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世間の目 なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか
佐藤直樹世間の目 なぜ渡る世間は「鬼ばかり」なのか (光文社,2004年)
ISBN4-334-97442-2

西欧的な「社会」という概念と、日本における「世間」との違いに着目して、日本人独特の思考や最近の不可解な殺人事件の「意味」を説明しようとしています。「世間」の境界を越えた人間同士の非合理的な距離感については、中島梓『コミュニケーション不全症候群』が「病的」とみなしているのに対し、本書では「世間」の原理から当然もたらされるという説明を与えています。

「社会」と「世間」の対立というのは、前著『「世間」の現象学』でも提起された点です。僕たちが育ってきた当時は、学校で習うことと家庭で語られる言説との食い違いを、単純に「本音」と「タテマエ」の共存という仕組みで理解しようとしたものです。実は「世間」もタテマエなのであって、日本全体が「社会」・「世間」・「本音」という3重構造になっているような気がします。

本書によれば「世間」を構成する原理のうちで一番大事なものが「贈与・互酬の関係」だということです。著者は各人が「私の世間学」を立ち上げることを勧めているので、四国遍路の体験に当てはめて考えてみました。

すると四国遍路に残る無償の贈与としての「お接待」の入り組んだ構造が見えてきます。「お接待」は基本的に見返りを求めない特殊な贈与であり、日常的な「世間」が綻んだ世界が現出しています。そこが、遍路にとっての解放感の原点でしょう。

しかし、基底には弘法大師を媒介とした超時的な互酬関係があるとも考えられます。その結果、「お接待」をする者とされる者の価値認識のすれ違いが生じ、それが幸運なことに、世間の内と外の境界領域のような、かなり規範自由な空間をもたらしていると思います。実はこのようなすれ違いは、遍路と住民の間だけでなく、歩き遍路と車遍路、遍路と寺院組織の間にも見られます。

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