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掬水へんろ館四国遍路ひとり歩き 2001年夏

すいか(2)

柏坂の下りのミカンのお接待で喉の渇きをいやし、同時に心もいやされて腰をあげ、国道への道をたどっていくと、今度は道沿いのお宅から声がかかった。「お遍路さん、すいか食べていかんか」。

お年寄り夫婦が待ち構えていた。「お遍路さんが通ったらすいかを切ろうと思うて待っとったんじゃ」という。あえて「お接待する」と意識するような行為ではなく、自分の家の畑でとれたすいかがあるから、「お遍路さん、一緒に食べよう」というごく自然な行為なのだ。まさしく生活の中にお遍路とのふれあいが入り込んでいる。

僕はもはや来訪者ではなく、彼らの生活の一部に組み込まれているのを感じる。それも、ただ単に菅笠をかぶり金剛杖をついて歩いているという姿のみによって、瞬間的に信頼されるのである。この道は、車の遍路は通らない。歩き遍路だからこそ、そして喉の渇きに耐えて峠越えをしてこそ、このご夫婦、木田高一さんご夫妻と縁を結ぶことができるのである。

翌日(8月6日)もすいかのお接待を頂いた。41番龍光寺から42番仏木寺までは1時間程度であるが、日陰のない県道が長く感じられる。いよいよ仏木寺に近づいたところで、県道から少し奥まった家の土間からおばあさんが僕を手招きする。「すいかを切るから」という。内心、歓喜である。もちろんお寺に着けば自動販売機もあるだろうし、宿もお寺から数分である。だが、やはりすいかはうれしい。すいか半玉を4つに切って「さあ、遠慮なくお食べ」という。

種入れのバケツを前にかぶりついていると、おばあさんは、僕が脱いだ菅笠をかぶってしきりと手を合わせている。次に金剛杖を持って自分の背中にこすりつけている。遍路の功徳を頂こうというわけなのだろうか。僕のようなお気軽遍路では、たいした功徳も得られないかもしれないが、このおばあさんにとっては、「お接待」は無償の行為ではなく、明らかにギブアンドテイクなのだった。

初日の宿で頂いた分も含めて3日連続で、すいかをたっぷり頂いたことになる。

2切れも食べると、そろそろ満足である。だが、おばあさんは、「あんたのために切ったのだから全部お食べ。なかなか食べられんじゃろ」という。食べないと許してもらえない雰囲気だ。だけど何か話しかけてもおしゃべりするわけでもなく、すいかを食べる僕をじっと見つめているだけなので、少し圧迫感を感じてきた。3切れ目を片づけ、もう入りませんというと、ビニール袋に入れて持たせて下さった。「今夜はそこで寝るのじゃろうから」という。仏木寺で野宿するものと思っているらしい。とうべやさんでゆっくり泊まって食事も頂くのだとは今さら言い出せない。

すいかはありがたく頂戴して、お宅をあとにしたのであったが、お接待の周辺にはこのような認識ギャップがあって心苦しい場合もある。

初日、宿の近くの店で翌日の早立ちのためパンを2つ買ったときのことである。店の奥さんが、牛乳パックを1個そっと追加してくれた。90円と110円のパン。それが今夜の僕のささやかな夕食なのか、と哀れに思って下さったのかもしれない。まさか近くの「宴会場・仕出し」の看板を掲げる旅館にゆっくりと泊まるとは思われなかったのであろう。だからといって、その誤解を正すための弁明をしたところで何になろう。「お接待」をして下さる彼女の気持ちを傷つけ、当惑させるだけのことと思う。ありがたく頂戴して店を後にした。

しかし、僕の心の中では負い目になる。四国ではこのような「借り」をたくさん作ってきた。この「借り」をどのようにして返したらよいのだろうか。遍路体験を書き綴り、また情報サイトを運営することに熱中するのも、何とか僕なりの方法でこの「借り」を返したいからだという気がする。しかし、そうした行為を繰り返しても「借り」の大きさを確認するばかりだ。そればかりか、再三四国に来て歩き、さらに「借り」を増やしている。この「借り」は死ぬまでかかえていく宿命にあるのだろう。この「借り」が大きい分だけ、凡庸の決意だが「より良く生きよう」という気持ちが支えられる。

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