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掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 2001年夏

マントラ

道後温泉は観光地だから、宿選びに苦心する。知らない宿に料金を尋ねるのが怖い。その点、雲さんの遍路日記で知った道後ビジネスホテルは手頃である。素泊まり4500円。客室内のバスも元湯から引いてあるし、館内の岩風呂風の広い浴室も温泉だ。道後温泉本館まで歩いて数分。ホテル内の風呂で汗を流し、温泉本館でもう一度ゆったり温泉を堪能して、夕食は本館前のおいでん家で1000円の海鮮丼。近くのローソンで明日の朝食を買っても、合計して民宿の1泊2食の料金と変わらない。

もっとも、この日、僕は散財してしまった。猛暑の遍路も終わり近い。当初覚悟したほどの単なる苦行でなく、セミの声に包まれた札所での読経を楽しみ、多くのお接待に心を癒され、気が緩んでしまったらしい。

道後温泉本館で湯につかったあと、おいでん家の座敷に座りこむと俄然食欲が沸いてきた。今回の行程では最長の36.4キロを歩いたせいもあるだろう。刺身盛り合わせのほか、店員の勧めるいくつかのメニューを注文し、道後ビールを心ゆくまで味わったのであった。

「遍路中は禁酒」の原則はどこにいったのか。実は、禁を犯すのはこれが初めてではない。1巡目のときは完全に禁酒していたが、妻と始めた2巡目はあまり厳格でない。「区切り打ちなんだから、今夜はここで打ち止め。また明朝、打ち始め」などといいかげんな理屈である。ただ、他人の前で「禁酒している」と公言しておけば、とかく毎晩飲みたくなる気持ちを抑える役には立っている。

ビールのあと、四国のあちこちで見て前から気になっていた「弘法大師」なるお酒も味わってみた。1杯の升が空になるころには、1週間ぶりのアルコールで頭がしびれてきたのを自覚し、早々に宿へと引き上げることにした。

最終日は、ゆっくりと起きた。53番円明寺まで行って、近くのJR伊予和気駅から一路帰宅の途につくだけだから問題ない。一応、松山空港発の最終便を予約してあるが、時間の具合でもっと早い便に変更するつもりである。

8時過ぎにホテルを出て、ゆっくりと52番太山寺を目指した。1巡目のときは「古三津回り」という南寄りのコースを選んだが、今回は「安城寺回り」という北寄りのコースをとってみた。距離的にはあまり差がないようである。

住宅地や工場地帯の多い「古三津回り」とは違って、この「安城寺回り」コースでは川沿いや水田の間の歩きやすい道が続き、雰囲気がかなり違う。少しでも立ち止まったり、キョロキョロしたりすると必ず誰かが近寄ってきて道を教えてくれる。実際に両方を歩いてみて、今回歩いた「安城寺回り」の方が絶対にお勧めだと思う。

52番太山寺でお参りをすませて、ベンチで休憩していると、大きなバッグをふたつぶら下げた遍路が現れた。金剛杖と汚れた白衣で遍路と知れるが、荷物はザックではなく、大きな手提げと大きなショルダーバッグである。頭は麦わら帽子だ。

この方は、京都の塩川和之さんだ。以前、11カ月かけて四国を二回りし、今回は事情があってまた遍路に来たという。通夜堂などに泊めてもらいながらゆっくりと回っている。「下の保育園の園長から頂いた」という缶ジュースやゼリーをおすそ分けして下さった。ちょうどお昼時で二人で昼食をとりながら、初めて托鉢をなさったときの体験など、色々なお話をうかがった。塩川さんは食パンを主食に密閉容器に入れたおかず。僕は昨夜ローソンで買ったサンドイッチだ。

サンスクリット語のマントラを研究されているようで、大きなバッグの中には本やノートも詰まっているらしい。「納札代わり」と言って光明真言についての考察を記したレポートを下さった。裏面に「念呪7月29日十夜ヶ橋下1000回」と書いてあった。10日以上前の日付である。相当のローペースで歩んでおられることがわかる。

僕がそろそろ今回最後の札所に向けて出発しようと立ち上がると、「供養させて頂く」といって、念珠を手に僕の向かいにたった。般若心経を唱え、最後にマントラ(真言)をサンスクリット語で3度繰り返した。マントラの最後には大声で力を込めて「フームッ」と気を送ってくる。3度目には僕のみぞおちの当たりがぼわっと熱くなった(ような気がした)。

実に色々な人が、四国を歩いている。

今回最後の札所、53番円明寺の山門では、若い僧が托鉢をしていた。お参りを済ませた後、硬貨を彼の托鉢鉢に入れようと近づくと、彼はちょうど携帯電話を開いてメールのチェック中。お互いいささかバツの悪い感じだが、こちらも喜捨を途中でやめるわけにはいかない。唱えてくれる「南無大師遍照金剛」の繰り返しも、先程の塩川さんのマントラの重厚さとは比べようもなく、御利益半分といったところであった。

終わり
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