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掬水へんろ館四国遍路のすすめ - 現代的意味くしまひろし

現代、歩き遍路は年間1000人

現代、年間10〜20万人の遍路が四国を巡っています。その大半は車やバスを利用していますが、中に1000人程度の歩き遍路がいます。遍路の動機としては、「家内安全」、「祖先や死者の供養」というのが定番ですが、歩き遍路の場合は、これらに加えて「修行」とか、さらに宗教的な意味合いを全く離れて、単に歩くことを目的とするもの、「自分探し」や「癒し」といった精神的なもの、自己鍛練など、実に様々です。

遍路と単なる旅行者をへだてるものは、その服装でしょう。遍路の服装の基本は白装束と金剛杖です。菅笠、手っ甲・脚絆となると、もっと本格的になります。現在でも、遍路の多くはこうした装束を身につけ、四国の街や山を歩いているのです。都会では奇異に見えるこの姿も、四国においては風景に溶け込んでいます。

色々な動機で遍路に旅立つ人がいますが、多くの場合、事前に期待した以上の満足感を得て帰って来るようです。悪路・悪天候や体力との戦いと、その克服など、自分を中心とした体験の重みもあるでしょうが、多くの人に共通する感動の一つが「お接待」に代表される地元と人々との触れ合いです。

「お接待」

「お接待」とは、遍路に対して地元の人々が食べ物などをプレゼントすることです。昔は自動販売機もコンビニもなかったので、こうした施しによって、遍路はかろうじて生き抜くことができたわけです。米やちり紙も、重要な「お接待」のアイテムでした。一方、地元の人々にとってみると、遍路は弘法大師の身代わりでもあり、また自分たちに代わって遠方の札所でお参りをしてくれる、宗教的な価値をもった存在であったのです。したがって、彼らが差し出すものは、難渋している者に対する援助であるだけではなく、仏に対する喜捨でもあったわけです。

この「お接待」の風習は、今も生きています。車やバスではなかなかその機会がありませんが、歩いて遍路をしていると、通りすがりの家から、またすれ違った人から「お接待」を受けることが多々あります。また、遍路装束を身につけているだけで、「お遍路さん」として認知され、受容され、道を教えてもらい、あたたかいあいさつを交わすことができるのです。自己主張を通して自分の居場所を獲得・維持していかなくてはならない現代的ライフスタイルとは、かなり隔絶した体験です。

四国遍路がもたらすもの

こうした特異な体験を通じて、自分自身や文化・社会のあり方に、新たな視点を持つことができるという点が、四国遍路を体験することの現代的な意味だと思います。それは、昔の人が祈願したものとは少し違って、自分自身の内面に残るものです。

その意味においては、四国遍路の宗教的な要素、すなわち、遍路の服装をすること、寺院において線香を炊いたりローソクをともすこと、お経をあげることなどは本質的ではないことのように見えるかもしれません。でも僕はそうは思いません。実は、こうした「形」を通して遍路習俗に同化することによって初めて、上で述べたような体験が得られるのです。無信仰の人も、いやキリスト教の信者でさえも、四国遍路の間だけは、にわか真言宗徒となって、何かを得ているのです。

僕は真言宗徒ではないけれど…

そう書くと、ふだん宗教とは無縁の生活をしている人にとっては、何か面倒なことのように思われるかもしれません。確かに、札所での標準的な巡拝の仕方はこういう順序で…とか、数珠は左手に持ってというようなルールはあります。しかし厳密にそうしたことに従わないといけないというものでもないのです。見よう見まねで、88箇所を回るうちに本物になってくるのです。札所では般若心経というわずか266文字の短いお経を唱えるのが普通ですが、これさえ、「経本」を見ながら唱えるのが普通です。前もって覚えておかなくてはならないというわけではありません。お経などあげないで、ただ手を合わせるだけでもよいのです。

実を言うと、僕自身も遍路に出るまでは、お葬式で線香をあげる以外、全く仏教とは無縁の生活をしていました。家には仏壇もありません。さらに白状すれば、小学校はミッション系だったりします。それに、遍路をするようになったからといって、仏教徒になったつもりはありません。初めのうちは、お経なんて恥ずかしいのでただ手を合わせていただけでした。また、仏教徒でもないのに、仏教の作法に則った祈りを捧げることは、自分自身にとっても、また敬虔な仏教徒の方々に対しても冒涜のような気がしました。でも、一つ一つの札所をめぐり、同じように模索を続ける遍路たちと出会ううちに、「形を合わせる」ことの意味が少しずつわかってきたような気がします。元々、神道で結婚して仏教で弔う日本の宗教観は、こうした寛大なものであったはずです。だから、遍路の間は、なるべく仏教の作法にしたがって行動し、何者かしれないものに祈りを捧げて、少し内面が変化したような心持ちになって、人々との触れ合いで心をあっためて、帰ってくればいいのではないでしょうか。

四国遍路は、思い立ったら(これを「発心(ほっしん)」と言います)、誰でもできる修行であり、心のダイエットなのです。ひとりでも多くの人と、この希有の体験を共有したいものです。

しかし、「遍路に出る」といっても、多くの場合はある日突然世捨て人となって四国を回り続けるというのではなく、社会人としての生活を維持しながら、その一方で遍路にも挑戦したいというのが普通です。そのためには準備と工夫が必要になります。→次へ

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