている。
遍路は初めてだが、みんな親切にしてくれて、物をくれたりするのでびっくりしている。こないだなんか、どっかの旅館の近くの河原で洗濯物を干していたら、旅館に泊まっていた団体のおばちゃんたちが、みんなで4千円くれた。
きのう大洲の手前に「焼肉食べ放題1200円」というのがあったろ。食い溜めしてやろうと思って奮発したが、なかなか食い溜めというのはできるもんじゃないね。
こうして回っていると「ウチで働かないか」と言ってくれる人もいる。また、お寺に紹介してくれるという話もあった。遍路中に寺に居ついて庭掃除をしているうちに、だんだん偉くなって、今ではどこかの副住職をしている人もいるという話だ。オレはそこまでする気はない。庭掃除で結構。けど、気が向いたらお経ぐらい読むかもしれないね。まだ決めたわけじゃないけど、結局四国のどこかで働くことになるのかな。

記念撮影をし、納札を2人に差し上げた。震災サンが「何も書いてないのを2枚くれないか」という。それに住所氏名を記入して、私と野宿サンにくれた。40代半ばにして杖1本を頼りに、新しい人生の端緒を探し求める彼に接して、サラリーマンの僕の心の中には、ある種アブない羨望さえ生じるのであった。

明日求め 震災遍路 一人行く

幻のソーメン

3人一緒に歩き出したが、震災サンは疲れているようで遅れがちである。「お先にどうぞ」というので、野宿サンと僕はペースを上げて先に行くことにする。 13時、福岡商店で買物をするという野宿サンとも別れる。僕は宿に泊まっているので、昼飯の心配だけすれば良いが、野宿サンは、常に食べ物を補充しておかないと、夕食や朝食も食いはぐれることになるわけだ。買えるときに常に少しずつ買って、賞味期限を確認しながら消化していくとのこと。

14時半、河口(こうぐち)橋バス停の立派な待合小屋で休憩していると、大きなザックを背負った青年が通り過ぎる。遍路ではない。しばらくすると、野宿サンがやってきた。野宿サンが言うには、先程の福岡商店で買物をしていたら、近所の人がやって来て「村の行事で流しソーメンをやっているから、食べにいらっしゃい」と誘われたという。

野宿サンの話

でも、私は明日中に岩屋寺まで行きたいから、時間に余裕がない。泣く泣く断った。さっきの神戸の人が追いついてきたので、ソーメンを勧めた。でも「オレはいいよ」といって通り過ぎようとする。後ろから「只だってよ」と言ったら「それを先に言ってくれよ」とイソイソと食べにいったよ。私も時間があればなあ。残念だったなあ。

それを聞いて、僕もすこぶる残念である。昼間は暑いので、歩いていると昼食には温かいものよりはソーメンのようなさっぱりしたものが食べたくなる。だが、この2〜3日、なかなかその機会がなかったのだ。惜しいことをした。

「野宿なんだから少しぐらい道草してもいいのでは?」と尋ねたが、帰りの日の日程まで考慮すると、なかなか自由にはならないという。区切り打ちのつらいところだ。お互い、尻の決まっていない気ままな旅をしてみたいということで意見一致した。

野宿サンは、近くの自動販売機で500ccのアクエリアスを買ってきて、持参の1リットルのペットボトルに補給すると、「先を急ぐから」と早々に歩きはじめた。僕も身繕いをして出発。ところが、先に行ったはずの野宿サンが、梅津橋のたもとの三叉路でキョロキョロしている。道標が分かりにくいらしい。二人で地図を検討し、確認してしばらく一緒に歩く。16時、突合バス停で道は左右に分かれている。野宿サンは左に行き、7キロ先のお堂で泊まり、明日、標高790メートルのひわた峠を越えて44番・45番と行く計画だ。僕は右道を行き、5キロ先の旅館で泊まり、明日は新真弓トンネルで山越えをして、45番から先に回る計画だ。歩き遍路ではこの順番の方が楽だと言われているし、同じ道を往復しなくて済む。

「もしかしたら、44番と45番の間あたりですれ違うかも知れませんね」と再会の淡い期待を言葉にしつつ、お互いの無事を祈って僕たちは別れた。

まさかの再会

自転車遍路と再会
自転車遍路と再会
野宿サンと別れて10分ぐらい歩いたとき、自転車に乗った遍路が追い抜いて行った。お互い「こんにちは」と声を掛け合い、そのまま行きかけた自転車遍路が10メートルほど先で泊まって、こちらを振り返った。何だか見覚えのある人だ。近づいていくと、自転車遍路が僕を見つめて「お宅は……」と思い出すように言う。その声でパッと思い出した。年末に足摺岬への道で出会った岡山のコンドウさんだ。あのとき、「今回は35番から歩き始めたが足が痛いので自転車を買った。でも登りはきつい」と言って、だらだら坂を自転車を押して歩いていた。あのときは、40番まで行くと言っていたが、この連休で続きを回っているのだ。

自転車遍路の話

昨夜、12時半に宇和島に電車で着いて、41番から回ってきた。今は眠くて仕方がない。
今、通り過ぎてから、何故か気を引かれて止まってみた。やっぱりお宅だったんだ。

お互い区切り遍路でいて、しかも、「歩き」と「自転車」という速度の差もあるのに、再会できるとは何という奇遇であろうか。「写真を撮らせて下さい」とカメラを向けると、彼はさっと合掌された。さすがに、信心のために遍路をしている方は違う。僕が気軽な遍路をしていることに、多少のやましさを感じるのが、こんなときだ。

そんなことを思っていたからなのかどうか、また一人になって歩を進めているとき、地面に映る自分の影に気がついた。笠、杖、背中の大きな荷物がつくり出すシルエットは、普段、カバンを下げて街を行く自分の影とは全く異なる非日常を映し出している。この形は典型的な弘法大師の形でもある。最初の遍路のときから、この影を見るたびに「遍路である自分」を意識した。

今回の遍路は4度目で、もう後半に差しかかったということから慣れがあり、また、高知とは違った変化のある道筋に気をとられていた。今日、5日目になって、改めて「お前は遍路だぞ」と、僕の影を借りた弘法大師から念を押されたような気がした。

小田町の集落に入っていくが、この付近は新道と旧道が入り組んでいて分かりにくい。畑で作業中の老人に道を尋ねた。耳が遠いらしく、大きな声で何度も呼びかけてやっと気づいた。補聴器を調整して何とか会話できるようになると、丁寧に道順を説明してくれた。老人の言う「明かりが点いたり消えたりしている警察のナニ」というのは要するに交通信号のことらしいと気づくのにだいぶ時間がかかった。

ふじや旅館の客室
ふじや旅館の客室
17時10分、ふじや旅館着。

古い建物だが、6畳の客室に3畳の小間もつき、床の間、かざり棚、縁側の揃った立派な作りである。畳が本間サイズなので6畳でも8畳ぐらいに感じる。何度か改築・増築をしているらしくこの客室部分は昭和に入ってからの建築だそうだ。「今考えれは、広くて無駄な作りだが…」とご主人は言うが、お客の立場から言えばなかなか気持ちがいい。

51,023歩、31.8キロ。

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