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掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 2004年春

赤い糸

    5月3日(月・憲法記念日)

    予報では、焼山寺越えのこの日、悪天候が予想された。だが夜が明けてみるとしばらく降りそうにない。

    鴨島の宿を出て商店街を歩いている途中、立ち止まって靴ひもを締め直していると、昨夜同宿だった若い女性が追いついてきた。話をしながら、藤井寺まで一緒に歩いた。実は、僕は昨日から彼女をひそかに「るるぶさん」と名づけていた。四国八十八ヶ所特集の雑誌を始終持ち歩き、札所の中でも首っ引きで行動していたからだ。実際はその本が『るるぶ』かどうか確認したわけではないが、そういう類の雑誌サイズの大きな本だった。「一昔もふた昔も前に、京都や津和野に見た光景だ」と思った。

    でも、今日はその本を持っていない。僕は、女性の顔を覚えるのが極めて下手なので、ひょっとして人違いかも知れない。「るるぶか何か持ってた人ですよね?」とわざわざ確認してしまった。

    確かにるるぶさんには違いなかったが、これから山道を歩くので、本はザックに仕舞ってあるという。「珍しいので目につきました」という思いを口にすると、「私は、事前に何も勉強しないで来たから…」とのこと。考えてみると、僕なんか今もって何も勉強していない。ご本尊が何であろうと唱える真言を選ぶときに気にするぐらいで、何も見ないで次のお寺に出発してしまう。その意味では、るるぶさんは現地できちんと確認しながらお参りしているわけで、大したものだと思った。それに、僕が「藤井寺はこっちでいいのかな」と地図を確認しようとすると「昨日あの建物を右に見て下りてきたから、この方角で行けるはず」と、足取りが確信に満ちている。方向感覚が、僕よりもはるかに確かだ。

    柳水庵では、休憩する遍路でベンチが満席だった。僕も早めの弁当を開く。そこへ、白装束の若い女性が「前にどこかで会ったことはありませんか?」と話しかけてきた。

    繰り返すが、僕は女性の顔を覚えるのが下手だ。だが、改めて顔をじーっと見ると、初日に3番金泉寺で見て、4番大日寺への道ですれちがった、髪の長いザックの大きな女性のような気がする。あのときは帽子なしで歩いていたので、つい声をかけたのだった。その後のお寺で装束をそろえたのであろう。菅笠に白衣を身につけ金剛杖を持って、すっかりお遍路さんに変身していた。

      「ああ、4番の近くで会った方ですね。今日は白装束なので気づきませんでした。」
      「いや、もっと前に…」
      「そういえば3番でも見かけました。」
      「いや、もっと前に…」
      「え? じゃあ、遍路に来る前かな。どこからおいでですか? 私は横浜ですが…」
      「北海道からです。」
      「接点がないですね。他人の空似では? もしかしたら二人は赤い糸で結ばれているのかもしれないなあ。」

    一応ととぼけてみたが、僕の心の中では警報が鳴り始めた。ホームページか本で僕の顔を見て、うっすらと記憶に残っているのではないだろうか。

    最近は「掬水へんろ館」が知られたおかげで、遍路中に僕の素性もすぐにばれてしまう。別に秘密にする理由もないが、無名の一遍路として行動したい。だから、サイトにも書かずにひっそりと出発して来た。彼女が思い出しませんように…と願いつつ、さりげなく会話を打ち切った。

    でも、実は言えば、初日も2日目の昨日も見抜く人はいた。

    安楽寺では食事のとき近くに座った方が、食後に声をかけてきた。
    「失礼ですが、くしまさんではありませんか?」
    「え? いや、あの…そうですけど」

    翌日は、切幡寺に向かう道筋で結願してお礼参りに1番に戻る方とすれ違い、「結願ですか。おめでとうございます」と挨拶すると、いきなり
    「失礼ですがお名前は?」
    「え? いや、あの何か…?」
    「ひょっとしてくしまさんでは?」
    僕の顔はそんなに目立つのだろうか。ホームページの写真にはモザイクでもかけておくかな。

    焼山寺へは13時半ごろ着いた。先着の歩き遍路たちも、すでに納経を済ませて休憩している。「遍路ころがし」という呼び名に恐れをなして慎重な行程計画を立て、この宿坊に宿泊予約をしていた人も多いようだ。だが、時間も早いし、今晩から明日午前にかけて天候の悪化が予想されることから、今日中に山を下りようと計画変更を試みる人もいた。しかし、ふもとの民宿はどこも込み合っており、中には運良く予約できた人もあったが、あきらめた人も多い。

    山に残る人、下りる人…。連休初日の5月1日から、相前後して移動してきた顔なじみ集団も、今晩あたりからそろそろ分散し始める。お互い「じゃあ、ここでお別れですねぇ」などと名残を惜しむ。そうこうしているうちに、昨夜同宿だったご夫婦と、今更ながら互いに名乗りあうなりゆきになった。小声で「くしまと申します」と言ってみたが、格別の反応もないので一安心。「携帯電話も使わないアナログ人間」と自称しておられたのでネットにはなじみがないのだろう。

    ところが、近くで先ほどの赤い糸の女性が聞いていた。
    「やっぱりネットのくしまさんでしょ。3番で最初見たときから絶対そうだと思ってた。」
    なんだ、やっぱりバレてたのか。

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